第三話
「みやちゃん、終わった?」
「うん。機材返してくるから昇降口で待ってて。」
友達と別れて、都は階段を駆け上がる。
あれから三日。
当日と翌日は僅かな物音にもビクビクしていたが、明るい時間、明るい道を選んで帰宅しているので今のところ何も起きていない。そのため保護者へのメールはいつも通りの報告ばかりになっている。電話だったらいつもと違う様子を指摘されたかもしれないが、相手も忙しいと見えてしばらくメールしか来ていない。ホッとする反面、少しだけ不安がよぎる。
部室に戻ると、カメラと腕章をキャビネットに仕舞い、無造作に積んであるポケットアルバムの中から何冊か引き抜く。中身を確認していると、
「うーす。こっちも終了。」
「お疲れさま。」
「や、今年の新聞部、人遣い荒いよ。」パイプ椅子にどさっと腰を下ろし、同じクラスの波多野がぼやく。
「いくら体育館建て替えるからって、そんなに撮らなくてもいーじゃん、って思うよなぁ。ってそれ、去年の写真?」
「うん。新人勧誘の説明会に使うの選ぼうと思って。やっぱり画面で見るのと紙に焼いたのじゃ印象が変わるから。」
「木島のこだわりだよなぁ。」
「そんなんじゃないけど…」と口ごもる。
上手く言えないけれど、液晶画面で見る写真と印画紙の写真では距離感が違うような気がするのだ。
「そおいや昨日、呼び出されてなかった?」
優等生の都の名前を放送で聞くのが珍しくて、波多野は首をかしげる。
「生徒手帳落としたの。学校に誰かが届けてくれたんだって。」
へぇっと声を出して、彼は髪の短い自分の頭をなでる。
肩幅もがっちり広く安定体型の波多野大地は、その見かけどおり運動神経が良い。柔道部も兼部しているがなぜか写真部が気に入り、運動部以上に熱心に活動しているのが都には不思議でしょうがない。
幼馴染だがあまり接点がなかったせいか、頻繁に口を聞くようになったのは高校に入ってから。家が商売をしていることもあって人当たりがよく、写真という共通の趣味のおかげで、今では気兼ねなく話すことのできる数少ない男子の一人である。
「戻ってよかったけど、気をつけるに越したことないぜ。冴さん、まだ帰ってこないんだろ?」
「うん。」
「ま、木島のことだから用心過ぎるほど用心してると思うけどさ。」
そう言われて、三日前の事を思い出す。
追い討ちをかけるように、カバンの中の携帯が震えた。
「うわっ!」と声を出して、友達からのメールだと気付く。
「いけない!いずみさん待たせてた!」
波多野に手を振ると、慌ててカバンを掴み外へ出た。昇降口で友人と合流し、ちょうど来たバスに飛び乗る。
「今日は志賀先輩と一緒じゃなかったの?」
「なんで、その名前が出てくるかなぁ。」
溜息をつく都に、いずみはくすくす笑う。
都より少しだけ背も横幅も大きいいずみは、笑うと深いえくぼができるのがチャームポイント。ゆるく巻いた髪は天然パーマだというが、それも含めて全体が可愛らしくまとまっている。けれど合唱部でピアノを弾く時の姿は可愛いというより、艶やか。写真撮影をしながら思わず溜息をつくのは、いつものことだ。
「奈々ちゃんが羨ましがってたよ。この間、同行カメラマンしてたでしょ?」
「他に人がいなかったんだもん。それに、苦手な撮影だったし…」
見たくない写真が学校新聞に堂々掲載されるのは嬉しくない。
「みやちゃんが平気なのは波多野くん、くらいだよね。」
「そんなことない…と思うけど…」
そお?といずみ。
「でも男子、得意じゃないでしょ?」
「ずっと女だけの家だったから、よくわかんないだけ。」
それは本当だ。父親を知らないせいもある。ずっと母親とその親友だった保護者との女三人暮らしだったから、男性に対してどう接していいのか判らないのだ。
「包容力のある人がいいのかなぁ?」
「ほえ?」
「みやちゃんのこと見守って、引っ張ってくれるような人。」
「べ、別に彼氏なんていなくても…」、
