友情
「翔?」
・・・誰かが私の名前を呼んでいる。
ここは何処だろう。
身の回りは霧に包まれているかのようにぼんやりしていて実体がない。
あ、明るい光が一筋入ってきた。
光はばらばらに拡散していく。
不思議な空間が光で満たされ、眩しいと目を固く瞑った瞬間、
「・・・あれ?」
「やっと起きた・・・」
近くで溜息と伴に吐き出される誰かの言葉。
頭を少しずらすと、怒っているような、困っているような顔をしている翔の母が立っていた。
なんでお母さんがいるんだろう。
まずここは何処だろう。
眼球だけをぐるぐる動かして、辺りを見渡す。
教科書が投げ出された勉強机、文庫本や図鑑がぎっしり詰め込まれた本棚、質素なクローゼット、どれも知っているものばかり。
ここは翔の部屋だ。
そしてこの手触りは・・・
・・・布団か。
翔は重い体をゆっくり起こした。そのとたん、激しい目眩が翔を襲った。
思わず呻くほどの頭痛。
「大丈夫?」
母親がそっと歩み寄り、翔の背中をさすった。
母にこんなことをされたのは小学生以来なので少しむず痒くなる。
「大丈夫・・・でもなんで私家にいるの・・・?」
翔が思い出せるのは学校にいたというところまで。どうやって家に帰ったのか、とんと見当がつかない。
自分の記憶を必死で辿る翔を嘲笑うように、母は即行で答えを出した。
「波崎君、って子が運んできたわよ。会社から帰ってきたら家の前に強面の真っ黒な車が停まってて、何
事かってほんとびっくりしたよ。その後車から城門の制服着てる男の子がでてきて、あんたを担いで出て
きたの。ぐっすり眠ってるし、その、なにがあったか知らないけど血まみれで、二度驚いたんだから」
波崎・・・流、か・・・。
そういえば流に氷上の過去とか教えてもらったっけ。
そこまでは思い出せるのにそのあとが曖昧で・・・。
私感情的になったような気がするんだけど全然覚えてないや・・・。
「なあに、血だらけで帰ってきた娘を心配する母親の気持ちを考えれば、説明するのが筋じゃない?」
黙り込んだ翔を見下ろし、腕を組む母。この高圧的な態度は安堵の裏返しなのだろうが、人身掌握の能力に劣る翔では、わかるわけがない。
「お母さんには関係ない話だから知らなくていい」
「関係ないなんてよく言えるわね。一晩中気が気じゃなかった私に対して酷すぎる」
「心配してくれなんて頼んでないのにそっちが勝手にしてきたんでしょ。血にまみれようが腕一本失くし
てこようがあんたには関係ないの」
「親に向かってあんたとはなにか。しかも例えがえげつなすぎるわよ。私はあなたをそんな残酷な性格に
育てた覚えはないわ」
「私だってあんたから教わったことなんて何もない。せいぜい林檎の皮剥きくらいよ」
「・・・はぁ。もう、どうでもいいわ・・・」
呆れ果てた母は、盛大な溜息をつきながら翔の部屋を出て行った。
翔がひねくれた性格であると同時に、母親も相当ひねくれていた。
だからお互い素直になれず、昔から衝突が多い。
本当のところ、どうなんだろう。翔は母に愛されているのか疑問に思ったことが幾度もある。
でも顔を合わせば喧嘩三昧なので、もうそんなことは考えなくなった。
親からの愛情なんてどうでもいい。
愛されていなくてもいい。
こんな翔のことを母はどう思っているのだろうか。
頭痛が次第に治まってきて、ほっと溜息をつくと伴に立ち上がろうとした。
ふと目線を下にずらすと、未だに血がべっとりと固まったシャツを着ていることがわかった。
・・・着替えさせるくらいやってくれればいいのに。
母へのささやかなる愚痴は言葉として外へ出ることはなく、翔の心の底で消化された。
とりあえず新しいシャツに代えよう。
ベッドから跳ね起き、時刻を確認する。
まだ6時。いつも家を出る1時間以上前だ。充分時間はある。
シャワーを浴びて、制服を着て、ご飯を食べて、早く学校へ行こう。
そうしたら早く流と会えるかもしれないから。
てっきり後からくるものと思っていた流が既に教室にいるのを見たときは、少しぎくりとした。
流は教室のドアから顔を覗かせた翔を見て、にこやかに微笑む。
「あ、おはよう翔ちゃん」
盲点を突かれた気がした。
