第八話
「助かった。」
軽自動車の後部座席で竜杜は肩の力を抜く。
なんの、と早瀬加津杜は呟いた。信号が赤に変わったことに溜息をつき、ハンドルに手を添えたまま髭を指先でなぞる。
「あの辺一帯、停電らしい。駅のこっちは送電ルートが違うのかな。」独り言のように呟く。
近くでパトカーのサイレンが鳴っているのは、その停電騒ぎのせいだろうか。すでに公園から離れているので、とがめられる心配はないだろう。
暗がりで判りにくいが、今の彼の表情に喫茶店の店主としての穏やかな笑顔はない。前を見据える瞳も、全身に漂わせている緊張感も昼間とはまるで違う。
「妙な感じがあったんでな。そうしたらフェスと出くわした。あれは…」
「人を取り込んでいた。」
「だから今まで見つけられなかったのか…」
それより、とミラーに映る都を心配する。
狭いシートなので、必然的に竜杜が都を膝枕する形で支えている。血の気のない顔にきゅっと瞳は閉じたまま。それでも、呼吸は徐々に規則正しく戻って来ている。竜杜が羽織っていたウインドブレーカーを掛けているが、顔まで跳ねた血の跡は隠し切れていない。
ぽつ、とフロントウィンドウに雨粒が落ちてきた。
雷の音もひどく近い。
「何とか命は繋いだ。」
「ここでは大気の力は当てにならんぞ。」
「一族の力。」
え?と思わず振り返る。
「お前…まさか…」
「契約をした。他に方法が思い付かなかった。」
「彼女は同意したんだろうな。」
「その余裕もなかった。」
信号が変わった。
アクセルをゆっくり踏み込む。
「説得できるのか?」
返事はない。
ルームミラーに映った竜杜は、膝の上の少女を見下ろす。
ひどく辛そうなその表情に、加津杜はそっと溜息をついた。
ひどく喉が渇いて、ぼんやりと目を覚ました。
時間感覚もない。それに。
(どこだっけ…?)
都は首を動かして辺りをそっと伺う。
かろうじて理解したのは、自分はベッドに寝ているという事実。部屋が完全に暗がりでないということは、すでに朝なのか。それに雨音。
身体を動かし、何とか上体を起こすがひどくだるい。
頭を手で支えながら部屋を見回す。
クローゼットに小さなライティングデスク。殺風景ではないがこざっぱりしている部屋に、全く見覚えがない。
どうしたんだっけ?と記憶を引きずり出す。
確か黒い靄に襲われて、竜杜さんが助けに来てくれた。それから?
「そうだ!傷…」
ひどく咬まれて出血した。それを確かめようと自分の体を見下ろす。シャツのボタンを外そうとして、違和感を覚えた。
「えと…逆?」
ボタンの向きが普段の寝巻きと違う。
「それに、おっきぃ…」
袖まくりしているが、それでもかなりのオーバーサイズ。強いて言えば、男物のシャツを着ているような感じ。
混乱する。
と、扉が開いた。
「気がついたか?」
「竜杜…さん…?」
どうして彼がここにいるんだろうと、ぼんやり考える。
「ええと…」
戸惑う都に構わず、竜杜は彼女の額に手を当て、腕を取って脈を確かめる。
「具合は?目眩とか頭痛とか…」
「だるい…です。それと眠い…」
「貧血だな。随分と奴に血を吸われたから。」
でも良かった、と大きく息をついて彼女の手を自分の掌で包み込む。その暖かさに、都は言いようもなく安堵する。
「今、何時ですか?」
「まだ朝。八時頃、か。」竜杜がカーテンを開ける。
「ここって…」
「俺の家だ。まさか血だらけのまま放り出すわけにも行かなかったから…。」
「血だらけ…」
「夕べの事、覚えてるか?」
「夢じゃ…ないんですよね?」
竜杜は頷く。
「ええと、また助けられちゃいました?」
うん、まぁと歯切れの悪い返事。
都も、あれ?と気づく。下着はそのままだが、シャツは明らかに都のものではない。それが意味するところは…。
「ひょっとして着替えって…」恐る恐る訊ねる。
「俺がした…っておい!」
答えるより先に飛んできた枕を、竜杜はひょいとよける。
都は毛布を被って、うわん!と声を上げた。
着替えをしてくれたと言うことは、すなわち下着姿を見られている。もちろん見られて減るものではないが、貧相な身体を見られたかと思うと、とてつもなく恥ずかしい。
と、
「何、愉しそうなことしてるんだい?」
聞こえたのはこの場にそぐわないノンビリとした、そして聞き覚えのある声だった。
都は慌てて毛布から顔を出す。
状況の判らない顔がうん?と二人を見比べる。
「マスター…?」都が呟くのと同時に、竜杜が「父さん」と呼んだ。
「ごめんなさい。助けてもらったのに、失礼なことばっかり…」
