プラネタリウム
かなりぐだぐだになって来ました。
大丈夫か自分・・・!
あの事件を起こしてから約三週間。
氷上が退屈だ、暇だ、死ぬ、と喚き散らした病院にも、別れを告げる日がやってきた。
氷上の知らない間にも季節は走り去るように移り変わった。桜はとっくに散って葉桜になりったし、周りを吹く風もねっとりと温かくなった。昼間は薄着で過ごせるくらいで、春は足早に通り過ぎていた。
もう初夏である。いつの間にか夏の足音が近づいてきている。
そんな五月の少し汗ばむ昼下がり、翔と流は氷上の入院していた大きな病院の入り口前に立っていた。
しばらくするとガラス張りのドアの向こうから、場所をわきまえず全力で駆けて来る少女の姿があった。
大型連休を消化して五月晴れを体現したような青空の下、翔と流は笑顔いっぱいの氷上を出迎えた。
「やったー、退院だよやっほー!!」
「おかえりー」
「意外と長かったね」
「もう私自由だよー!」
本当はこれから精神科に通わなければならないのだが、拘束を解かれたのは確かだ。氷上の笑顔は嘘ではない。
氷上は嬉々としてふたりの腕にしがみつき、黄色い声を張り上げた。
「ねえこれからどっか行こうよ。甘いものが食べたいなー」
「これから・・・?」
ずっと同じ場所にいては動きたくなるのもわかるが、今はあまり出歩かないほうがいい。医者にも安静にするよう言われているはずだ。
流は宥めるように氷上の頭を撫でた。
「今日は無理だなあ。家で静かにしてないと」
「もう静かにしてるのやだよー」
「あ、じゃあさ、その代わり明日土曜日だしどこか行こうか」流は翔に目配せした。「翔も行くだろ?」
その確定しているような言い方にうっと言葉に詰まる。翔は流から目を逸らし、小さく呟いた。
「・・・私は、別に」
「えー、なんで?翔ちゃんも行こうよえんじょいしようよ」
当然のごとく氷上が飛びついてくる。流はこの流れを読んでいたのかもしれない。
翔はがっくりと項垂れた。
「・・・わかったよ、どうせ力ずくでも連れてくつもりなんでしょ」
翔が氷上の頼みごとを断れないのを、流は知っている。弱味を握られたも同然だ。
だから翔は行くしかないのだが、そんなこととは知らずに氷上は手放しで喜んだ。
「やった、じゃあどこ行くかは流が決めてね」
「え、じゃあどこか行きたいところとかある?」
氷上は笑顔で叫んだ。
「遠いところー!!」
ふたりに気づかれないように、翔はこっそり溜息を吐いた。
血の繋がらない従兄妹たちはまだ隣で騒いでいる。
休日までこいつらに振り回されるのか。
そう思うとやっぱり溜息しか出ないのだった。
五月、土曜日、晴れ、気温不明、朝八時。
駅前に着いた翔はまだ誰も来ていないことに驚いていた。
氷上はまだしも、提案者で計画者の流は十分前に来て然るべきだ。何故集合時刻にここにいないのか。
もしかして騙されたのかもしれない。翔はすっと背筋を伸ばした。ドッキリだったりして。
だったらここにいる意味はないな。帰ろう。
勝手に理由をこじつけて、再び自転車にまたがると、
「お、翔!俺より早い!」
「くーっ・・・!」
心を読んでいるとしか思えない、有り得ないタイミングで流がやって来た。大きく手を振りながらやってくる姿が憎たらしい。
騙されたと思ったからブッチした作戦は未遂に終わった。
翔はまた自転車から降りるはめになって歯軋りした。
「氷上はまだ?」
「私が一番乗りだよ・・・」
うんざりした顔で吐き捨てても流の笑顔に影が差すことはなく、むしろ機嫌が良くなっていくようで、
「張りっきてんねぇ意外と」
威力の大きい爆弾を投下してきた。これには翔も牙を剥く。
「あんたたちが遅いんでしょ!!」
