自由な人と笑う人
目覚めの悪い朝だった。
翔は体を起こすと同時に顔をしかめた。
深く刻まれた眉間が、昨日の出来事のすべてを物語っている。
思い出したくない。
翔は昨日の出来事がリプレイされるのを拒むように、勢いよく布団を撥ね上げた。
静寂に包まれた廊下を歩き、自分の教室に踏み込むと、一番会いたくない人に笑いかけられた。
「おはよう、翔ちゃん」
その呼び方に顔が引き攣る。
「なんで居るの・・・?」
翔は掠れた声で聞いた。
現在の時刻は7時半。この時間に教室に居るというのは高校生にしては早すぎる。だから今までこんな時間に学校に来るのは翔ぐらいだったのに。
氷上は小首を傾げ、
「翔ちゃんと早く会いたかったから」
と言ってまた笑った。
顔の引き攣りはまだ治まらない。
「・・・何時から居たの?」
怖くなってそう問うと、昨日の夕食を聞かれたかのように軽く、
「うーん、6時くらいから?」
氷上の笑顔が眩しい。
翔は頭を抱えた。
何故この子に好かれるはめになったんだろう。
私はただ自傷行為を止めただけだ。構ってやったとはいっても好意を持って接した覚えはない。
氷上の思考回路は複雑怪奇だ。
「という訳でねー、朝ご飯を食べよーう!」
突然の提案に意味がわからなくなる。
困りきっている翔を尻目に、氷上は鞄から弁当箱を取り出した。
「・・・え、私もう朝ご飯食べて来」
「見て見て、ミートボール美味しそう!!」
何なのこの子、全然聞いちゃいねえ。
氷上の有無を言わせぬ物言いに翔はなんだか泣きたくなってきた。
無理矢理口にミートボールを突っ込まれそうになったとき、誰かが教室に入ってくる気配がした。
振り返ると、それはまた追い討ちをかけるように会いたくない人物であった。
「何やってんの、ふたりとも」
薄い色の柔らかい髪を揺らめかせてやって来たのは、昨日玄関で会った少年だった。
翔の不機嫌度はマックスに振り切れた。
すると、少年はきょとんとした表情で、
「あれ、氷上じゃん。何してんの」
困惑に包まれた翔をよそに、
「流には関係ないよ」
ふたりの会話が成立していた。
本当にどうでも良かったが、事情を知らないのが自分だけというのも面白くないので聞き返した。
「あんたたち・・・知り合い?」
ふたりが同時に翔を振り返った。とても居心地が悪い。
「知り合いっていうか、」
「従兄妹だよ」
そしてふたり一緒に微笑んだ。
ああ、だから髪の色とか、身に纏う雰囲気とか、振る舞いとか、いろいろ似ていたのか。
内心似すぎて気持ち悪いと思っていたのでこの事実に安堵する。
それにしても、従兄妹とはいえ似過ぎやしないか。兄妹と言われても特に違和感のないレベルだ。
だが他人にいろいろ突っ込むほどの興味深さは持ち合わせていないのでどうでもいい。
本当にどうでもいい。
「あ、そうだ。俺の名前言ってなかったよね」
翔の仏頂面にも構わず、少年は輝く笑顔を咲かせる。
「波崎流。まあ流とかって呼んでよ」
別にあんたらと関わるつもりもないんだから名前の呼び方なんてどーでもいいでしょ!!
翔は憤りながら、心の中でそう吐き捨てた。決して口に出すことはしない。
「・・・で?なんであなたもこんなに朝早いんでしょうか、波崎君」
「あはは、君ほんとに面白い子だね」
「はぁっっっ!?」
「特に理由はないよ。家にいてもすることないし、学校行こっかなーって」
どうせお家には有り余るほどの娯楽品があるくせに。この金持ちめ。
「じゃあ逆にさ、なんで君も早いの、・・・翔ちゃん?」
今度ははっきり眉毛がつり上がるのがわかった。
悪寒が一気に駆け巡り、体中の毛という毛が総毛立った。
・・・不快だ、その呼ばれ方は。
性別の違うあんたには特に。
だからという訳でもなかったが、翔はいつものように他人を冷たく突き放した。
「あんたに関係ない。だから話す必要もない」
「自分から聞いておいてその言い方はないんじゃないかなー」
「!!」
翔は鋭く流を睨み付けた。
なんでこんなに飄々としてるの、こいつ・・・。
本当に大っ嫌いだ。
「知りたくて聞いたんじゃない。あんたなんてどうでもいいから」
翔の突き刺すような言葉にも、流は動じようとしない。
ずっとにこにこ笑っているだけだ。
もともと無い愛想をカラッカラに尽かせて、翔は机に突っ伏した。
ほどなく聞こえてくる寝息に、氷上はつまらなそうな顔をした。
そんな翔を眺めながらも、絶えない流の笑み。
でもその笑顔は、どこか悲しそうにみえた。
朝のHRが終わってからというもの、翔はそれからずっと氷上に付き纏われた。
授業中はないとしても、休み時間や昼休み、移動教室や掃除中までしつこくくっついて来る。
人間アレルギーの翔にとってはたまったもんじゃなかった。
話しかけられるだけで苛々する性格なのだから。
化学講義室を掃除中、しびれを切らした翔は箒をぐさっと床に押し付けた。
「あのさぁ、宇奈月さん」
「なぁに、翔ちゃん」
翔の目がぐわっと見開かれた。
こいつ私を内部爆発で殺す気か・・・!!