新手の苛めだろうか。
尚も話しかけようとする流を押し留めて、翔は口を開く。
「前も言ったけど、ちゃん付けやめてくんないかな」
どこか馬鹿にされているような呼び方が気に食わない。
「そう?じゃあ翔」
「う・・・」
こういう馴れ馴れしい呼び方も気に食わない。
なのに、満更でもないと思っている自分に内心動揺する。
「あの、昨日」何も考えないように、次の言葉を発する。「昨日、家まで運んでくれたみたいで、その
・・・ありがと」
ぎこちなく礼を言う。気恥ずかしくてまともに目を見れない。何故とっさに出てきた言葉がこれなんだろう。言わなければ良かった、と思った。
礼を言われると思っていなかったらしい流は、笑みを湛えたまま少し目を大きくする。
「いや、別に・・・でもいきなり寝始めてびっくりした。まあしょうがないね、神経尖ってたんだよ」
それでも流に笑顔で見つめられていると、張っていた意地が引っ込んでいくようだった。
親の前では素直になんてなれないのに、不思議だ。
「うん・・・昨日のこと覚えてなくて・・・」
珍しく素直になった翔に対して、流は何故か悔しそうで驚愕の表情を向けた。
「えっ、覚えてないのっ!?」
「はぁっ!?」
さっきの穏やかな声色とは打って変わり、急に凄い反応を示した流に困惑の色を隠せない。
私なにか物凄いこと言ったっけ?
「え、どこを覚えてないの?」
流の救いを求めるような眼光にたじろぎ、答えるのにタイムラグが生じる。
「氷上の過去を話してくれたことは覚えてるんだけど、その後が・・・」
「えー、なんだよ・・・」
がっくり項垂れる流。
「あれ結構勇気いったんだけどなぁ・・・」
「なにが?」
「もういいよ。どうせ思い出せないんだろ」
翔の横で頬を膨らませ、流はなんだかふて腐れているようだった。
事情のわからない翔はただその横顔を見つめるしかない。
なんなのよこいつ・・・。
いきなり理由もわからず機嫌を損ねられて、翔だってご機嫌メーターは右肩下がりだ。話しかける気にもなれず何となく記憶の底を彷徨っていると、突然ある疑問が胸中に湧き上がった。
「ねえ、あんたと氷上は本当の従兄妹じゃないんでしょ?」
「ああ、血は繋がってないけど?」
不機嫌を引きずったままの流にもめげず、次の言葉を続ける。
「じゃあどうしてふたりはそっくりなの?」
流の表情が固まった。いくらか、貼り付けた膨れっ面が払拭される。
「そっくり?そうかな」
「初めて氷上を見たとき、あんたにそっくりだな、って思ったの。髪の色は少し違うけど、雰囲気とか笑
顔の作り方とか話し方とか。従兄妹って聞いて納得してたんだけど、後で他人っていわれてもピンと来な
いなって」
「そうか、似てるんだ、俺たち」
流はまた嬉しそうな笑顔に戻った。
「そういえば氷上はよく俺の真似をしてたかもしれない。小さい頃からできるだけそばにいたし、一方通
行だったけど一緒に遊んだりした。いつもぼーっとしてたけど、周りが自分を良く思ってないことは知っ
てて、それで普通の人間になろうとして俺の真似してたんだよ、きっと。近くにいる人間の真似をするこ
とってよくあるじゃん?親とかさ」
喋り終えた流は手を頭の後ろに置いて、大きく反り返った。椅子がぎしぎしと軋んだ。
「そうかー、俺は親だと思われてたのかー」
くすぐったそうに笑う流の髪を、窓から差し込む朝日が照らす。
そんな流を眺めていると、どうしてかお腹の底が温まっていることに気づいた。
ふたりきりの教室に、朝がやってきた。
女子は嫌いだ。
翔はつくづくそう思う。
五月蝿くて悪口が大好物で、文句ばっかり言ってるくせになんにも変えようとしない。
はみ出し者は貶め、虐め、みんなで並ぼうとするその性格の面倒くささ。
自分が女だということにも辟易してしまう。
いっそ男に生まれてこれば楽だったろうに。
目の前の女子を睨み付けて、翔は心からそう思った。
「宇奈月さん、入院してるんだってね?あなた何か知らないの?」
プライドの高そうな、見下ろす口ぶりで問いかける同じクラスのどっかのお嬢様。
その雰囲気や語調からにじみ出る底意地の悪さに吐き気がする。
私が教えるまでもなくあんたらは知ってるんだろうが!!
