野草の丘
1
チュン、チュン。チュン、チュン……。
鳥? ──か。窓から差す透明な薄日にちょっと瞬きしながら、俺は目を醒ました。
ふっ……。こんな事ってあるもんなんだな。俺は何とも言えぬ苦笑いのような気持ちを噛みしめつつ、横のベッドを見遣った。俺の隣では、奈緒が、まだすーすー寝息をたてながら横になっていた。
結局、「やらなかった」なんてさ──。
何かモヤモヤした気分の俺は、タバコに火をつけようかと思ったが、奈緒がまだ寝ていることを思い、止めた。そして静かにベッドから降りて、出窓の外を眺めることにした。
カラマツ林に囲まれた、一寸この高原でも奥まった場所に、今俺たちのいるペンションは建っている。標高一三〇〇メートルを超えるこの場所は、流石に空気も綺麗で、景色にも何か透明感があった。いや、俺の住む東京がむしろ、人にとっては好ましくない棲み家なのかも知れないけど。
何なのだろう、この想いは。──後悔? いや、違う。多分、これで良かったんだと思う。
チュン、チュン。小鳥のさえずりは、絶え間なく聞こえてくる。そっと俺はドアを開けて、部屋の外へ出た。
本当は、二人でこの想い出のペンションに泊まったこと自体、予定外の出来事だった。一〇年の歳月に、ある意味一つの「答え」が出た夜だった。
俺と奈緒が初めて出逢った場所が、此処──ペンション「天の星」だった。あいつは、あのころまだ一〇代だったのだ。一人旅の好きな女の子。余り化粧っけが無くて、一寸ボーイッシュな子。そんな初対面の印象だった。
彼女が住むのは、遠い西の街。東京からは、特急で三時間の距離。
たまたまの休みに、一緒に行く仲間の予定が付かず、一人で行くなら昔からなじみの此処だな、とやって来た俺と、奈緒は初めて出逢ったのだった。
俺たちは意気投合して、その夜、長く語り合った。この宿から一寸森に入った所にある、野草の丘で、寝ころんで星空を眺めながら。他に誰もいない丘で、満天の星空を眺めながら──。
──無限にある星、でも見えるのは視力に許されたほんの一部。それでも、満天の星空はいい。空間の無限さを、最も感じさせてくれる風景。特にここ野草の丘は、広々と視界が開けて、周りに常夜灯がないので、本当に漆黒の空と宝石箱を開けたような星々のきらめきが見える。雲さえなければ天の川さえもくっきりと。
「本当に綺麗ねぇ……」
奈緒がため息まじりに言う。
「そうだろう? ここは知る人しか知らない穴場だからね」
俺は一寸だけ自慢げに言った。
実際、星がこれだけ見える場所は、陸の上ではほとんど無いのだ。昔、小笠原に行く船の上、太平洋のど真ん中で見た星空──それに匹敵するものがここにはあった。
「ねえ、あの白く薄曇った辺りが天の川かしら」
暗闇の中で指差す奈緒。
「そうだね。雲だったら風で流されて動くけれど、あれは動かないだろう? それが本物の証拠さ。──今日は絶好の好天だよ」
「ほんとね」
「もう一寸目が暗闇になれてくると、見える星の数がもっと増えるよ」
奈緒は熱心に、じーっと上を見つめていた。
「このペンションにはさ、小学生の頃に初めて来たんだ。当時はもっと開けて無くて、森の中でクワガタとか取ったもんさ」
「もう随分来てるのねぇ」
「ああ。ご主人とは顔だからね。もう一〇回以上は来てるかな。数えてないけれど」
「ふーん」
奈緒はちょっと鼻を鳴らした。
「ねぇ、英二。宇宙って『空』かなぁ『海』かなぁ」
急に面白いことを訊いてくる娘だなぁと思った。
「無限に広がる海、って感じかな、自分にとっては」
「ふふっ、海かぁ。空と取る人と海と取る人がいるんだよね。ほら、宇宙『船』とか言うじゃない」
奈緒は嬉しそうに言う。
「確かに。でも、自分は海派だな。空って言うのは地球の周りだけ。その周りは無限の海っていう感じがしない?」
ふうん、という感じで奈緒がこちらを見る。
「私、行ってみたいわ。遠い星に。あの光の場所の何処かへ」
「多分、俺たちの時代には、無理だろうね」
「ドライなのね。つまらない」
奈緒はふふっと笑った。
「でも、二人とも星が好きで良かった。こうやって寝そべって星見てるなんて最高の贅沢だもんね」
「そうだね」
一泊して別れた俺たちは、それからひっそりと文通を続けた。携帯電話とかメールとか、そんな便利なものはまだ無かったしね。
恋人──だったのだと、俺は少なくとも思っている。
手紙って云うのは、書くのに結構エネルギーが要るから、時々途切れがちにもなった。俺は東京の大学を卒業して、すぐ就職して、プライベートでも結構ばたばたしていた。要は、大人としての人生を歩み出すための課題に忙殺されていた。一方、彼女は彼女で、風のようにあちこちに行ってしまう根っからの一人旅好き。一寸気まぐれで、不思議な子だったなぁと今でも思う。