「そうかなー?この時間が普通じゃない?」
「非常識よ反社会的よルーズ過ぎよ!普通は十分前行動が基本なんだよ!!」
「ああ、そうそう、ところで今日どこ行くかわかる?」
急激な方向転換に着いていけず翔は呆然とした。なんでこうも素早く身をかわすんだろう。
流のマイペースぶりには脱帽だ。
「ね、当ててみ?」
そんなの知るわけないのに隣でねぇねぇ五月蝿いので仕方なく口を開く。
「・・・動物園」
「うっわー凄い!全然惜しくなーい!残念でしたぁ!!」
「あんた小学生か!!」
思いっきり笑い飛ばす流に反射で叫んだ。ここまで馬鹿にされる筋合いない。
翔が本気で怒っていると、流は嬉しそうな顔をして、
「やっぱり翔は面白い子だなあ。ほんと可愛いなあ」
とぽんぽん翔の頭を叩いたのだが今発した言葉の意味が一言足りとも理解できなかった翔は思考回路をこんがらがせて結局流の手を振り払うために頭をぶんぶん振るしかなかった。
今なんか凄いこと言わなかった、こいつ?
そう思っても脳が拒否しているのか、鮮明に思い出せない自分が腹立たしい。
そして必死に抵抗する翔を見ている流の笑顔も腹立たしい。
すっかり翔の機嫌が悪くなったところで、ようやく氷上がやって来た。シンプルで可愛らしいワンピースでのお出ましである。ふたりを見つけて、自転車のバランスをがったがたに崩しながら大きく手を振った。
流もそれに応えながら声を上げる。
「氷上ー早くおいでー。もうすぐ電車来るからー」
「はーい!」
氷上は転びそうになりながら自転車を留め、ほっと胸を撫で下ろしているふたりのもとへ駆け寄ってきた。
とびきりの笑顔のまま口を開き、
「ふたりとも早いねー!」
「お前が遅いんじゃー」
最後は綺麗にハモり、三人仲良く歩き出す。
小さな駅のホームに、電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。
始めの駅から経由駅まで三駅乗り、そこから乗り換えてターミナル駅で降りる。車窓から覗く景色は都市部に近づくと同時にめまぐるしく変化し、地元と都会の違いが歴然とした。
電車を降りればそこはもう知らない世界だった。
「うわぁ、ビルおっきいなー」
「本当だ・・・目眩しそう」
「倒れたら面白いんじゃない」
駅の改札をくぐり人ごみに揉まれながら南口を出た三人は、目の前に立ちはだかるビルの群れに目を丸くしていた。交差点に溢れる人の数も、排気ガスの濃い空気も、ビルに貼り付けられた大きなテレビも、何もかもが新鮮に目に映る。
氷上は口をあんぐりと開けながら、無意味に跳ねたり感嘆の声を上げたりしていた。
「倒れたらおんぶして運んでくれー」
「え・・・置いてくか手を引きずるかの二択じゃないの?」
「いいとこなしの二択か」
「ねえねえ早く行こうよー」我慢できなくなったのか何なのか、氷上が流の袖を強く引っ張る。
「どこ行くか知らないけどとにかく行こーう」
「目的地まだ教えてくんないの?」
「うーん、そーだねえ。面白いから種明かしはまだにしよう」
ひとりだけ楽しそうなのが気に入らなくて、翔は少し頬を膨らませた。
「じゃあこれからバスに乗るよ。バス停どこだ?」
「あんたが知らなかったら誰も知らないわよ!!」
「あ、あったあった。多分あれだ。もう少し歩くよ。氷上は文句を言わないように」
「えーーーー」
氷上は早速文句を垂れ流し始めたが、大人しくふたりに着いてくるところは偉い。流も満足そうに微笑んだ。
南口付近にバスターミナルがあり、その中から目的地までの列を選んで並ぶ。流たち三人が並んだ列は、時間が早めなのか人数が少なかった。
