深い闇の奥の奥
ちょっと言い過ぎたかもしれない。
いや、かなり言い過ぎた。
国道沿いの歩道で、翔は緩くブレーキをかけた。
その途端春特有の殴りつけるような風が吹いて、翔の神経を逆撫でした。
風に髪をもみくちゃにされるのが鬱陶しい。
軽く苛立つと同時に、翔の心の中には小さな罪悪感が芽生えていた。
正しいことは言ったつもりだったけど・・・。
さっき氷上に対してがなり立てたことを思い出す。あれは確実に氷上が悪かった。
けど――――――――
喧嘩慣れしてないお嬢さんにはキツかったよね。
私にそれくらい言う権利はあったとしても・・・。
佇む翔の側をたくさんの車がビュンビュン通り過ぎる。
赤信号が二回きて、車の通りがスムーズになったり滞ったりを繰り返した後、翔は俯かせていた顔を上げた。
ちゃんと謝って友達の件は丁重にお断りしよう。
これが私のできる精一杯の優しさだ。
そう決意した翔は、自転車をひっくり返してもと来た道を走り出し始めた。
学校は既に閑散としていた。
部活に打ち込む姿もちらほら見えたが、この学校は部活に加入している人が少ないので放課後は静まり返っている。
お金持ちは部活に汗を流すことなど趣味ではないのかもしれない。
もしくは勉強に忙しいのか。
どちらにせよ翔の知ったことではないが。
サッカー部と思しき掛け声を遠く背中に聞き、わざわざ置き場へ行くのが面倒くさいので自転車を玄関の脇に乗り捨てた。
一応鍵をかけ、靴を履き替える。
落とした上履きが乾いた音を立てた。
何処にいるかもわからない探し人を探す。
“なんでこんなことしてるんだろう”という問いは五月蝿すぎるので強制的に黙らせた。
ひとまず教室を見てみよう。
翔は階段に足をかけた。
1年生の教室は4階にある。よってこの階段は息切れ製造所となる。
普段運動する習慣のない翔にとって、最上階までの道のりは長く厳しいものなのだ。
こんな迷惑製造所の餌食となった翔は呼吸も荒く、2階の踊り場に辿り着いていた。
あともう少し。
3階への階段をのぼりきったとき、上から人影が伸び、翔に覆い被さった。
何となしに見上げると、それは流だった。
翔は本能的に顔をしかめた。なんでよりにもよって。
こっちを見ているので何、と問おうとするより先に流が翔の元へ駆け寄った。
近くで見ると、流はかなり憔悴しきっていた。瞳が不安そうに揺れている。それに息も切れ切れだ。
何かあったのだろうか。
こいつがこんなに動揺するなんて。
流の目を覗き込んだ翔はなにか胸騒ぎを覚えた。
呼吸が正常に治まるのを待って、流は翔の肩を強く掴んだ。普段の翔なら冷たく振り払うところだが、流の状態を鑑みて抵抗しなかった。
じっと翔の目を見つめて、流は口を開いた。
「氷上死ぬかも」
「え?」
「とにかく今危ない。来て」
言われたことが頭に入ってぐるぐる廻るばかりで、全然理解しようとしない。
終いには何を言われたかまでわからなくなった。
流はそんな硬直した翔の手を引き、階段の上へ誘導した。4階を左へ曲がり、教室の前に立つ。
そこは翔たちの教室だった。
「中にいる」
流は教室のドアを指し示した。
中はしんと静けさに包まれていて、なにが起こっているか全くわからない。
硬直が溶けた翔は、恐る恐る口を開いた。
「何があったの?」
「俺には理由はわかんないんだけど」と流は言った。「突然刃物を取り出して、・・・自分を刺した」
「刺した・・・!?」
「うん・・・」
流は額に手を当て溜息をついた。
そして、なにかを思い出したようにパッと手を離し、目を少し見開いた。
「そういえば氷上、嫌われたとかなんとか・・・」
「え?」
「・・・翔ちゃんに嫌われた、もう死ぬしかない、とか言ってたんだけど君なにか知って」
翔は流の話を最後まで聞かず、ドアに駆け寄って思い切り引き開けた。
ガランとした教室。生気のない空間。閉め切られた窓からはなんの音も聞こえない。
そんな部屋の片隅に、崩れ落ちたように座り込んでいる氷上がいた。
そばには血で濡れた小型ナイフが転がっている。
ロッカーと机の間には多量の血液が流れていて、床を真っ赤に染め上げていた。
そして、氷上自身も血まみれだった。
赤黒い腹部からどくどくと血が溢れ、どこを刺したか一目瞭然。
あの綺麗な顔にも何十本もの傷が刻まれていた。
翔は顔から血が失せていくのを生々しく感じていた。
急いで氷上の元へ駆けつけ、肩に手を置く。
「宇奈月さん・・・?」
翔の呼びかけに、氷上は閉じていた目をうっすらと開けた。
「どうして?なにしてるの?」
「・・・翔ちゃん・・・?」
「私昨日あんたを止めたじゃない。死んじゃうから、って。なのになんでまたこんなことするの?」
「私は翔ちゃんに嫌われたから」氷上はうわ言のように呟いた。「生きてる価値ない」
「生きてる価値なんて私が決めることじゃない!嫌われたからって死ぬのはおかしいでしょ!?」
「おかしくなんてない。好きなものに嫌って言われたら死ぬしかないの。だから私は死ぬの」