なかなか会う機会もなかったけれど、月に一回ぐらいは(大概は俺の方がお金と時間を都合して)はるばる会いに行ったものだった。思えば随分苦労したものだ。きっと若さ故の情熱だったのだろうと思う。でも今となっては懐かしい想い出だ。
──「想い出」という能力は、案外便利な物かも知れないね。
ただ、俺たちは、なかなか「発展しない」二人だった。
恋に関してはお互いホントに不器用であったし、二人の間には、異性という意識はあるものの、同時に何か独特の壁が存在していたようにも思える。あなたを必要としている、でも余り入り込まないで──いつもそう言われているような感じ。何かもどかしい、届かない感じが常にあった。
妹? それとは違うな。自分には本当の妹がいないから、よくは分からない。でも何かが違うと思う。そういった身内に対する想いとは異なるのだ。
去る者日々に疎し、で、記憶も薄れることすらあった。でもひょっこりと奈緒の旅先からの手紙なんかが届いて、また懐かしい気持ちが呼び起こされるのだった。
即かず離れず、そんな感じで過ぎた一〇年間だった。
手ぐらいは握ったけれど、一ヶ月以上も会っていないと、それすら一寸抵抗があった。それに、人前でそういうことをする事自体が、俺は苦手だった。そして多分彼女も。
他に好きな人が出来たことだって何回もある。でも、彼女との関係が切れたことは一度もなかった。彼女も他の男の話をポソッとすることがあったから、同じ様なものだったのかも知れない。でもそれは、敢えて詮索しなかったから、俺は知らない。この先も知らなくて良いと思っているしね。
去年の昨日、つまり八月二六日──二人が出逢ってちょうど九年目の記念日に、俺は彼女に話した。この関係にそろそろ結論を付けたいと思う、と。
これから一年間、お互い会わず、連絡も取り合わずに考えて、もし気持ちが変わらなければ、一年後の今日、二人の想い出の場所、野草の丘で再会しようと。もしどちらかが来なかったら、その時はそれで終わりにしよう。もし二人とも来れば――その時は「結婚しよう」と。
結論を焦っていた気持ちはある。二人とも二〇代後半。ある意味、奈緒との関係が、自分にとって先へ進む足かせになっていた。他の誰かとの結婚を考えたとき、ふと彼女の面影が脳裏をよぎる。恋人ではない、とまでは割り切れない。でも、俺を十分異性として満足させてもくれない……。ある意味の束縛。
こんな関係があってもいいんじゃないの、とある種悟りを開くには、ちょっと若すぎた。長すぎた春の後に、無理に季節を進めようとしても殆ど無駄なことに対しても、まだ抵抗するぐらいの若気があった時代でもあった。
2
八月二六日。俺にはまだ迷いがあった。でも、確かに俺はひとり高原へ向かう単線電車に乗っていた。
奈緒が来るか、それは分からない。俺たちは本当に一年間、連絡を取り合わなかったから。彼女に恋人が出来ているかも知れないし、もしかしたら結婚だってしているかも知れない。
でも、来なければ来なくて良い。それで一つの「結論」が出せるから。何れにしても、自分は前に進まなくてはならないのだ。
駅で降りたとき、キラキラと小雨が降っていた。秋桜の花が咲く駅舎、透明な空気、雨なのに一寸まぶしい太陽──懐かしい景色だった。高原では、こういう「お天気雨」というのは珍しくないんだ。
俺は手荷物の中に傘を探す。
約束の場所──野草の丘は、駅から一寸土地勘の無いと分からない森の小径をくぐって、二〇分ぐらいのところにある。その更に先の方に、俺たちの出逢った想い出のペンション「天の星」がある。「八月二六日の午後三時、この丘の頂で」というのが、俺達の交わした最後の約束だった。
約束の時間までは、まだ小一時間あった。その時間は長いようにも、とても短いようにも感じられた。俺はゆっくりと、朽葉を踏みしめながら、森の小径を歩いた。
あいつの最後の表情を思い出す。悲しいような、でもこれでいいのだというように、多少満足気ですらあるような、不思議な表情。この九年間、あいつもきっと、俺と同じように迷い悩み、そして同じ結論に至ったのだろう。あいつが今日来るかどうかは分からない。でも、いずれにしろこれで良かったのだと思う。
うす暗い小径を抜けると、ぱっと一面の視界が開けた。
そう、ここが野草の丘だ。広大な丘に、季節の草花が繁る。雨で薄雲っていなければ、夜は満天の星空が見えるはずだ。
まだ大分早いな――俺は、腕時計に目を遣った。
それから、ゆっくりと丘の頂の方を眺めると、赤い傘が一つ――奈緒だった!
