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第五話

 ようやく時間が取れたのは、五月の連休が明けてからだった。

 よく晴れた日曜日、カメラと借りた傘を斜め掛けのバッグに入れ、スニーカーの紐をしっかり結んで家を出た。事前に調べた地図のコピーと手帳に書いてもらった住所を頼りに、古い町名の残るエリアに足を踏み入れる。

 小さい頃この辺りに住んでいたこともあるが、随分と家や畑が変わっていて、あやふやな記憶で横道にひょいと入り込むと迷子になりそうだった。けれど戦災を免れた地域らしく、時折出くわす古い店や町名板を見つけてはカメラを向けてシャッターを押した。

 小さい頃、母親とわざと知らない道を歩き回ったことを思い出す。

「道は絶対どこかに繋がってるんだから、大丈夫。なるようになるって。」そう言う母親に手を引かれ、ぐるぐる歩き回って結局同じところに戻ったことも、今となっては懐かしい思い出だ。

「ええと、この辺なんだけどな…」

 きょろきょろと見回して、すぐそばの建物に目が留まった。

 地図を確認する。商店街も終わり、住宅地に差し掛かろうという場所だ。

「ここ…?」

 背の高い鉄製の門扉(もんぴ)の奥に、古めかしい洋館の姿が見える。

 どこかで見たことがある気がして、都は首をかしげる。

「…そうか…」

 辺りを見回して呟く。

 門柱も入り口も綺麗になって判りにくいが、小さい頃、保育園の行き帰りにこの前を通っていた記憶がある。

 石を敷き詰めたアプローチを歩いて木製の扉の前に立つ。入り口には手描きのメニューと『フリューゲル』の店名。

「喫茶店…だったの?」 

 どこからか、コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。

 そっと窓を覗くと、まだ開店間もない時間のせいか客の姿は見えない。どうしようと逡巡しながら思い切って扉を押した。

 カラン、というドアベルの音と共に、いらっしゃいという声が向けられる。

 外の明るさに慣れた目に店内は暗かった。

 入ってすぐ小部屋のような玄関ホールになっていて、そこを抜けると正面にカウンター、左に目を向けるとどこかの家のリビングルームのような空間が広がる。

 初老の男性がカウンターの内側から出てきた。見たところ店内は彼しかいない、ということは店主なのだろう。

 白のワイシャツに黒のエプロン。背は高いがいかつさはなく、物腰の柔らかな雰囲気がにじみ出ている。白いものが混じった髪は短く刈り込み、手入れされた髭の奥で優しそうな笑顔が都を迎える。

「あの、こちらに早瀬竜杜(はやせりゅうと)さんっていらっしゃいますか?」

「残念。今、実家に戻っていてね。こっちに来るのは来月になるかな。」

 返ってきた返事に、そうですかと都はガッカリする。

 店主が首をかしげる。

「彼が迷惑でもかけたかな?」

「いえ、この間傘をお借りしたので返しに。」

 あぁ、と彼は破顔する。

「君だったのか。いやね、傘を失くしたって言うのに理由も言わないから。そういうことなら預かっておくよ。名前、聞いておこうか。」

「木島…都です。」

「都ちゃん、か。せっかく足を運んでもらったんだ、よかったらコーヒーご馳走するよ。それとも紅茶がお好みかな?」

 丁重に辞退したがし切れず、結局ご馳走になることにした。

 ふと思いついて、

「お店の写真、撮ってもいいですか?」

「ブログとか、そういうのに載せるやつ?」

 都は首を左右に振る。

「写真部の展示用です。」バッグからカメラを取り出す。

 マスターがおや?という顔をする。

「渋いカメラだねぇ。マニュアルのフィルムとは。」

「母のお古…です。」

 そう、と頷くと、好きな場所を撮っていいよと付け加える。

 礼を言って窓際の席に座った。少しドキドキしながら店内を見回す。

 床まである窓にはレースのカーテンが掛けられており、その向こうには手入れされた芝生が見える。

 外見と同じ古い時代そのままの内装なのだろう。まるで時間が止まったような店内は、外からの光を優しく包み込んでいた。使い込まれた木の床に、象牙色の漆喰(しっくい)の壁。柱は本来明るい色だったのか。年月を経て、今では重厚なほど黒光りしている。絵画や装飾は特にないが、天井から下がったガラスの照明器具が、空間そのものを骨董品に仕上げていた。

