壊れた少女
傾いた太陽が柔らかい日差しを投げかけている。
学校内の人影は消えうせて、昼間のかしましさが嘘のよう。
そんな校舎の廊下に、翔の足音がいやに響き渡った。
翔の足はトイレへと向いている。
入り口付近に鞄を降ろした翔は、踏み出す足を一瞬止めた。
それは得体の知れない違和感だった。
何故そんな感覚に陥ったのかわからなかったが、とにかく用を足すことに目的がある。
因果関係なんてどうでもいいし、さっさと帰りたい。
だから迷わず一歩前進した。
トイレの中は温かい陽だまりに満ちていた。
窓にはめ込まれた色とりどりのステンドグラスが、太陽の光を受け幻想的な影を床に落としている。
目を細めながら入っていった翔は、一番手前の個室に手をかけようとして、初めて気づいた。
私ひとりじゃない。人がいる。
翔は目を凝らした。
その人影は窓際に立っていた。当たり前だけど女だ。
長いミルクティー色の髪が、日差しによってきらきらと輝いている。
何故か既視感を覚えて不思議に思ったとき、今朝会った少年のことを思い出した。
茶色っぽい髪は、確かに似ていると思えば似ている。
そしてあの、妙な威圧感もだった。
短い溜息が、自分の口から漏れ出た。
翔は、不本意にもそのうしろ姿に見惚れてしまっていた。
綺麗な子だな。
そう思ったときだった。
何気なく下ろした視線の先にあるものに、翔は絶句した。
それはその子の足元を濡らしている、
真っ赤で生臭い血溜まりだった。
そうだ、さっき嗅いだこの匂い。
これがあの違和感の原因だった。
翔は言葉を失った。
血溜まりには不定期にポチャッという音が響いて、新たな血が流れ落ちている。
その度に臭いはだんだん増してくるような気がした。
はっと我に返った翔は、恐る恐る口を開いた。
「・・・あの、何してんの?」
自分で発した言葉が脳内でぐるぐる廻る。
気分が悪い。
窓際の少女は翔の言葉にゆっくり振り返った。
少女の左手首が真っ赤に染まっていた。
皮膚が裂け、切り刻んだような刃物の跡があり、右手にはぬらぬらと赤く光る剃刀を持っている。
翔は吐き気を押さえ込んだ。
少女はこっちを見つめながら、再び剃刀の刃を自分の手首に沿わせた。
傷にあわせて新鮮な血が、ゆっくり滲み出てきた。
それを見た翔は、どこから沸いて出たかもわからない激しい怒りに全身を震わせた。
自分の体を傷つけることに対しての嫌悪感からかもしれない。
とにかく、理性を失っていた。
三度剃刀を振り上げた少女に、翔は猛突進した。
剃刀を握っている右手を強引に掴み、取り上げようとする。
すると、その少女も必死に抵抗してきた。
右手に力を込めて、ぐいぐいと自分の喉元に引き寄せて・・・
翔の顔に戦慄が走った。
「ちょっと、・・・馬鹿じゃないのっっ!?」
翔は少女の右手を全力で引き戻した。両手の筋がつりそうになる。
これほど翔が必死になっているというのに、少女は全く剃刀を離そうとしない。
それどころか、傷だらけの左手で翔に掴みかかってきた。
少女は自身の手首を握っている翔の腕に、力任せに爪を立てた。
「っっつ・・・!!!」
翔は歯を食いしばった。そうでもしないと耐えられえない。
「離せっっっ!!」
腹の底から搾り出すような声を上げ、少女の手を振り解く。
そして、その手で力いっぱい少女の頬を平手打ちした。
少女ははっとしたような顔で翔を見上げた。
一瞬の隙を見逃さず、翔は少女の手から剃刀をもぎ取り、トイレの隅に叩き付けた。
呆然としている彼女の襟首を掴み、翔は声を張り上げた。
「何やってんのよ、死ぬかもしれないのに!!!」
翔は彼女の目をキッと睨み付けた。
少女は瞳を潤ませていたが、しっかりと翔の目を見返していた。
そして、言葉を紡ぐ様に、静かに言葉を発した。
「なんで、あなたは、こんなことするの?」
思ってもみなかった言葉に、翔は何も言えなかった。
よく考えてみれば、翔が他人に関わるなんて反吐が出るほど嫌だったはずだ。
なのに今、自傷行為に走っていた少女を救おうとして、大声をあげている。
・・・今日の私はホントにおかしい。
翔はその場にへたり込んだ。
私何やってるんだろう。
今日はふたりの人間に振り回された。皮肉にも、容姿の似たふたりに。
人が嫌いで、話したくもなくて、声すら聞きたくないくせに。
それくらい人間アレルギーなくせに。
急に黙り込んだ翔の顔を、少女は不思議そうに覗き込んだ。
翔と目が合うと、少女はにっこり微笑んだ。
そして、その笑顔には似合わない、あることを告白した。
「私ね、自分が大嫌いなの」
いきなりの発言に、翔の頭はクエスチョンマークで埋まった。
彼女は再び口を開いて、
「嫌いなものは傷つけるの。あなたもそうでしょう?」
翔はじっと彼女の顔を見た。
その笑顔は、なんの偽りも無い無邪気なものだった。
とてもあの少年に似ている。
「でも私ね、あなたのことは好きだよ」
「は・・・?」
「だって、私に話しかけてくれた人はあなただけだもん」
初対面の人間に向かって“好き”なんて言う人初めて見た。
翔には到底考えられないことだ。
そもそも翔は人を好きになったことが無いが。
「私ね、宇奈月氷上っていうの」
彼女は少し首を傾げた。
「あなたの名前は?」
今日の私はいつもの私じゃない。
翔はもう一度頭の中でつぶやいた。
そして、目の前の少女もあの少年のように苦手だ。
何故今日はこんなに嫌な人間と出会うんだろう。
そして翔は長い長い溜息をついた。