来ていたんだ……。
俺は、いそいで丘を駆け上がった。普段日当たりのよい丘には、背の高い下草がびっしり生えていて、露が俺のズボンを濡らした。でもそんなことは気にならない。奈緒は、この雨の草むらの中で、もうどれくらい待っているんだろう?
「奈緒!」
俺が声をかけると、彼女は振り向いた。そして、一寸哀しそうな目をして微笑んだ。
「お久しぶり、英二。雨になることは考えてなかったわね」
彼女はジーンズにパンプスの出で立ちだったが、足元は雨露で冷たく濡れていた。
「そうだね。雨になるんだったら、もう少し気の利いた場所にすればよかった」
「でも、いいわ」
奈緒は広い野原を振り放け見る。
「――なつかしいわねー。あれは一八の時。もう一〇年も前になるのね」
「ああ」
あのとき見た満天の星は、とてもきれいで、まだまだ夢があった。
あれから一〇年。奈緒は、少し色っぽくなったけれど、その横顔はまだ昔のあどけなさを残していた。
「奈緒」
「何?」
俺は奈緒の肩を抱こうとした。でもその瞬間、彼女が一寸体を引くのが感じられて、手を止めた。
何となく伏し目がちにする奈緒。
「奈緒……。来てくれたんだね」
「英二さんもね」
「ああ」
「何かドラマみたいね」
そういって一寸笑った奈緒の表情には、どこかしら曇りがみえた気がした。
俺は、「その言葉」を口にするのが怖かった。『結婚』。自分自身、迷い迷い今日この場所に来てしまった。しかしそれでも冗談で来られるような距離ではなかったし、一年の禁をも守ったのだ……。
でも直感的に、奈緒の仕草には何か感じるものがあった。引いている──それは、久々に会ったからではない。奈緒自身の深い処から来ている何か……。
「奈緒」
「英二」
台詞がかち合って、そしてお互いに飲み込んだ。先に話し出したのは奈緒の方だった。
「……私、出来ることなら英二とずっと今までみたいにして居たかったのよ。でも、英二にとってはそれは辛かったんでしょう?」
「……ああ」
奈緒の束縛を恨んだことすらあるさ、心の中で呟く。
「この一年間考えた。あなたのお嫁さんになることを、ずっと。でもね」
奈緒は目をじっと合わせてくる。
「やっぱり決心が付かない。──でも、あのまま別れたくはなかったの。だから、今日、ここに来た。会えて嬉しかったよ。でも……ごめんなさい」
頭を下げる奈緒。
ふぅっ。
流石に吐息が出た。一寸体の力が抜けそうだった。普通に告白して振られるよりも、遙かにズシンとくるものがあった。
でも、不実を奈緒だけに押しつけるのはフェアじゃない。俺だって……。
「俺は今日ここに来た。それは自分の意志だ。でも、俺も迷っているんだ。実のところ百パーセント本気だなんてとても言えない。だけど、奈緒を失うのは、俺にとっても、とてもとても辛い」
気まずく流れる沈黙。
「ヤマアラシの故事を思い出すわ」
と奈緒。
「え?」
「寒い地方にヤマアラシが二匹いてね、お互い温もりを求め合うの。でもヤマアラシって体中に剛毛があってね、余り近付くとお互いの体の針で差し合ってしまって却って痛いのよ。だから、適当な距離があるって様な話」
「………」
この気持ちをどう表現したらいいのだろう。目の前にいながら、届かない。
もどかしい。でも彼女に何らかの恐れをも感じている自分。
雨の野草の丘でこんな話をしているのは余りに惨めだった。俺は、奈緒に提案して、ペンション「天の星」まで歩くことにした。
もう靴なんて濡れてしまっていたけれど、雑木林の中、朽ち葉の優しい道を一〇分も歩けば、ペンションはある。取りあえず、天野のおっちゃん、お茶ぐらいは出してくれるだろ。ノーアポイントメントだけれど。何たって二〇年来の付き合いだ。
「とんだ再会になっちゃったわね」
何気なくそう言った、奈緒の言葉が胸に刺さった。
3
森の小径を抜けると、ぱっと視界が開け、牧場の牛たちが見えた。秋桜の花は色とりどりに咲き、霧雨はいくらか小降りになっていた。
森を出たすぐ脇に、赤い屋根の二階建て。白塗りの壁の小振りなペンション。昔ながらの「天の星」の板看板。此処は、二人にとって懐かしい場所だった。