「それだったら私を嫌いになればいい。好きなだけ嫌えばいいよ・・・!」
「翔ちゃんのことは大好きだから、嫌いになんて絶対ならない」
「私じゃなくてもいいじゃない!あなたを認めてくれるひとはもっとほかにいるわよ!!」
「いないよ」氷上は翔を見つめた。「いないよ」
氷上は無表情のまま泣いていた。目からぼろぼろと涙が零れている。
翔は何も言えなくなった。この子の信念は曲げられないと悟った。
翔は震える指で何となく氷上の涙に触れた。
その瞬間、氷上の心の奥に眠っている暗い闇が垣間見えたような気がして、
翔は氷上を抱き締めた。自分の制服が血に染まろうがどうでもいい。ただわかってあげようとして、しっかり腕の中に包んだ。
この子は私に似ている。
世の中に深く心を閉ざして生きているところも。
わかってくれる人なんて何処にもいないって思ってるところも。
そして誰のこともわかろうとしないところも。
「翔ちゃん・・・?」
氷上が儚げな声で呟いた。息をするのが辛そうにもきこえた。
「私のこと好きじゃないんでしょ?」
「かもね」
翔はゆっくり目を閉じた。氷上の柔らかい髪を軽く撫でた。
「でも嫌いじゃない」
氷上がふっと微笑んだ気がした。体の強張りが解けて、そのまま翔にもたれかかった。
氷上は気を失っていた。
救急車を呼び、氷上が担架に乗せられていくのを呆然と眺めたあと、翔と流は自分たちの教室の前に座り込んでいた。
どちらもなにも言おうとはせず、長い沈黙が続いている。
翔の頭の中では様々な憶測や疑問が飛び交い巡り、ごちゃごちゃと脳味噌がかき回されていた。そのせいで沈黙を沈黙と感じていなかった。
だから流が長い間口を閉ざしていても、それがまるで一瞬のことだったかのような気がしていた。
「君にだから言うんだけど」重い空気を破り、流が話し始める。「氷上のこと」
「うん」
「氷上はさ、小さいころ酷い虐待を受けててさ、児童施設に預けられたところを俺の叔父さんが引き取っ
たんだよ。あまりにも可哀想だったから」
淡々と、静かに言葉を発する。
翔は大人しく流の話を聞いていた。
「そのとき既に精神は病んでて、笑ったり泣いたりとかいう感情がなかった。中学のときからは少し笑う
ようにはなったけど。でもそういう子のこと周りが何て言うと思う?」
翔はなにも言えなかった。
「精神異常者、人間じゃない、出来損ないのロボット、ほかにももっとえげつないこと言われてた。それ
で宇奈月家の名前も廃ったし、ほら、クラスの子とか誰も氷上に話し掛けようとしないだろ?金持ちの
情報網は広くてね。親とかが止めてるんだ。うちの子が感染したらどうするのーって。まあ止められて
なくとも氷上と話したい奴なんていないだろうけどさ。」
流はまるでどこか異国の知らない人の話をしているかのように、素っ気なく話すのであった。
「もともと人付き合いが苦手だった氷上はさらにコミュニケーション能力を失って、家族にも胸の内を明
かさずずっと生きてきた。もちろん従兄の俺にもね。本当になにも言わないし感情も表さなかったけ
ど・・・」
翔はそっと流の顔を覗き込んだ。さっきとは打って違い、長い睫毛が震えて、物悲しさを語っているようだった。
「氷上は絶対つらかった。感情はトラウマのせいで少し壊死してるけど、全部じゃない。残った心できっ
と泣いてるはずだよ。誰にも言わないけど・・・俺にはわかる」
そこで話は終わったのか、口をきゅっと結び、床を見つめた。
ふたりの間に再び沈黙が訪れた。
すると突然、
「私のせいだ」翔が呟いた。「私があんなこと言ったからあの子は自分を刺したりしたんだ」
「あんなこと?」
「しつこく纏わりついてくるから厳しく言ったの・・・酷いことも言った」
翔の細い腕がカタカタと震えだした。目は大きく見開かれている。
その翔の手を、流は無言で握った。
「全部私のせいなんだ。私があの子を刺したんだ」
「違う」
「私が自分勝手でなにも考えてなかったから・・・」
「違うよ」
「私が全部なにもかも悪いんだ・・・」
「違うって言ってるだろ」
そう言って流は、強く翔を抱き寄せた。
動揺して震える翔の体が、流の腕の中でゆっくりとほぐれていく。
翔は潤んだ瞳で流を見上げた。それは流の知っている翔の顔ではない。
こんな無防備な表情を、今まで見たことがない。
なぜだか胸が締め付けられた。
流は翔を安心させるために、頭を優しく撫でた。まるで泣きじゃくる子供をあやす母親のようだった。
「君はなにも知らなかった。それはしょうがないことじゃん。だから君のせいじゃないし、悪くもない。
それに、氷上のあんな笑顔初めて見たから・・・嬉しいよ」
流が穏やかな笑顔を向けると、翔も少し表情が柔らかくなった。
そのまま流の肩に頭をもたせかける。
花のような香りがした。
それからしばらく何の動きもないので、翔の背中を軽くポンポン叩いた。
すると、こもった静かな寝息が聞こえてきた。
「ああ、もう困るなこの子は」
そう言いつつ、流の表情はとても嬉しそうなのだった。