君から奪うもの
あんなに明るかった君の金色の髪が、今は黒に染まっている。
僕はあの明るい色が好きだったが、なぜだか一度もそのことを君に言わなかった。
ベッドで寝ている君は、体を横に向け、背中を丸めている。胸のあたりがゆっくりと膨らみ、萎んでいく。
気持ちの良さそうな眠りだ。こっちまで眠たくなってくる。
僕は思わずベッドに頭をのせた。
君の呼吸音が聞こえる。目を閉じると、それが命の息吹だということが分かる。しばらくの間、こうしておこうか。
外からは何も聞こえない。そのせいで聞こえる夜の無音が、僕らを二人きりにしてくれる。君は僕が今、こうしてここにいると分かっているだろうか。分かっていないだろうな。それでも、このままゆっくりとしていたい。
でも、あまり時間はない。僕はずっとここにいるわけにはいかないみたいだ。どこかが、誰かが、僕を呼んでいる。僕の体の奥にあるもの、体の隅々に溢れているもの、それらがどうしてもそこに行きたがっている。
僕はベッドに寄りかかっている体を起こし、目を開けた。
君の顔が見える。唇の厚さ。真っすぐ伸びる力強い眉毛。僕はそれを知っている。
耳の後ろには小さな黒子がある。肩甲骨のところにも、似たようなものが一つ。僕はそれを忘れない。毎日のように聞いていた君のやわらかな声も、宝石のような青い瞳も、僕は忘れない。忘れたくないものばかりだ。君はそれを持っている。
さて、僕は君の大切なものを奪わなければならない。それは想いなのか、記憶なのか、命なのか。そして、その一つ一つには、君が残しておきたいもの、大切なものが含まれているということを、僕はよく考えなければならない。
僕はどこからともなく現れた箱を掴んだ。黒点のないサイコロのような、白い箱。入口もなく、出口もない。でも、僕には分かる。これには何かを入れることができると。生きてきた世界のものを入れて、あっちの世界に持っていけると。
そうだ。「もしもの話」をしようか。
もしも僕が神様だったら、君を連れて行くよ。君が行きたがっていたイタリアやスイス、フランス、日本のどこかでもいい。そこへ君を連れていくんだ。旅行に行くように、長いバカンスを過ごすように。ハネムーンのように世界中を回るのも悪くない。でも、僕には無理なんだ。神様じゃないから。それでも、僕が今言ったことを馬鹿にしないでほしい。本気なんだ。僕が神様だったら、そうするよ。
君が毎日使っているノート。僕はその中身を知っている。まるで君が僕を殺したみたいに書いているけど、そうではない。僕が死んだのは君のせいじゃない。
どうせ僕の母親に何か言われたんだろう。「あなたのせいで息子が死んだ」「あなたがあの日、一人で家に帰っていれば」って。
だから君は、僕の葬儀に来られなかったんだよね。僕は知っているよ。僕は葬儀を抜けだして、この部屋に走ってきたんだから。
君は黒い喪服姿で、僕の写真をテーブルに置いて泣いていた。手には小さな白い球の繋がった数珠を持ってさ。髪の毛も黒く染めていて、慣れない正座をして謝っていたね。
君は気づかなかっただろうけど、僕はその姿に驚いて、思わず大きな声で「やめろ」って言ったんだ。僕は君が泣いて謝る姿を見たくなかったんだ。
あの日僕は葬儀場へは戻らずに、ずっと君の側にいた。ずっと君を抱きしめていた。君の呟く懺悔の言葉を否定しながら、いつの間にか僕も泣いていた。
自分の体が焼かれることなんか、少しも辛くなかった。骨だけになっても少しも辛くない。あの事故もそうさ。君が元気に僕に駆け寄って来たのを見て安心したんだ。おかしいだろ。血が出ているのが分かるのに、ちっとも痛くないんだ。君の掌から出る血の温かさが、心地いいくらいだった。
君はもう一人の僕なんだ。あのとき、そう確信したんだ。
だから君は生きるべきだ。こっちにいるべきなんだよ。
僕は零れそうになった涙を人差し指で拭った。そして、テーブルにある分厚いノートを手に取った。
これは向こうに持っていく。君は毎日僕にラブレターを書いてくれている。まるで贖罪のように。でも、そんなことする必要ないんだ。僕はちゃんと分かっているよ。君が僕を愛しているってこと。何も心配することない。僕は死んでも変わらない。君の気持ちは、僕の気持ちと少しも変わらない。だから想いを言葉にする必要はないんだよ。
僕はそっとノートを白い箱に入れた。吸いこまれるようにそれは消えた。
さぁ、もう一つだ。
僕は立ち上がると、部屋の隅にあるタンスへと歩いた。そして、その上に座っているテディベアを手に取った。
僕が死んだあの日。君にプレゼントした、このテディベア。僕はこれも奪うよ。
大事なものだとは思う。僕が最後にあげたものなんだからね。でも、僕は思っているんだ。いつか君が僕のことを忘れて、幸せになれたらなって。その時これは後ろ髪を引くはず。それではいけない。君は僕を振り返ってはいけない。
君はずっと僕を見ているって言うのかな。でも、僕はしっかりと首を横に振るよ。
それは絶対に幸せではない。いない人を愛することが、どれだけ苦しいのか、君と僕は知っているだろう。
僕は愛嬌のある顔をしたクマを、箱に入れた。
ごめんね。君には何の罪もないのだけれど、僕と一緒に向こうに行ってくれ。
さぁ、僕の人生はこれでおしまい。天国でも地獄でもどちらにでも行こう。どちらでもないところでも行こう。僕は行く。君なしで行く。君なしで死んでいく。一番欲しい君を置いて僕は行く。
最後に、と僕は、ベッドで眠る君に近づいた。
聞こえないはずの僕の声が聞こえるようにと、耳元に唇を寄せる。
「もし、君の耳に『愛している』と聞こえたら笑ってごまかしてくれ。僕も笑って恥ずかしさをごまかすから。そして、友達のようにキスをして、夫婦のようにハグをしよう」
僕は小さく、愛していると言った。くすぐったかったのか、君は少し微笑んだ。僕は唇を軽く合わせ、寝ている君が起きても構わないくらいに強く抱きしめた。
君は幸せになるんだ。それは絶対だ。疑ってはいけない。
僕は行くよ。君の大切な想いと記憶を奪って。
また会えたなら。また会えたのなら。次は必ず、君を連れて行く。