「失礼します」
カラン、カラン。玄関の牧場風ドアベルがなる。
「あれ! 井上少年じゃない。予約してたっけ」
おっちゃんにかかると、俺も少年扱いだ。二〇年前から、時間が進んでないんだ。小学生の、クワガタ取ってたガキだった頃から。
「いいえ、今日は……」
「おや、今日は彼女も一緒かい。えーと、奈緒ちゃんは久しぶりだね。元気かい」
「はい」
くすっと笑う。おっちゃんが入ると気持ちが和む。
「ああ~、靴ぬれちゃってぇ。森の方から来たのかい?」
「ええ」
「取りあえず、珈琲入れるから、ロビーに上がって」
といって、手近にあるタオルを二本放ってきた。
とてもホテルなんかじゃ考えられない様な持てなしようだ。
「お邪魔します」
俺達は、体をひとしきり拭くと、いろり風のロビーの椅子に黙って腰掛けた。
天野のおっちゃんは何事もなかったかのように台所に姿を消す。そして、そのうち自分の分も入れて三つ、珈琲カップを持って帰ってきた。
「今夜の宿、どうするんだい」
とおっちゃん。
「いえ、決めてないんです。泊まるかどうかも」
「そうかい。でも、もう夕方四時だしねぇ。今日は、まあ、いつものことだけど、二つ三つ部屋の空きがあるから、気が向いたら泊まってってくれや」
「はい……」
奈緒と顔を合わす。同じ部屋に、一緒に泊まったことはない。彼女もこのペンションは何回か訪れているけれど、俺と一緒に泊まったのは一〇年前の八月二六日、あの晩だけだ。あの日は、野草の丘で語り合って、そのあと別々の部屋で寝た。
カラン、カラン。玄関からカウベルの音。
「あ、お客さんだね。一寸考えといてな。夕食の準備がよ、あんまりギリギリだと間に合わないんでね」
席を立つおっちゃんを見ながら、奈緒と再度顔を見合わせた。
「泊まっても良いわよ……」
──ぽつりと奈緒。
「──え?」
「この一晩で、お互いの気持ちに踏ん切りが付くのなら、こんな事ってのもありかなってね。……でも、乱暴は嫌よ」
一寸うつむき加減で。それから一寸こっちを見て弱々しく微笑んだ。
「そんな、乱暴だなんて一度だってしたこと無いだろ。──俺も、このまま別れるのは嫌だ」
このまま別れるなんて、本当に嫌だ。一生後悔するだろう……。俺も決心した。
「で、どうする?」
お客さんを案内し終わったおっちゃんが帰ってきた。
「今晩よろしくお願いします」
そう言った二人に、天野のおっちゃんは、黙ってツインのベッドルームを選んでくれた。
「二一六号、分かるよね、二階の角の部屋。あそこならシャワーも付いてるし。自分で行けるよな」
ポンと俺に鍵を渡す。
おっちゃんは、敢えて事情を深く聞かず気を利かしてくれたんだ。
「食事は六時で良いかい」
「はい」
「良かったら先風呂はいっときなよ。今日一寸遅れて団体が来て混むからさ」
「ありがとうございます」
俺と奈緒は、一晩想い出のペンションに泊まることにした。一年かけて出なかった結論、それを一緒に考えるために。
たった一夜のモラトリアムだった。
4
ひと風呂浴びた後、着替えも碌に持ってきていなかったので、俺はペンションの浴衣を借りて上着の丹前を羽織った。奈緒も最初は恥ずかしがったけれど、でも結局浴衣姿になって、共に夕食の卓に向かい合わせに座った。
ペンションだから、レストランと言うほどのものではない。一寸背の高い食卓が並んでいるような感じである。でも例の団体さんからは外してくれたので、静かに、窓の外のカラマツ林を眺めながら、奈緒と二人っきりになることができた。
見た目はともかく、此処の料理は、地鶏と採り立ての野菜が旨い。自家製のパンも美味しい。パンはおばあさんの手製である。
奈緒と俺は、しばしこの一年間のブランクについて語り合った。居場所が出来てほっとすると、何か急に懐かしくなってきて話題が尽きなかった。奈緒の屈託無い笑顔をみていると、幸せな気分だった。
この時間が何時までも続いてくれればいいのに……。何故、俺たちは上手く行かないのだろう。ふと、そんな感慨がよぎる。