数分ほど経つと一台のバスが滑り込んできて、三人の並ぶバス停の前で停まった。乗っている人数もあまり多くない。お陰で、一番後ろの広い席を確保し一緒に並んで座ることができた。
「何時間かかるのー」
座席に座って一息つくと、既にぐったりしている氷上が流にだらしなくもたれ掛かった。目もぐるぐる回している。
流は氷上に肩を貸しつつ苦笑した。
「そんな何時間もかかる訳ないだろ。十分くらいだよ」
「そうかーほんとかー」
「ほんとほんと」
その言葉通り、十分ほどバスに揺られ、流の指示でバスを降りた。
降りた先に見えるのは、さっきのビルとは比べ物にならないほど巨大な建物。
「はい正解はー、プラネタリウムでしたー!!」
元気良く発表する流の笑顔は絶頂で、太陽のように眩しかった。
氷上も呼応して何か叫んだが、翔は物思いに耽るように「プラネタリウムか」とだけ呟いた。
翔がプラネタリウムに来たのはこれが初めてだった。
小学生や中学生のときの遠足をサボっていたから、という理由もあるが、両親に連れて行ってもらったことがなかったのだ。
プラネタリウムに限った話ではない。動物園も水族館も周りの子供はみんな、家族と行ったと楽しそうに話すのに、翔だけが置いてきぼりを食らったようにそういう経験がなかった。
翔が幼かった頃、父は単身赴任で妻と子を残し、遠く離れたところへ発って行った。母も仕事を持ち、保育施設で夜遅くまで過ごすこともしばしば。そんな環境でなぜ動物園に連れて行けなどと言えるのか。
翔は小さいながらも親に無理を言ってはいけないということをわかっていた。だからどんなにライオンが見たくても、どんなにペンギンと触れ合いたくても、ひとり我慢して画用紙に絵を描いていた。
それだから、今視界いっぱいに広がるこの建物に、感慨深いものを感じざるを得なかった。
「翔?どうしたの?」
「はっ・・・?」
「なんかぼーっとしてたよ」流は少しかがんで翔を窺った。「大丈夫?」
氷上も不思議そうに翔を見ている。翔は慌てて言った。
「あ、うん。別に普通」
「そうか。それじゃあ行こう」
「行こう!」
流と氷上は張り切ってずんずん歩いていく。翔も少しどきどきしながら後を着いて行った。
だが、
エントランスに近づくにつれ、その場の異様な光景に目を見張ることとなった。
翔は思わず絶句した。
見えるのは、さっき乗ったバスを五台か六台を用意しても入りきりそうにない人の行列だった。
そして、列の最後尾に立っている職員の持つプラカードには、『チケット売り切れ』の文字。
「なにこれ・・・」
人のざわめきが遠のいていく感覚に襲われる。
「売り切れだって・・・入れないじゃん・・・」
せっかくここまで来たのに入れないんじゃあ意味が無い。
翔は情けない顔で流に問いかけた。
「波崎さんこれはどういう」
「え、入れるけど?」
こんなに首って直角に曲がるのかと思うくらいぐるりと曲がった。翔はなんでそう言い切れるのかと問い詰めようとして、
「・・・予約券!?」
流が右手に持っているのは三枚の予約券。科学博物館のロゴとプラネタリウムの文字が印刷されている。
「だから入れるぜー」
流はその中から一枚を抜き取って翔に渡した。その券が神々しくきらめくように見えたのは翔だけだろう。
「なんだ・・・もう無理かと・・・。ん、でも予約したのいつ?」
「昨日だけど」
「なんでこんなに早く手に入ったの?凄い人気なんでしょ?」
何ヶ月待ち、といった感じのレアチケットが何故ここに。疑問符がいっぱい浮かんでは消える。
「あーそれはね、ちょっと表では言えないけど、俺の親のお陰」