いつもの無表情に眉間の皺を加えたまま、翔は押し黙っている。
何も言わない翔を横目に、取り巻きたちが話し出した。
「昨日べたべた仲よさそうにしてたじゃない。友達なんでしょ?」
「宇奈月さんの入院って、教室の後ろの赤い染みにも関係あるのよねぇ?なんなの、あれ?」
ほーら知ってんじゃん。今朝見たときはほとんど跡形もなかったのに、節穴なこいつらが気づく訳がない。昨日流がしっかり拭いたらしいから普通に見ればわからないはずだ。
尚も黙り込む翔に向かって、最初の女子が口を開いた。
「噂が広がってるのよ。昨日学校から救急車で運ばれていく宇奈月さんを見た、って。学校で何かあった
のかしら?」
「・・・私はなんにも知らない。もう邪魔だからどっか行け」
黙っていても埒が明かないと判断した翔は、うんざりしながら目を逸らす。
第一、更衣室の入り口に立ち塞がっているのだから本当に邪魔でしょうがないのだ。体育は授業終了五分前に終わるとはいっても早く次の授業の準備をしないと。
すると今まで袖にされたことがないのか、あからさまに女子の眉毛が跳ね上がった。
「邪魔ってなによ、私たち宇奈月さんの心配をしてるんじゃない。なにか問題?」
「だったらもう少し心配そうな顔でもしとけばいいんじゃない」
「とーっても心配よー?だって自分のことを刺すなんて常人には有り得ないし?」
思わずまた女子の目を睨み返していた。
「知ってるのになんで聞いた」
「あ、やっぱり本当だったんだ。あの子昔からおかしかったからね。自分の身に刃物を入れるなんて日常
茶飯事だったのよ。考えられないわ」
取り巻きたちがくすくす笑った。
「宇奈月さんもあんな子引き取らなければよかったのに、って私のお父さんも言ってるわ。自分だったら
拾ったとしても捨てるって。それが普通ってもんなのにねぇ」
今までお金で苦労したことはない、与えられなかったものもなにも無い、すべてを何不自由なく通り過ぎてきたお嬢様は、他人の不幸をそいつのせいだといわんばかりに笑い飛ばした。
無知ほど恐ろしく、おぞましいものはない。
そして無知は当事者にとってとてつもない怒りとなる。
翔ははっきりいって氷上とは無関係。家族ぐるみの付き合いもない。親が知り合いというわけでもなく、まったく関わりのなかった赤の他人。
でも、目の前のこいつらが知らない過去を知っている。辛く冷たい過去を。精神が崩壊した訳を。
だから、何も知らずに笑っているこいつが許せない。
味わってみればいいと思う。あの子の悲しみを辛さを寂しさを。
そしたらなにも言えなくなる。
そうは思っても当然そんなことを体験させることは不可能なことはわかっている。
それなら一発で覚えさせるしかない。
これで少しはわかるだろう。
わからないのなら幾らでも、頼んでくれればやってあげる。
「・・・で、殴っちゃったの?」
「・・・ぅん」
学校から程遠い、ファストフード店。目前に展開されるチーズバーガーやポテトをちびちび食べながら、溜息をつく翔。
そんなぐったりしている翔を見て、流は困ったように微笑んだ。
あの後のことを、翔は克明に思い出すことができない。ただ顔にさっと血が駆け上がって、自分を制御できなくなっていたことは覚えている。そして、ゴッと鈍い音がしたことも、この拳に残った彼女の柔らかい頬の感触も。
すべてがスローモーションに見え、本当は瞬時の出来事だったのに翔の脳は有り得ない速度で回転し、ひとつの結論に達した。
あ、これ先生に怒られるわ。
たった数週間だったが入学時から真面目な生徒という肩書きを死守してきた翔にとって、先生の信頼を失うというのはキャラ崩壊の危機である。
逃げよう。
思い立ったが早く、素早く教室へ駆け戻り、鞄を引っ掴んで学校を飛び出した。
そして、それに何故か流が着いてきて、現在に至る。
「ああ、でもすっごいすっきりした・・・」
