第十二話
開かれた門扉の前で、都は軽く深呼吸した。
アプローチを歩くと、ひんやりとした木陰にホッとする。
お盆を過ぎたとはいえセミの声は喧しく、夏らしい真っ青な空がどこまでも広がっている。
ふと目を左に向ける。
以前来た時は気付かなかったが、芝の庭の向こうには瓦屋根とガラスで覆われた日本家屋…早瀬家の母屋が見え隠れしている。
視線を戻し、思い切って扉を押して中に入った。
コーヒーの香りと早瀬の笑顔、それに空調の涼しさにほっとする。
「いらっしゃい。」
「えと、竜杜さん、は?」
「まだ向こう。仕事も溜まっているみたいでね。」
その仕事の中には、都との契約の件も含まれるのだろうと推測する。
都はカウンター席を選ぶと、首から提げたコンパクトカメラを外してカバンに仕舞った。
「カメラ、替えたんだね。」
壊れたのだから仕方がない。
でもこうして自分は生きている。声には出さないが、どうしても心の中で反芻してしまう。
「あれ、評判いいよ。」
早瀬が壁にかけた写真を示す。
最初に来た時この店を撮影したものだ。
見に来ようと思いつつ今頃になってしまったのは、竜杜との一件でフリューゲルに足を向け辛かったからだ。けれどこうして思い切って来てみれば、穏やかでどこか懐かしい雰囲気に来て良かったと思う。
古い建物だから…だけではない。早瀬自身や彼の淹れるコーヒーの香り、そして窓から見える庭や母屋、そういったこの家の歴史全てが一緒くたになって生み出されているんじゃないだろうか?そんな事を考えてしまう。
「ご注文は?」
「えと、ランチ。カレー、で。」
「今日はちょとスパイシーになっちゃったけど。」
「大丈夫です。」
幸いなことに好き嫌いはない。エスニックから発酵食品からむしろ酒の肴になるようなものまで、子供の頃から母親のお相伴をしていたので、よほどでない限り支障はない。この点は母親に感謝。
「あんまり暑いから、スパイス増量しちゃってね。」
「いい香り。」
サフランライスの上に載ったキーマカレーをスプーンですくって頬張る。
「美味しいって言うか…懐かしい。」
「それは意外。けっこうスパイス使ってるよ。」
「母親がこんな感じの作ってくれたことがあって…」
「お母さん、写真家だったよね。」
「取材であちこち行くことが多かったんです。アジアとか。で、行くと必ず変なスパイス買って来て…でも作ってくれるのは一度きりってパターンばっかり。」
あははと早瀬は笑う。
「もういいよ、って言うのにいっつも。」
「都ちゃんにも、自分が食べたものを食べさせてあげたかったんだね。写真では味や匂いは感じられないから。」
水を一口飲み、そっかと呟く。
「そんな風に…考えたことなかった。でも言われて見たらお母さんの土産ってお土産らしくない物ばっかりだった。地元の舞踊団のカセットとか、お線香とか…」
時には派手な民族衣装があった事も思い出す。
「愉しそうだね。」
「子供には迷惑ですよぉ。」
「でも印象は残ったでしょ。」
「おかげで地理は得意です。」
ほらね、と早瀬は頷いた。
「僕も竜杜が小さい頃、海を説明するのに苦労したから。」
「海…向こうにはないんですか?」スプーンを運びながら、首をかしげる。
「海自体はあるよ。生き物の種類は違うけど。ただラグレスの家があるのは随分と内陸でね、近くに湖はあるけど海からは遠く離れてる。だから竜杜は海を見た事がなかったんだ。それがある時、海って何?ときたもんだから…」
通り一遍、本に書いていることを説明したが納得しない。潮の香りや波を説明するのに随分苦労した、と苦笑する。
「竜杜が少し大きくなって、しばらくこちらで暮らしたことがあって、その時に僕の親父が鎌倉に連れて行ったのが、海を見た最初じゃないかなぁ。」
意外だった。
「竜杜さんの子供の頃って想像できない。」
「可愛かったよ。親父もたった一人の孫だから可愛がってくれたし…」
「マスターのお父さん?」
「戦後この店を始めた人。十四年前に亡くなったけどね。」そこまで言って早瀬は、レジとテーブルの片付けに行ってしまった。
都は食べながら暗算する。都がこの家の前を保育園の帰りに通っていたのは十一年前。そしてその時、フリューゲルは営業していなかった。
スパイスの効いたカレーを食べ終え、アイスティーで体の火照りを落ち着かせた頃、ようやくカウンターの内側に戻って来た早瀬に都は聞いてみた。
「マスターがお店継いだの、すぐだったんですか?」
「いいや。放っておけなかったんだけど、竜杜が独り立ちするまでは側にいたかったからね。準備も兼ねて行ったり来たりが何年か。」
何とか家を継がせてこちらに戻り、店を再開したのが十年前だと言う。
都はあることに気づく。
「竜杜さん二十五って言ってたから…十年前って十五歳?」
えっ?と顔を上げる。
中学か高校くらいで家を継いだことになる。
「それ、普通なんですか?」
「早いだろうね。まだ学校に行ってたし。」
「それでお仕事してた…?」
「いわば家の代表だからね。もちろん奥さんや周りが手伝っていたけど、今は全部竜杜が采配してるはずだよ。」
「凄いんですね。」はぁーと感心する。
最初出会った時にフリーターか学生かと本気で思ったのは、ひとえに髪型と服装のせいだったのか。
「それなりに苦労かけたもんだから、可愛げなくて済まないね。」
いいえ、と慌てて手を振る。
「可愛げなら、わたしもないって言われたことあるから。」
「都ちゃんは、自分を出すのが少し苦手なだけだと思うけど?」
「そうかも…しれません。」
「でもそういう人って、絵とか演劇とか芸術に表現を求めたりするよね。直接的なものだけが表現でもないし。もしかしたら都ちゃんはその方法を探してる最中なのかもしれないし…僕、変なこと言ったかい?」
都がぽかんとしていたので、早瀬は首をかしげる。
都は慌てて首を振った。
むしろその逆だった。いつもどうしていいか判らない何かを、言葉で説明してもらった気がして驚いたのだ。
でも、と慌てて矛先を変える。
「竜杜さんって軍人さんでもあるんですよね?」
「まぁ、軍に属しているといっても、竜隊は歴史的には別の組織だったから、特殊といえば特殊なんだけどね。」
「そんな人が、どうしてこっちにいるんですか?ただの帰省…じゃないですよね?」ずっと気になっていた、もっとも根本的な質問を思い切って口にしてみる。
最初に出会ってから助けてもらった一ヶ月前までの時間を考えると、単なる休暇とは考えにくい。
「竜杜は何て?」
「仕事…とだけ。」
でもそれを聞いたのは、彼の名前を知るか知らないかというほど前の話だ。
うーんと早瀬は天井を仰ぐ。
「それに関しては僕からは言えないかな。」
やっぱりそうか、と少しガッカリする。けれど次の言葉は都を少しだけ元気付けた。
「じきこちらに来るだろうから、その時に聞いてみるといいよ。」




