第六話
その後も何度か、彼とは同じ場所で会った。話すのは他愛ないことだが、訊かれることもあって都は自分のことを少しずつ喋った。
学校のこと。母親がすでに亡くなり、一緒に暮らしている保護者が仕事で一時的に海外に行っていること。写真は母親の影響で、小さい頃から遊びの延長で撮っていたこと。
「あんまり、進歩してないけど。」と付け足す。
心のどこかで同情されるのが嫌で友達に話さないことも、不思議と竜杜相手には話すことができた。ずっと年上というのもあるが、自分をよく知らない妙な安心感があった。
どこかぶっきらぼうで口数が少ないのは相変わらずだが、出会った当初の警戒心が薄れてくると、急かされないテンポが都には丁度よかった。何より彼は都が言葉に詰まっても、黙って聞いていてくれる。口を挟むことなく、都が言葉を見つけ出すまで待っていてくれるのだ。
それに時折見せる優しい表情。最初は意外だったが、今ではそんな表情を見ると少し嬉しくなる。
いずみや奈々に話せば冷やかされるに決まっている。けれどそんな関係ではないし、
そもそも竜杜との会話はロマンティックとも流行ともまったく無縁なことばかり。
ある時、思いついたように竜杜は都に訊ねた。
「フリューゲルの意味を知ってるか?」
知らない、と都は首を振る。
「ドイツ語で翼という意味だそうだ。」
「あのマスターがつけたんですか?」
「いや。先代の店主がつけたそうだ。」
「翼…ですか。やっぱり空が好きだったんでしょうか?」
竜杜は曖昧な笑みを浮かべる。
「俺はいい名前だと思う。あの場所にふさわしい名前だ。」
そう言えば、と思い出す。
「都の写真、店に飾ってあった。」
「本当ですか?」
竜杜に名前で呼ばれたのも嬉しくて、思わず笑顔になる。
「わたしが名前で呼んでるのに、木島さんって呼ばれるの不公平だと思うんです。」
そう言い出したのは自分だ。友達は「都」とか「みやちゃん」と呼んでいる、と言ったら彼が選んだのは前者だった。慣れているはずなのに、いざ彼に呼ばれると何だかくすぐったい。
「三脚がなかったから、テーブルに置いて撮ったんだけど…」それが思いのほか良かった。
「店の雰囲気が出てるね。」
フリューゲルに持参した時、マスターに言われたのを思い出す。
その時は学校帰りで長居できなかったが、夕刻で照明の灯った店内も見とれるほど雰囲気が良かった。いつかあれも撮影できないかと、思いを巡らせる。
「今度、写真部の撮影会があるんです。古い建物。」
「人物の写真は撮らないのか?」
「得意な人もいるけど、わたしは苦手で…なんか近づきにくいっていうか…」
「人には得手不得手があるから。」それでもいいんじゃないか?と言う。
たったそれだけなのに、人に言ってもらうと気が楽になるから不思議だ。
「出来上がったら、フリューゲルに見せに行きますね。」
「都ちゃんは元気かい?」
カウンター席に座って地図を睨んでいる竜杜に、マスターが声を掛ける。
七月に入ったにもかかわらず梅雨が衰える気配はなく、ここ数日雨続きで湿度が上がっている。時間も中途半端なせいか、店には竜杜と彼の二人しかいない。
「この間店に来たんだろ?」顔を上げずに竜杜は応える。
「先月の話だよ。それに写真を置いて行っただけだし。」
言いつつカウンターから見える壁面に目を向ける。近所の画材店で額装してもらった写真は、常連客にも評判が良い。
「そっちはそれ以上に会っているんだろう?」
「半分は偶然で、半分は必要に迫られて、だ。」
「必要ねぇ…」
「二度もあれに接触したのが納得できない。」
「三度目がある、と?」
どうかな、と竜杜は地図を畳む。
「ただ、話を聞いても関係があるようには思えない。」
「物凄くいい子だと思うけどねぇ…」マスターは髭を指先で撫でる。
言葉を交わしたのは僅かだが、彼女が今時の高校生にしてはしっかりしているのは言葉の端々から見て取れる。ただちょっとばかり内気で、どこか自信のない様子が見え隠れするのは性格なのだろうか。
あのな、と竜杜が息をつく。
「どうしてそういう話に行く?」
「だって彼女と知り合ってから、口数が増えたから。よほどいい影響があるんだろうと思ってね。」
「俺は仕事でこっちに来てるんだ。」憮然として、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。
「これ以上こっちの人間を巻き込みたくない。」
それに、と立ち上がりながら付け加える。
「危なそうな人間を放っておけないだけだ。」
その数日後、都はカメラを手に、久しぶりの晴天の下にいた。
雨で延期になった末の撮影会だったので、皆外に出たくてうずうずしていたのだろう。一眼レフからコンパクトカメラ、果てはレンズ付フィルムを手にした写真部員達は思い思いの写真を撮影している。
「晴れたのは嬉しいけど、あちーな。」ペットボトルをぐいっと傾けながら、波多野がぼやく。
「薄曇りくらいのほうが、本当はいいんだけどね。」
日差しが強いと、角度によってくっきりと陰影がついてしまう。対象物によっては好ましくない影だが、今日に限ってはそれも面白いかもしれないと思ってシャッターを押す。
「建物って提案が木島らしくて渋いよなー。」
「たまたま家に本があったから…っていうだけ。それだって、わたしのじゃないし。」
「使えるものは使うべし。あ、ネコ!」
波多野は路地にレンズを向ける。
都も倣ってネコにレンズを向け、素早くピントを合わせてシャッターを押した。
人の気配に警戒したネコは、びくっと動きを止めると、今出てきた路地を駆け戻る。
「残念。」
「動く被写体って難しいね。」
まぁね、と波多野は楽しそうに頷く。
結果として、この日の「レトロ建築撮影会」は上級生にも下級生にも好評だった。もちろん現役の建物なので撮影できる場所は限られるが、普段そういったものに接する機会がないので新鮮に感じるらしい。
夕方、ファストフード店で一息つく頃には、デジカメ派の液晶画面を突き合わせながら、ちょっとした講評会になっていた。熱気覚めやらぬ中解散したのは、空が暗くなった頃。
波多野が時計を見て、うわっ!と叫ぶ。
「早く戻れって言われてたのに…速攻消えるわ!」
じゃ!と片手を挙げて、文字通り消えるように走り去っていった。
その姿を見送りながら、同じ方向がいなくなったのでどうしようかと都は考える。普段使わない路線での解散だったので、不慣れな上に鉄道を使えば遠回りになるのは必須だった。腕の時計に目を落として、時間を計算する。
「確かバスがあるって言ったっけ。」別れ際、誰かが言っていた言葉を思い出す。
「バス乗り場…探すかな。」
よいしょっとカバンをかけ直して、都は駅の反対側に歩き出した。
ようやく話が加速する・・・はず。