 慎重に絞りを調整してシャッターを切る。

 カウンターを正面に見て左手にも廊下があるのを見ると、ここは建物のほんの一角なのかもしれない。そういえば外から見た時、二階があった気がする。

 やがてコーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。

 どうぞ、と供されたカフェオレは砂糖を入れなくても甘くて美味しかった。サービス、と言って出されたクッキーはココアの苦味が利いていて、これも都の好みの味だ。

 常連客が来るまでの間、都はこの空間を独りで堪能した。

 それは贅沢で、心地よい時間だった。何よりカップを手にして椅子に身を委ねていると、懐かしい場所に帰ってきたような、優しくて暖かい気持ちがこみ上げてくる。

 帰り際、恐縮しながらお礼を言う。

「よかったら、写真見せにおいで。」

 マスターの笑顔に都は「はい」と返事をして店を辞した。

 また一つ、お気に入りの場所ができたなと思いながら。


 彼に再会したのは六月に入ってからだった。

 例によって図書館の前庭で都が寛いでいるところに、ふらりと現れたのだ。さすがに軽装になっているが、髪は相変わらず首の後ろで束ねられている。

「わざわざ返しに来てくれたそうだな。」

 不在で済まなかったと早瀬は詫びる。

 都は首を振った。

「おかげで気になってた場所に行かれたから。」

「気になっていた?」

「あの喫茶店。古くて素敵な洋館だなぁって、小さい時から気にしてたんです。でも昔はお店じゃなっかった気がするんだけど。」

「喫茶店は戦後からだが、一時期閉めていたと聞いてる。」

「じゃあ、その時だったのかな?でも早瀬さんのおかげで出会えました。」

「そりゃよかった。」早瀬は優しい笑みを浮かべる。

 そんな表情もできるんだと、内心驚いた。

「そういえば写真がどうとか言っていたが…」

「今度持って行きます。」

「写真、好きなのか。」

「写真部です。といっても新聞部の手伝いとか、そんなことが多いんですけど。早瀬さんは…」

「竜杜、でいい。」

 何を言われたか判らず、一瞬戸惑う。

「ええと…」

「苗字で呼ばれるのは慣れてない。」

 相手はさりげなく言ったが、都にとっては難しい注文だ。

「じゃあ竜杜…さん。」

 声に出すと気恥ずかしい。そもそも男性を下の名前で呼ぶこと自体、都には経験がない。

「竜杜さんって、空が好きなんですか?」

「は?」

 唐突な質問に、竜杜は不意を突かれた顔をする。

「えと…何となく…ですけど。」どう説明していいか判らず、都は俯く。

 けれど竜杜は理由を追求するでもなく、少し考えると口を開いた。

「空を飛んだことはあるか?」

 今度は都が目を丸くする番だった。

「飛行機…ですか?」

「何でもいい。」

 グライダーとか気球とかの事だろうかと考える。

「飛行機には乗ったことあるけど…あれは空を飛んでるっていうか、運ばれてるみたいだし。」

「運ばれてる、か。なるほどね。」竜杜は面白そうに笑う。

「それじゃ、判らないか…」呟いて、そうだなと思案する。

「好きというより、近づきたい…という気持ちかな。」

「近づきたい?」

「当たり前にあるのに、いざその場に行くと自分が小さく感じるほど深い。」

「海、みたいですね。」

「そうかもしれない。」

 小さい時、浅瀬で遊ぶのが愉しくて、でも少し深い場所に行ったら不安と恐怖にかられたことを思い出す。泳げるほどの距離だったのに、助けに来た母親にしがみついたことを思い出す。

「それで、海が嫌いになった?」

 都は首を振る。

「その時は怖かったけど、見たら綺麗だし、やっぱり遊びたくなっちゃうかな。」

「同じようなものだ。怖いと思う反面、もっと近づきたいと思う。そんな関係だ。」言いながら、彼は空に目を向ける。

 それはまるで空をいとおしむような、優しい表情だった。

役者、揃いました。

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