第四話
「どんな感じ?」
「新入部員候補は何人か…」机の上に眼を向けたまま、都は友人の質問に答える。
奈々は前の席の椅子を引っ張り出して腰掛けると、陸上部で鍛えた自慢の足を組む。身を乗り出し、都の目の前でトントンと机を叩いた。
「そうじゃなくて!志賀先輩の仕事、まだやってるんでしょ?」
「志賀先輩の、じゃなくて新聞部のお仕事で、依頼されてるのは写真部全員。」都は顔を上げた。
「ついでに言うと、華道部の撮影もしてるんだけど。」
「華道部の部長さんって女子でしょ。興味ない。っていうか、何見てるの?」
都が抗議する前に、彼女が見ていたポケットアルバムを取り上げる。
「奈々ちゃん!」
「いいじゃん。それとも、見られて困る写真でもある?」
むふふ、と嬉しそうに笑みを浮かべて、ぱらぱらページをめくる。
もう!と手を伸ばすが、クラスの女子で一番背の高い奈々には、とうてい太刀打ちできない。
健康的に日焼けした肌。すらりと伸びた手足に、ボーイッシュなショートカットもとてもよく似合っている。性格は明るく、そして少しだけ男勝り。本人いわく、暴れん坊の弟どもを相手にしているとこうなるのだそうだ。人付き合いも活発で、男子女子、上級生下級生の区別なく言葉を交わしている姿は凄いなぁと思ってしまう。
「神社とかビルとか…波多野っちがカメラ構えてる写真とか…これ、どこよ?」
都は、とあるビルの展望台の名を挙げる。
「去年の撮影会の写真。今年は二年生が企画しなきゃなんだよね。」
む?と奈々がアルバムを凝視する。
くるりとひっくり返し、都に見えるように指差す。
「ここ、一枚抜けてるよ。」
「失敗写真。」
あ、そ。と納得したのは、都がしょっちゅう写真を没ファイルに入れるのを見ているせいだろう。
「フィルム一本使って、合格ライン数枚ってのも大変だ。」
「数枚だってあればいいほうだよ。何本使っても全然って時もあるし…」
「写真ってそんなもんなの?」
「どうかな。スナップ写真とかトイカメラだったら意外性が重視されるのかもしれないから…それぞれじゃないかなぁ。」
そんなやり取りがあり、写真と志賀の件は納得したらしい。
「聞いてよ!」
今度は机にぐいっと身を乗り出してきた。
もともと一人でいることが多かったせいか、都は自分から話すより、人の話しを聞くことが多い。
話したくないわけではないが、保護者が言うには考えながら喋るので、テンポがゆっくりになるらしい。だから気の短い人や、口先から生まれてきたような人には少しまだるっこしいのかもね、とのこと。
同じ年頃のクラスメイトの会話は勢いがあるので、そうなると都は聞き役に回ることが多い。でも聞いているのは嫌いではない。特に奈々は自分とまるで正反対なので、聞いているだけで「へぇ」とビックリすることや感心することも多い。
「でさ、弟ったら、そのまんま左右違う靴はいて学校行ってんの。バカでしょー。」言いながら笑う。
「でも小学生なら可愛いじゃない。」
「うるさいだけだよ。そだ。今日は部活ないんでしょ?帰りにどっか寄らない?」
「今日は図書館行かなきゃだから。」ごめん、と手を合わせる。
「じゃ、来週はどっかいこ。いずみも誘って。」
いいよ、と返事をしたところで担任が入ってきた。
奈々も慌てて自分の席に戻る。
ホームルームの間、都は部活で使っているノートをこっそり開いた。挟んであるのは抜き取った写真。言葉どおり失敗には違いない。中途半端な構図で納得できるものでもないし、人に見せるほどでもない。写っているのは、空を見上げる一人の人物の姿。
担任の話を聞きながら、一週間前のことを思い出す。
立て続けに危険な目に逢い、ハヤセと名乗る男に助けられたこと。
二度目に助けられた時も、彼はマンションの下まで送ってくれた。
長髪の男と女子高生。目立つことを危惧したが、皆忙しい時間帯のせいか気に止める人はいなかった。
特に会話があったわけではない。時折傍らを歩く背の高い姿を見上げたが、都に関心が無いのか前を向いたままだった。
「すみません。」エントランスの手前で頭を下げる。
「気にするな。それより、あまり一人で出歩かないほうがいいかもしれない。」
「と、言っても一人だから…」
「一人?」
あ、はい、と都は答える。言わないほうがいいかとも思ったが、都に何かしようという雰囲気でないことと、自分の直感を信じて説明する。
「保護者が単身赴任中なので…」
そうか、と相手は一瞬考える。
「そうなると、せめて明るい間動くほうが安全としか言えないか。」
それだけだった。
あれから一週間。都は言われた通り、部活もそこそこに帰宅している。
幸い何事も起きていないが、あのときの声、それにぞっとするような感覚は何だったのだろうか。明らかに都にしか聞こえていなかったが、特殊な能力が自分にあるとは思えない。
否。
彼には見えていたはずだ。そうでなければ公園で都を助けたりしなかっただろう。そもそもハヤセが居合わせたのは、本当に偶然なのだろうか?よく覚えていないが、何かが黒い靄にぶつかって都を助けてくれた。あれは何だったのか?