「私ひとりでいたいの。だからあなたにいられると迷惑」
「私翔ちゃんのことだーい好きだから無理ー」
「でも私はあなたのこと好きじゃない」
「嘘吐きはいけません」
「嘘じゃないから・・・。大体昨日の今日で私のこと大好きなんておかしいでしょ」
「だって私は翔ちゃんが大好きだよ?」
会話にならない通じ合わない会話にならない。
翔が溜息をつくのは当然だった。
氷上はどうして私にばっかり付き纏うんだろう。
ほかにもっといるじゃない。優しくて可愛くて面倒見が良くて表情豊かな子が。
私みたいな冷たくて無表情で何の面白味もない人間じゃなくて。
それなのに何故私?
話しかけてくれた、ってそれだけ?
どうせ聞いたって答えなんて返ってくるわけがない。
また擦れ違うだけだ。
翔は氷上を無視してまた床を掃き始めた。
帰りのHRが終わると、翔の席に笑顔の氷上がやって来た。
「あのね、学校の近くに喫茶店があるんだけど、これから一緒に行かない?」
「行かない」
翔はさっさと荷物を鞄に詰めて、右肩にかけた。
そして早足で教室を立ち去ろうとする翔の前に、氷上が両手を広げて立ち塞がった。
柔らかく微笑みかける。
「ねえ行こうよ」
行くことは氷上の中で既に決定事項らしい。翔の意向など知ったことではないようだ。
「・・・行かないってば」
翔は頑なに制止を振り切って廊下へ出る。そして半ば駆け出すように階段を降り始めた。
そんな翔を、氷上は諦めず追いかけた。
「なんでそんなに嫌がるの?コーヒーも私が奢ってあげるのに」
「・・・意味もないのに外出なんてしたくないの。特にあんたとなんか」
翔は玄関で素早くローファーに履き替え、自転車置き場へとダッシュした。
鍵を取り出して早く走り出せるように用意する。
自分の自転車を見つけチェーンを外している間にも、氷上は翔に話しかける。
「あそこのケーキすっごく美味しいんだよー」
氷上は異様なまでの速さで鍵を外し、翔のところまで引きずっていった。
「一番美味しいのはモンブラン!」
「私は行かないって、言ってるでしょ・・・!」
自転車を鍵から開放し、自転車にまたがる。その刹那、翔は物凄いスピードで走り出した。
追いつかれないように、もっともっと速く・・・!
校門を突破して、もう諦めたかと後ろを振り返った翔は、危うく自転車から転げ落ちるところだった。
氷上が、恐ろしいほどの満面の笑みを湛えて、すぐそばに迫っていた。
「なんで逃げるの、意地悪」
とびきりの笑顔に似合わない言葉。
翔は本能的に恐怖を感じていた。
「私が行こうって言ったら行くの。やろうって言ったらやるの。わかる?」
そんな自分勝手な言い分通るわけないじゃない。
私にだって気持ちはあるし、それに、
なんであんたに私のすべてを握られなきゃいけない?
翔の死んでいた感情が、お腹の底で僅かに揺れた。
「喫茶店に行こうって言ってるんだから翔ちゃんも一緒に来なきゃいけないじゃん。そういうのをさ、」
友達っていうんだよ。
翔は潰れるくらい強くハンドルを握った。
翔の中でなにかが弾けた。
「・・・あのさあ」
翔はゆっくりと顔を上げた。鈍く光る瞳は、怒りと失望の色だった。
「あんたさっきから言いたい放題言ってるけどさ、私に答える権利は無いの?そりゃ私は無表情だけど一
応心はあるの。だから一緒に居たくないし喫茶店にも行きたくない。そういう私の意向は無視なわけ?
押し付けてばっかで甘えてんじゃないわよ。あと言いたいことあるんだけどさ、私とあんた、いつ友達
になったって?私には全く覚えはないけどね?仮に友達だったとしてさ、友達の気持ちもわかってあげ
られない人なんて友達名乗る資格ないから。私の言うこと聞いてればいい、なんてのは友達じゃなくて
それはただの下僕だ!!」
氷上は俯いたままだったので表情は窺い知れなかったが、笑っていないことだけは確かだった。
そんな氷上に、翔は最後の一発を浴びせた。
「そして私はあんたの下僕になんかなりたくない」
氷上の肩がビクンと跳ね上がった。泣いているのかもしれない。
だがそれでいい。
翔は体勢を立て直し、ペダルに足をかけた。
そのまま漕いで、その場を後にする。
数十メートル走ったあと、何気なくうしろを振り返る。
しかしそこに氷上の姿はなかった。
残像だけがぽつんと佇んでいるような気がした。
翔は再び前を向いて、気にせず漕ぎ出した。
その足取りは軽かった。
それもそうだ。
だってそのあと、
あんなことが起こるなんて、
思ってもみなかったのだから。