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第二十話

 旧体育館に何者か入った形跡があった…というのは、奈々が伝え聞いてきた。朝から教職員が慌しかったのはそのせいだと。

 けれどもともと取り壊し間近の建物だったので実害はなく、ガラスが何枚か割れていたのと解体のために運び込んであった資材が崩れていた程度。犬の足跡が一面にあったので、昨夜の雨と雷で一帯が停電だった隙に野犬がもぐりこんだ可能性が大きいということだった。

 そう言われても、自分があの場にいたことを誰かに見られていたら…と考えると不安だった。もちろん迎えにきてくれた早瀬にしても、フェスを従えた竜杜にしても、無駄がない程早く動いていたので誰かに見咎められる隙もなかったはず。

 そんな都の心配を払拭するように、奈々が付け加える。

「なんか防犯カメラの向きが変わってたらしいんだよね。」

 何台かある防犯カメラは、どういうわけか全てあらぬ方向を向いて、その状況を捉えていなかったらしい。

「でもぉ…カメラって高いところにあるよねぇ。どうやって?」

 いずみの言葉に、都は白く小さい羽の生えた、金色の瞳の生き物を思い浮かべる。ずっと竜杜と行動を共にしていたなら、それくらいのことはできるはずだ。

 残る心配は志賀だったが後日聞いたところによると、彼は持っていた旧体育館の鍵の所在を追及されて「紛失した」と言ったらしい。そしてその鍵がなぜか屋上で見つかったので、不問になったということだった。都の事を何も言わなかったのは彼のプライドに関わるからか、それとも本当に記憶に残っていないのか。どちらにせよ、それから志賀の卒業までの半年余り、ほとんど顔を合わせずに済んだのは都にとって幸いだった。

 そしてその日の帰り際、近所で野犬が保護されたらしいとの追加情報を波多野がもたらすと、都はようやくホッとした。

「犬には悪いけど…これ以上調べることはないみたい。」

「相手もダメージ受けただろうから、すぐに現れることはないと思うけどよ。」

 授業が終わるのを待ちかねてフリューゲルにやって来た都に、早瀬は言った。

 しかしだからと言ってこの問題が根本的に解決していないことは、都だって判っている。

「封じる手段が本当に正しいのかどうかだって、誰も知らないんだ。伝承だって正しく伝わってるのかどうか、僕らは調べようがないからね。だから今回の事は都ちゃんのせいでも竜杜のせいでもない。」

「でも…」

「僕は二人が無事でよかった、と思ってる。」

 そう言って、優しい笑みを都に向ける。

「あれ…本当に竜なんですか?」

「うん。古い…神話の時代に封じられた悪い竜。竜はこちらでは実体化できないから、その気…魂だけの姿だけどね。伝承だと向こうの世界に残された体は、再び魂が戻らないように八つに分けて、世界のあちこちに埋められたそうだ。」

 大昔の話だよ、と付け加える。

「その魂が蘇った…っていうことですか?」

 早瀬は頷く。

 そっか、と都は呟く。

 竜杜と出会ってからと言うもの、耳にするもの目にするもの全てのスケールが大きすぎて、どうにかついて行くのがやっとなのだ。

「それで竜杜さん、大丈夫なんですか?」

「怪我は大したことないよ。ただ無理にでも休ませないと休まないもんだから、別の所に預けてある。本当は都ちゃんも休んだ方がいいと思うけど…。」

「今は…一人でいるほうが落ち着かなくて…」

「じゃあ食べ終わったら、行ってくれるかい?」

 放っておけば昼食まで抜きそうな勢いの都にホットサンドイッチを供する。

 言われて、都はようやくカフェオレに手を伸ばした。考えてみれば昨日の昼以来、ちゃんと食事らしいものを摂っていない。そのせいかミルクの甘さがいつも以上に感じられる。パンの香ばしい焦げ目も、とろりと溶けかかったチーズもとても美味しかった。

 綺麗に平らげると早瀬に頼まれた荷物を下げて、教えられた診療所へと向かう。

 線路際に建つそれは、最近改装したのか壁も床もぴかぴかだった。古い建物らしく天井は低いが、暗い印象がなくて安心する。入り口の脇にある案内を見ると、少ないながら入院施設と、診療科目もいくつかあるらしい。