考えれば考えるほど頭の中は堂々巡りで、最後には溜息しか出てこない。
首を振る。
(このまま何もなければ大丈夫。)
そう自分に言い聞かせると、ノートを閉じた。
学校が終わると、いつもの帰宅ルートとは別方面のバスに乗った。
目的地は反対方向の駅。歩けないことはないが、カバンの重量を考えるといささか厳しい。幸いバスは線路を渡った繁華街が終点なので、目的地まで歩く労力が少なくて済む。
教科書と本の入ったカバンをよいしょと肩に掛け、駅前の賑やかな通りから一本裏に入った道を目指す。すぐに現れたコンクリート打放しの建物は、保護者が言うには昭和四十年代に建てられた「そこそこ古い」建物らしい。少し広い前庭には成長した木が枝葉を伸ばし、今の季節は柔らかそうな新芽が一斉に芽吹いている。
見上げると、重なり合った葉の隙間から春の日差しが見え隠れしている。
この風景が、この場所を好きな理由の一つ。
もう一つの理由は、中に入った途端に包まれる印刷物の香りと図書館特有の静謐さ。一人でいても文句を言われない、むしろ一人でいるためにあるようなこの空間が気に入っている。
カウンターに本を返すと、足音を立てないように奥の書架へ向かう。今日は課題の調べ物もしたいので、普段は縁がない歴史や民俗学の棚を目指す。
目当ての書架にたどり着くと、普段は人通りの少ないコーナーに先客がいた。
その横顔に都は首をかしげる。なにより長い髪を背中で束ねた男性に出会うことなど、そうそうない。
と、相手が気配に気付いて顔を上げる。
「やっぱりハヤセさんだ。」
「君か。」にこりともせずに、相手は応える。
「調べ物ですか?」
うん、まぁと呟く。
それで会話は終了だった。
都も目的の本を探すのに集中していたので、いつの間にか彼がいなくなったことに気付かなかった。
貸し出しの手続きをして外に出ると、「少しだけ」と自分に言い聞かせて広場のベンチで本を広げた。まだ少し風が冷たいが、真冬に比べたら気にならない。何よりぽっかりと空が広いこの空間に身を置くと、解放されたような気分になる。
どれほど経ったのか、人の気配を感じて都は顔を上げた。
「ハヤセさん…」
目の前に男が立っていた。
彼はは都の隣に腰を下ろすと、彼女が膝に置いていた本に目を留めた。
「よくもこんな文字の混在した言語、使ってられるな。」
言っている意味が判らず、首をかしげる。
「それって日本語のことですか?」
「読むだけで疲れる。」
「だってハヤセさんだって日本人…」
「教育は別の所で受けた。」
「ってことは…学生じゃ…ないんですよね?」
まだ陽のある時間に図書館で出会ったので、学生かとも思ったが違うらしい。
「そこまで若くない。」
失礼かと思ったが年齢を聞くと、二十五と答えが返ってきた。
「こっちには仕事で来てる。」
「何のお仕事ですか?」
まっとうな会社勤めでないことは確かだ。
「情報管理…的なもの。」
コンピューターとか、そんな物を相手にしているのだろうか。
「そっちは学生か。」
「高校二年です。」
「高校生っていうのは騒がしいと思っていたが…」
「それ、個人の問題じゃないですか?」
「みたいだな。」ハヤセは空を見上げる。
まただ…と都はその横顔を見る。
「雨が降る。」
「ええっ!」思わず都も空を見上げた。
「買い物もあるのに。今日降るなんて言ってたっけ?」
「必要なら貸すぞ。」
ハヤセは上着のポケットから小さな折畳み傘を取り出した。
「でも…」
「持たされたが、使う気がないんでね。」
はぁ…と応える。
なんだか掴みにくい人だ。
「それじゃあ後でお返ししますから、連絡先教えてください。」
都が差し出した生徒手帳を受け取ると、彼は住所と名前を書き付けた。意外なほど几帳面なその文字を、都は目で追いかける。
「早瀬…竜に杜?」
「りゅうと。」
「はやせ、りゅうと、さん。駅の反対側ですね。」
今まで出会った行動範囲から見て、近所だろうとは思っていた。記された住所は今いる図書館とは、駅を隔てた反対側の、古い商店街がある一帯だった。
「こっちにいる時は、厄介になってる。」
こっち…というのは東京のことなのだろう。
「早瀬さんって日本人…なんですよね?」
「人種的には半分。」
「ハーフなんですか?」
「父親が日本人なんでね。」
「じゃあ外国名とかあるんですか?」
うん、まぁと曖昧な返事。
「けど日本では日本名のほうが楽でいい。警官に聞かれても苦労しない。」
「職務質問されたんですか?夜中に歩いてたから…とか?」
「昼間だったぞ。」
「髪、長いから目立ちますよね。サラリーマンに見えないし。」
髪?と竜杜は束ねた自身の黒髪をちらと見る。
「そんなに珍しいか?」
「珍しいって言うか、目立ちます。早瀬さん、背高いし。」
そんなもんか…と呟く。
本気で自覚がないんだろうかと不思議に思う。
そうしているうちにポツリ、と冷たいものが落ちてきた。
「退散だ。」
じゃあ、といって早瀬は歩き出す。
その後姿に軽く頭を下げると、都も傘を開いて歩き出した。