真赤になって俯く都に早瀬は笑顔で「いやいや」と応える。
「名乗ってなかったのはこちらのせいだし、見ての通り、あいつは母親に似たものでね。」
それよりも、と勧められたカップを都は手に取る。口をつけるとハーブの香りと、ほんのりとした甘さが広がる。何より指先に伝わる暖かさが心地よかった。
早瀬家のリビング兼ダイニングで、都は借りたスウェットの上下を羽織ってテーブルについている。それもオーバーサイズではあるが、借りた体操着だと思えばシャツよりはマシだ。
竜杜は外出したので、フリューゲルの店主であり竜杜の父親である早瀬加津杜と二人である。
リビングダイニングと言っているが、ガラス張りなのでサンルームに近い。かといって洋風なのではなく和風建築で、まるで縁側の延長にいるような不思議な空間だ。その証拠にダイニングテーブルの背後には和室がスッポリと納まっていて、今は襖が閉まっているが、開けば一つの部屋になるらしい。使い込まれた柱や欄間を見れば、ここも古い建物なのだと想像がつく。
そうして縁側の先、ガラスの向こうに目を向ければ、昨今では珍しい芝生の庭。その庭を囲むように、左前方にもう一つ建物があることに気が付いた。
「もしかして、ここってお店と同じ敷地…」
「入り口は違うけどね。」
隣近所に比べて奥行きがある土地なので、二つの道路に挟まれているのだと言う。だから商店街に面した東側は店の入り口、西側が住まいである母屋の入り口になっている、というのが早瀬の説明だった。
「世話になってるって…自分の実家だったんだ。」
「少しは、食べられるかな?」こんなものしかないけど、と言って早瀬が用意してくれたのはおにぎりと味噌汁だった。
出汁と味噌の香ばしい香りが立ち上る。
ありがたくいただくと、ようやく体温が戻ってきた感じがした。
都が落ち着いた頃を見計らって、早瀬もマグカップを手に彼女の向かいに座る。
「昨夜のことは覚えてるかい?」
「はっきりとは…何がなんだか判らなくて…」
「君は殺されそうになった。」
都は頷く。
「でも竜杜さんが助けてくれました。あれは…」
「黒き竜、と我々は呼んでいる。」
「黒き竜…ですか?」
「大昔の、とある怨念が長い年月をかけて復活した…とでも言うのかな。」
「怨念?」
「のようなもの。気配は何年か前からあったが…まさか人に寄生して、誰かを襲うまで成長していたとは思わなかった。傷は?」
「え?あ…今は何ともないです。」
洗面所を借りた時に鏡を見たが、傷ひとつなく綺麗に治っていた。
そうか、と早瀬は深い溜息をつく。
その仕草が気になった。
「あの…わたし、物凄くご迷惑かけたんじゃ…」
「ご迷惑と言うか、面倒に巻き込んでしまったのは我々の責任だ。ただ不思議なのは、どうして君が狙われたのか。」
「それは、わたしにも判りません。」
なにか言われたのは覚えている。けれどあれは言葉だったのか。助けられた前後の事を思い出そうとして、細かい事が全く思い出せないことに自分で愕然とする。
「すみません。」
「無理しなくていいよ。」と早瀬は優しく言う。
「それだけショックだったんだ。だがなぜ契約が成立したか。こちらの世界では、ありえないと思っていたが…」
契約?と都は首をかしげる。
「竜杜に助けられた時に言われたこと、覚えてるかい?」
それはかろうじて覚えている。
「ええと、なんだか呪文みたいな言葉、聞きました。それと名前を言えとか…」
「それが契約だよ。」
「何の契約ですか?」
だが早瀬は答えない。
「契約が成立すれば、力を相手に与えることができる。」
「力?そういえば一族がどうとか…」
「本来なら竜を召喚し、それを操るのが一族の力だ。強靭で大きな力。」
突然飛び出した意味不明の言葉に、都は目が点になる。
「あのぉ…ファンタジーは苦手なんですけど…」
ああ、と早瀬は顔を上げた。
「つまり、竜杜の持つ特殊な力を君に分け与えたことで、君は命を繋いだ。」
はぁ、と都は目をぱちくりさせる。
「そんなこと、できるんだ。あ、でもその契約って代わりに命を寄越せとか?」
「悪魔じゃないんだから。」早瀬は苦笑する。
「我々の契約は一生を添い遂げること。」
「添い遂げる…ですか…」声に出して言ってから、意味を考える。
「えぇ!」気が付いて、思わず大声を出した。
「添い遂げるって…それって…それって…」
意味を理解して都は真赤になる。
早瀬は困ったように髭に触れた。
「うん、まぁ…早い話が結婚だねぇ。」