「好きな人ができたらわかんないよ。それに友人としては、みやちゃんに安全な毎日を過ごしてもらいたいのよね。よくぶつかるし、転ぶし…心配尽きないんだから。」そう言って、かさぶたになりつつある膝を指す。
「これは転んだんじゃなくて、仕方なかったというか。それに、そういう言われかたすると、わたしがダメ人間みたい。」
そこまで言ってないのに、といずみは笑う。
落ち込んだ時も、いずみのほんわりした声を聞くと落ち着いてくるから不思議だ。それに見ていないようで、都のことをちゃんと気遣ってくれることにいつも感謝している。
「波多野くんも結構人気あるよね。」
「そうなの?」
「だって体育得意でしょ?柔道部でも三本指に入る強さだって聞いてるよ。」
「写真部では普通だけど…」
そういえば波多野が柔道部で活動しているところは見たことがない。
「そっちの印象、薄いんじゃないかな。」
「文化部、立場弱いなぁ。」
駅に着いても話は尽きず、ようやく別れたのはいずみが乗るべき電車を何本かやり過ごした後だった。友人が改札口に消えるのを見送ってから、都も駅の反対側へ歩き出した。
駅ビルに直結した通路は学生やサラリーマン、買い物帰りの人で賑わっている。逆に人が多ければ安心感がある。そんなことをぼんやり考えていた時だった。
“みぃつけた”
ぎくり、とする。
“ほしい”
足が止まる。
“ちからのみなもと”
思わず都は振り返った。
どこ?
心臓が締め付けられるような息苦しさ。何かに見張られている気配にゾッとする。
誰が?
きゅっ、と掌を握り締める。
周りを歩く人が、立ち止まった都を不審そうに見ていく。
トン、と背を押されてよろける。
目の前が傾く!と思った瞬間。体ごと引き寄せられた。
それと同時に、すっと嫌な感覚が消えていく。
ほっと息をつき、次の瞬間ぎょっとする。
すぐ目の前に、地上まで続く長い階段が伸びている。
「あ…」
冷や汗が背筋を伝う。
足を踏み外せば、怪我どころではなかったかもしれない。
ふと、自分の身体を支えている逞しい腕に目が留まった。
「目が離せないな。」
どこかで聞いたような声。
おそるおそる振り返った都に、見覚えのある男が「大丈夫か?」と問いかけた。
「落ち着いたか。」
はい、と都は頷く。
駅ビルの中にある休憩コーナーのベンチに、都は腰掛けていた。
「とりあえず、怪我がなくてよかった。」
「また、助けられちゃいました。」
まさか三日前と同じ人物に助けられるとは思わず、恐縮する。
傍らに立った男は首をかしげ、
「何かに狙われてるか、取り憑かれるのか?」
「そういう覚えはないけど…」
声が聞こえた、とはさすがに言いかねて肩を竦める。
「妙な気配がしたんだが…」
「ひょっとして幽霊とか、見える人なんですか?」
「幽霊?」
「だって、妙な気配って…」
「そんなわけの判らないもの、見えるか。」キッパリ相手は言いきる。
じゃあ何の気配なのかと聞きたかったが、さすがにこの状況では聞けずに言葉を呑み込んだ。
辺りを見回すように首をめぐらせる男の横顔に、都は首をかしげる。どこかで似たような光景を見た気がする。それにこの間は暗くて気付かなかったが、見れば見るほど不思議な雰囲気の人だ。
黒い髪に黒い瞳。髪が長いのはサラリーマンではない証拠。だが悪い雰囲気ではない。むしろ落ち着いた物腰と、つねに冷静な少し低い声がどこか安心感を与えてくれる。それにどことなく日本人離れした、整った顔立ち。
見られている、と相手も気付いて都を見下ろす。
慌てて俯くが、男は何だ?と問いかける。仕方なく顔を上げる。
「あの…名前教えてください。わたし…」
「キジマミヤコ。」
ほえ?と目を丸くする。
「手帳。」
あ!と声を上げる。
「ひょっとして届けてくれたのって…」
男は頷く。
「この間の現場に落ちてた。そのままじゃ、まずいだろ?」
「重ね重ね、ありがとうございます…ええと。」
「ハヤセ、だ。」
「ハヤセさん。ありがとうございます。」
ぺこりと、都は頭を下げた。