彼女の世界
桜舞い散る4月の朝、八潮翔は短い髪を甘い風になびかせペダルを漕いでいた。
まだ朝は早い。
肌寒い空の下、自転車を学校へと向かわせる。
タイヤが段差に乗り上げて、カゴに入った緑茶のペットボトルが浮き上がった。
淡い色の桜の花びらが、自転車の通った跡を静かに辿った。
私立城門高校は、県内トップの学力を誇る名門校だ。毎年何十人もの卒業生を国立大に送り出している。偏差値においては、公立上位校をも凌駕してしまうほど。その名に惹かれて毎年多くの受験生がエントリーするが、そのほとんどは上流階級の子供たちである。一般家庭の子供は受けることが少ない。城門高校はご子息、ご令嬢の定番校でもあるのだ。
去年の冬、翔は見事この学校に合格した。もともと成績は良かったし、模試の結果も申し分なしだったので、可能性が無い訳ではなかったが。ただ、周囲の人間が狂喜に満ちていたことは覚えている。
そんな中、中流階級出身の翔は若干浮いた存在であった。
さして裕福ではない八潮家に城門高校の高い学費を払うことは難しい。だから翔は奨学生試験を受け、奨学金で学費をまかなっているのだ。
でも周りの生徒は金持ちだらけ。高価なブランド品を身に付けて、堂々と廊下を闊歩する。
そんな仲間に入れるはずがない。
でも翔にとってそれは、願ってもないことだった。
人嫌いに仲間は必要ない。
浮けば浮くほど都合がいいのだ。
翔はいままで勢いよく走らせていた自転車を減速させ、自転車置き場へと向かった。その間ひとりも生徒を見かけない。とめられている自転車もまだ少なく、ガランとしていて寂しい光景だった。
自分のクラスの置き場に自転車をとめ、カギをかける。一連の動作に無駄はない。
早々と置き場を後にし、玄関へ歩を進めた。
玄関で靴をかえていると、ひとりの男子生徒が入ってきた。こっちに近づいてきたところをみると、どうやら同じクラスらしい。
さっさと立ち去ろうとすると、
「おはよう」
と挨拶してきた。
人嫌いな翔にとって他人と挨拶を交わすなど面倒くさいことこの上ない。
無視してやろうか。
そう思いつつ顔を上げると、
・・・にこにこして翔を見ている少年の姿があった。
ふわふわとウェーブを描いた薄い栗色の髪。陶器のような白い肌。瞬けば風が起こりそうなほど長い睫毛。
それプラス満面の笑みは、一種の神々しさがあった。
天使かコイツは・・・。
翔はそのオーラに気圧されて、
「・・・おはよう」
と答えるほかなかった。
悔しくなって上履きに強引に足を突っ込み、その場から逃げ出す。
教室へ向かう途中、さっきの少年の笑顔が脳裏に浮かんだ。
・・・一番苦手なタイプだ。
1限目の授業は数Iだった。この授業と限ったわけではないが、毎回小テストが行われる。
今日もその習慣は忘れられることなく実施された。
問題数は少なく、用紙に印刷されているのは5問だけ。
でもその中のふたつに、翔が復習していなかった問題が混じっていた。
公式は忘れてしまった。この2問は捨てるしかない。
翔は書けるぶんだけ解を書き込み、目を閉じた。
こうしていると、シャーペンが紙を通して机に当たる音と、窓の外から聞こえてくる風の音ばかりが鼓膜を揺らし、心地いい気分になる。まるで周りに誰もいないような、自分ひとり青空の下でうたた寝をしているような、そんな感覚。
数分後、この平和的雰囲気をぶち壊すようなタイマーの音が教室に響き渡った。
解答時間が終わり隣と交換するときになって、はたと気づいた。
隣に座っているのは、今日の朝玄関で会った少年だ。
いままでなんで気づかなかったんだろう。
翔は呆然とした。
でもそれは無理もないかもしれない。例えそれが隣の席であっても、翔はクラスメイトなんかに興味はなかったから。
翔は内心を悟られないようにしながら、その少年とテスト用紙を交換した。
・・・満点だ。
全ての答えにまるを付けながら溜息をつく。
一度授業でやったとはいえ、この応用的な問題をいとも簡単に解くなんてすごい。
差を見せ付けられた気がした。
「・・・すごいね」
テストを返すとき、思わずそう口走ってしまった。
少年はまたあの柔らかな微笑みを返し、
「ありがと」
と言った。
この世のすべてを愛しているかのような笑顔。
やっぱり苦手だと、改めて思った。
なんだか今日の私はいつもの私らしくない。
穏やかな喧騒に包まれた昼休み。翔は弁当をつつきながらぼーっとしていた。
無愛想で絶対笑わなくて人を寄せ付けない、それが私のはずだったのに。
挨拶を返したり、自分から話しかけたり。
・・・ああ格好悪い。
ムシャクシャしてハンバーグに箸を突き立てた。
いつもと違う私にもムカつくし、あの少年はもっとムカつく。
周りに正直で、素直に生きているようなやつは昔から大嫌いだ。
そんなやつに心を乱されるなんて最悪。
そしてそいつに振り回されているような自分も最悪だ。
気づけば翔は、箸をぶっ刺し引き抜く作業を幾多も繰り返していた。
手当たり次第つつきまくったせいで弁当のおかずはばらばらになってしまった。
長い一日が終わり、やっとやってきた放課後。
翔は小さく伸びをした。
教科書類を詰め込みすっかり重くなった鞄を肩に、そそくさと教室から退散する。
入り浸る必要は特に無し。
教室を出て数歩目、運の悪いことに困り顔の英Iの先生にばったり出くわした。
案の定翔に声をかける。
「あ、八潮。ノート出したやつをさー、この名簿にチェックしてくんない?」
反射的に名簿と大量のノートを受け取ると、じゃよろしくねーと言って先生は去っていった。
・・・面倒臭。
また教室にもどる羽目になった翔は、本日最大の溜息をついた。
面倒な作業も無事終わり、教室をあとにしたのはあれから30分以上経ってからだった。
いつもなら家に着いている時間。
早く帰ろうと思ったが、帰る前にトイレへ寄っていくことにした。
重い鞄をかつぎ、教室の隣にあるトイレへ向かう。
入り口に差し掛かったとき、妙な違和感を覚えた。
でも当たり障りの無い程度。
構わず翔は、トイレに足を踏み出した。