 早瀬に言われた通り受付に名前を告げると、白衣をまとった女医が奥から出て案内してくれた。

 年のころは五十がらみ。長い髪は後ろで束ねて、化粧気はほとんどない。

「連絡はもらってるよ。竜杜くんの彼女が来るって。左腕をちょいと傷めてるが若いし頑丈だから、大したことないんだけどね。」ハスキーヴォイスで、てきぱきと説明する。

 エレベーターで四階に上がり、開け放したままの二人部屋の扉をノックして声を掛けた。

 ちら、と見た入り口のネームプレートには早瀬竜杜の名前しかない。

「少しは休めたかい?」

「だから、入院する必要なんてないんだ。」

「仕方ないじゃないか。邪魔だから預かってくれって言うんだもん。それよりお見舞い。」

 女医が廊下に立っていた都を振り返る。

 都は一礼してから中に入った。

 手前のベッドはセッティングされているが誰もいない。その奥、窓に近いベッドに竜杜は背を起こした状態で休んでいた。

 左腕は固定して不自由そうだが、それ以外は顔色も良くホッとする。

「マスターから。着替え預かってきました。」

「早瀬くん、店が終わったら迎えに来るそうだ。」

「早瀬くん?」

 思わず聞き返した都に、竜杜が苦虫を噛み潰した顔をする。

「父親の同級生。」

「彼もケガは多かったからね。」女医は都に笑いかける。

「それも夜中にネコを追いかけたりとか、屋根に登るとかしょうもない理由で。まぁ、君の場合は雨の中、トレーニング中に階段を踏み外した、と…そんな所かな。」

「そんな所でしょうね。」竜杜も憮然と応える。

「それにしても、あの竜杜くんがこんなにおっきくなっちゃうんだから。こっちも年取るわけだ。」

「それ以上、言わなくていい。」

 女医は肩を竦めた。

「せいぜい、迎えが来るまでは大人しくしてなさい。そんな訳で、退屈してるから相手してあげてね。」

「あ、はい。」

 都の返事を聞くと、軽く手を挙げてその場を去っていく。

「まったく…」竜杜は溜息をつく。

「なんか、さばさばした人ですね。」

「あれでも医者だからな。今日もちゃんと学校に行ったのか。」

「カバン、そのままだったから。それに土曜日だから授業はそんなにないし。」

 竜杜に言われて部屋の隅からパイプ椅子を持ってきて腰掛けると、ホームルームで担任が話したことをそのまま報告した。

「今月中には解体作業が始まるので、それ以上何もないんじゃないかと思うんですけど…」

「うん?」

「あれだけ騒いでたのに誰も気がつかないって…」

「実体じゃないからな。」

「でも竜でしたよ。」

「俺たちにはそう見えるが、他の奴らには影とか靄にしか見えないはずだ。都だって最初はそうだったろう?」

 言われて思い出す。

 そういえば最初に公園で迫ってきた時も、殺されそうになった時も、黒っぽいもの…としか見えなかった。

「竜はこちらの世界では実体化できない。気を呼び出す事しかできないから、依代になるものが必要になる。それが俺の場合は銀竜になる。」

「フェスは…今日…」人懐こい小さな竜を思い出して、都は聞いた。

「家で大人しくしてる。さすがにあれだけの力を使ったら、しばらくは休ませないと。」 

「わたし、面倒かけてばっかりですね。」

「都のせいじゃない。それに奴を封じて門を守ることが、俺の任務だったから。」

「だからこっちに来たんですか?」

 頷く。

「あれは元々神話時代の怨念だ。それが長い時間かかってここまで辿りついた。奴が門を通れば、向こうの世界に危険が及ぶ。それを阻止するのが最終的な任務。」

「そんな大変なこと…竜杜さん一人で?」

「最初に出た辞令は調査報告だった。」丁度一年くらい前だったか、と思い出す。

 こんな非常識な命令はそうそうあるものではなく、実の親が門番だからこそ白羽の矢が立ったのは当然のこと。

「途中で命令が替わったのは、都が襲われた件を報告してからだ。」

「わたしが原因?っていうか竜杜さん、わたしのこと見張ってたんですか?」

「奴の気配を追っていたら、たまたまいただけだ。」

「たまたま…ですか。」そうですよね、と息をつく。

「たまたまでも、今はそれに感謝してる。」

「だってわたし、何もしてない。」

「半分はこちらの人間…と言っても生活するのが久しぶりだったから、慣れるのに時間がかかった。文字も文化も違うから、都と話をして、色々助けになった部分がある。」

 外国のようなもの、と早瀬が向こうの世界の事を言っていた。だとしたら向こうの世界で育った竜杜にとっては、こちらが外国なのだろう。都にとって当たり前でも、竜杜にとっては当たり前でない。考えてもみなかったが、そう言われれば出会った頃、彼に感じていた違和感も説明がつく。

「でも、やっぱりわたし何もしてない。」

 それどころか命を助けてもらい、彼に余計な負担を負わせてしまった。

「竜杜さんやフェスがあんな目に逢ったのに…」

 男に捕まった時、竜杜が男と対峙していた時、不安と恐怖はあったがそれ以上に何もできない自分の非力さを、都はひしひしと感じていた。全力で相手に向かい、傷つく竜杜を見るのがたまらなく苦しかった。そして今、こうして言葉を交わして無事だったことに、泣き出しそうなほど安心している自分がいる。

 昨夜一人になってからずっと考えていた。

 ひょっとしたら最初に助けられた時から、心の内にその感情はあったのかもしれない。けれどそれが恋愛感情なのかと問われれば、都は悩んでしまうのだ。もちろん最初の頃警戒心があったのは否めないが、彼を知れば知るほど、こうして同じ空間にいるだけでも穏やかな気持ちになれることに、今では気づいている。

「体育館で…」都は口を開いた。

「先輩は覚えてないって言ったけど、付き合わないかって言われたんです。触れられて…理屈とか抜きにして、すごく嫌で…」

「だから呼んだ?」

 え?と都は竜杜を見る。

「その時に俺を呼んだだろう?」

 頷く。

「それも契約の力…ですか?」

 竜杜は首を傾ける。

「都はどう思う?」

「わたしは…」

 言葉が続かない。

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