いたずらっ子のように目を細める流を、果たして称えるべきか非難すべきか。正当な取引を介して巡ってきたわけではないだろうこのチケットを、翔は恐る恐る手に乗せる。どこをどう見てもそれは普通の観覧券だった。
「細かいことは気にしないで、別に犯罪って訳じゃないんだから。ちょっと融通してもらっただけだよ。
だから早く行こうぜ」
翔の表情を汲んでか流は早口で捲くし立て、ふたりを入り口へと急かした。翔だって嫌な訳ではないのだが、何となく後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
そんな翔とは裏腹に氷上は相変わらずのテンションで、出所の知らないチケットをパタパタ振りながらガラス戸を突っ切っていった。
それを見ていると少し元気が出てきた。
ふたりに続いて翔も胸を張り、受付のお姉さんにチケットを渡す。
科学博物館のマスコットキャラクターがデザインされた、緑色のスタンプを押してもらってゲートを通ると、様々な展示物が並んでいた。
パラボラアンテナの性質を利用した実験や、目の錯覚で見える不思議な図形など、どれも目を惹くものばかり。
翔は気になって仕方なかったが、プラネタリウムの開演が迫っていて時間がない。
「終わったらまた来ればいいよ」
流はそう言ったが、翔は名残惜しく展示物を眺めていた。
プラネタリウムは四階にあるので、エスカレーターに乗って上まで行くことになる。
それはいい。
だが、氷上はがスカレーターに乗ったことがなかったのだった。及び腰でエスカレーターに挑む姿はまるで三歳児だ。
「足元からどんどん板が出てくる・・・。こんなの乗れないし」
さっきの威勢はどこへやら、半泣きの状態で足をぶらぶらさせる。
「タイミング合わせれば大丈夫だって」
励ますように流も声をかけるが、
「タイミングがわからんのだあほ!」
「あー・・・もうしょうがない」
なんでここには階段ないんだと溢しながら、氷上に背中を向けて少し屈む。
「・・・おんぶしてやるから、お乗り」
「おおー!やった、楽ちん!」
氷上は嬉々としてその背中に飛び乗った。着地した瞬間流の呻き声が漏れたような気もしたが、気づかなかったことにする。そのまま抜群のバランス感覚でエスカレーターに足を踏み出した。
翔もふたりから何となく離れるようにしてエスカレーターに乗った。このふたりとひと塊に見られたら正直恥ずかしい。とんでもなく目立っていることも避ける要素のひとつだ。当本人たちはまったく気にも留めていないようだが。
そうこうしているうちにやっと四階に着いた。
翔もほっと安堵の息を漏らす。
プラネタリウムの入り口から先は薄暗くて、怪物が大きな口を開けているようにみえた。翔たちも怪物の口へゆっくりと入っていった。
予約券に書かれている席を探し、ふかふかの座席に腰を下ろして一息つく。場内はすでに人で埋め尽くされていて、ざわめきが波のように押しては返していた。
しばらくすると、開演を知らせるブザーが鳴る。同時に会場も真っ暗になっていく。
隣に座る氷上が、怖がっているのかぎゅっと翔の服を握り締めた。
「はい皆さんこんにちは。本日は当科学博物館にお越しいただきましてありがとうございます。これから
プラネタリウムを楽しんでいただくわけですけども・・・」
女の人の声が口上を述べ始めるころには、もう周囲は暗闇に包まれていた。氷上の握り締める力は一層強くなり、服にかなりの皺が寄った。翔は安心させるために氷上の手に自分の手を重ねた。大丈夫、と軽くポンポン叩く。
「それではこれから皆さんの頭上にたくさんの星たちが現れます。よくご覧ください」
翔は息を殺してじっと天井を見つめた。
初めてのプラネタリウムをしっかり目に焼き付けておけるように。