さっきまでの重い表情は吹き飛び晴れ晴れとした顔でシェイクをすする翔に、流は驚き呆れるしかなかった。
「すげー度胸だよ。怖くないの?」
「なにが怖いの?」
「お嬢様グーで殴ってんだから親は黙ってないだろうし、今だって教師陣が血眼で翔のこと探してるよ。
どう、怖くない?」
「別に。見つけられるもんなら見つけてみろだ。もし見つかったらあんた、囮になれ」
「俺は悪いことなんもしてないからお咎めなしだし」
「学校サボってきて何言ってんの」
「ぐあー、それがあったかー。くそー」
軽く頭を掻き毟りふざける流を見ているうちに、名案が浮かんだ。シェイクから口を離し、テーブルに手を付く。
「あ、そうだ、あそこ行こう」
首を傾げる流に、少し体を乗り出す。
「氷上の病院。そこなら誰も強行突破できないでしょ」
受付で病室を尋ねると、三階の突き当たりにある個室とのことだった。さすがお金持ち。細かいところにも抜かりなく金を注ぎ込む。
ふたりでエレベーターに乗り込み、三階のボタンを押す。二階で三、四人のおばさんたちが入ってきた。昼間から制服を着た学生がいるということでじろじろ眺められたが、三階で降りた翔たちはその好奇に満ちた視線から遮断された。
無言で廊下を突き進み、『宇奈月氷上』のネームプレートが掲げられた病室のドアをノックする。
少し間を置いて、中からか細い返事が返ってきた。
静かにドアを開けると、こっちを見て目をまんまるくした氷上が大人しくベッドに入っていた。
「あ・・・翔ちゃん・・・?」
「・・・うん」
気まずい空気が流れ、翔は首の後ろを掻いた。
氷上は翔を見てだんだん泣きそうな表情になり、小さな声で言い出した。
「ごめんね、私のせいで。私があんなことしたからだめなんだよね。だから嫌われたよね・・・」
氷上の両目にじわりと涙が染み出すのがありありとわかった。喜怒哀楽の怒と楽が抜け落ちている彼女は表現の幅が狭くて、そして激しい。ひとつの感情に陥れば、もうコントロールできなくなってしまう。
翔は慌てて氷上のもとへ駆け寄った。
「私はあんたのこと嫌ってないよ。言ったでしょ」
「ほんとに・・・?」
「・・・うん、ほんと」
「ほんと・・・」
氷上の顔から悲しそうな表情がすっと引き、無表情に戻った。
そして、やって来たふたりを交互に見てにっこりと笑った。
「翔ちゃんと流!どうしたの、遊びに来たの?今日はここに泊まる?」
「いや・・・泊まらな」
「じゃあ一緒に寝よっか!布団空けるね!」
ノンストップで喋りだす氷上。突然の変わりように翔は戸惑うが、流は慣れているのか笑顔を絶やさないままベッドに近づく。
「元気そうでよかったね」
「うん、よかった」
「泊まらないけど遊びに来たよ。退屈だったでしょ?」
「えー泊まらないのかー。でもすっごい暇だったから嬉しい」
そう言って一点の曇りも無い笑顔を咲かせた。
氷上は流のことが好きなんだろうな。
氷上の無邪気な笑顔を見てそう思った。
翔のことを好きだと言ってじゃれ付いてきたときと同じ顔を、流にも向けている。
きっと周りには邪険に扱われ、見向きもされなかったのだろう。そんな中、いつも寂しくて孤独だった氷上に根気良く話しかけ続けた流。きっと流のおかげで人を少しだけ信頼できるようになった。
人は人を変えるのか。
翔は真昼の明るい日差しを見つめた。
だったら私も流と関わって少し変わってきているのかもしれない。
無表情だったのに、感情がなかったのに、冷たかったのに。
流によって、少しだけど覆ってる。
人と関わりたくないから自己中なお金持ちだらけのこの学校に入ったのに、いままで以上に人と触れ合っている。
とんだ誤算だけど、それでいいかもしれない。
いままでの自分は自分を勝手に決め付けていただけ、って思えたから。
自分の文章構成能力の無さに悲しくなりました、まる