食事の後、「やっと手が空いたよ」と天野のおっちゃんがやってきた。誘われて、ラウンジ脇のバーカウンタに腰掛けた。バーカウンタといってもおっちゃんのやっつけ大工仕事だから、山小屋風の長い木の無垢板なのだが。
自家製赤ワインを振る舞われる。二、三個氷の入ったワイングラスで。アルコールが強いから、ワインというよりもむしろリキュールに近い。氷を入れて冷やして薄めて飲んで丁度良い。
「毎年作ってるけど、段々旨くなってきてるだろ?」
甲州種葡萄から作るハウスワインなので、フランスワインのように洒落ちゃあいない。でも、一寸甘い中に素直な葡萄の香りがして、飲むと優しい気持ちになれる酒だった。
「今年のはイガミが少ないですね」
「そうそう、葡萄の蔓を入れないようにしたら、だいぶ丸くなったんだ。毎年改良してるからね」
「美味しいわ……」
と奈緒。
「奈緒ちゃんは初めてかい、これを飲むのは?」
「はい」
「レディーには余り無理強いしないからね」
おっちゃんは笑う。
「井上少年はもうかれこれ二〇年だけれど、小川奈緒ちゃんも長いよね」
「ええ。今日で、初めてきてから丁度一〇年なんです」
「へえ、そんなになるかねぇ。二人とも忘れずによく来てくれるよなぁ。でも一緒に来たのは珍しいね」
「ええ、そうですね」
と俺。
「ま、野暮なこたぁきかないが、そろそろ結婚とかは考えてないのかい?」
「え……」
「あ……」
と、二人で同時に絶句。
「まあ、いいよ。してみないと分からないもんだけどね、迷うわなぁ」
天野のおっちゃんは、少ししみじみと言う。
「俺もかみさん貰って、子供二人いて、ま、みんな伸び伸びしてるよ。こんな田舎だからね。俺の場合、結婚してよかったと思ってるよ」
天野のおっちゃんの昔話を聞くのは、自分は初めてではなかった。
「天野のおじさんも、以前東京にいたんでしたよね」
俺は口をはさむ。
「そうだな、大学卒業までな。それから、一寸勤めて辞めて、九州とか行って、野良仕事したり、いろいろやって結局この村に帰ってきたって訳だわ。それから地元で所帯持って」
「自由な人生って羨ましいなぁ」
と俺が言うと、
「そんなことは無いよ。井上君だって、順調に出世してるんだろ。莫迦やって寄り道してないだけさ」
「いや、そうでもないんですけど……」
一寸考え込んでしまう。
自分は、それなりに大学も出て仕事にも就いて、一所懸命やってきたつもりだ。でも、奈緒の事がいつも心のトゲだった。いっそ棄ててしまうことも出来ず、かといって妻にも出来ずに、一年間会わないなんていう莫迦な約束までして、それでも結論が出ずに今日泊まっているのだから。
「へえ、九州なんて行っていたんですね」
と奈緒が話題を振ってくれている間、俺は黙って、今晩、そしてこれから先どうするべきなのかを考え込んでいた。
「少年、何か元気ないな」
「あ、一寸考え事を」
──少年、か。一寸苦笑い。それに返事をしてしまう自分も自分なのだが。
「奈緒ちゃんは可愛いから、少年も呆っとしてると逃げられちゃうぞ」
「ええ、まあ……」
「ふふふっ」
意味深に笑う奈緒。酔っているのか一寸肌が赤い。
心和むひとときだった。この後部屋に帰れば、ある意味の答えを出さなければならない。それは、お互いにとって緊張でもあり、ストレスでもあった。
「一寸酔っちゃったかな」
と言う奈緒。
「まあ、部屋に戻ってゆっくりしてくれや」
とおっちゃん。
「そろそろ皿洗いとかしないといけないしな。今日は混んでっからよ」
「これからですか。大変ですね」
「まあ、これが仕事だからなぁ。慣れれば大したこと無いよ」
そう言って笑う。俺と奈緒の空いたワイングラスを無造作に掴むと、おっちゃんは台所の方へと戻っていった。背中越しに手を挙げて一言、
「じゃ、おやすみ、な」
そう言い残しながら。
「お休みなさい――」
グラス二つと酔い醒ましのミネラルウォーターを二つ貰って、俺と奈緒は部屋への階段を上った。
二階の廊下でそっと彼女の肩に腕をかけたが、奈緒は逆らわなかった。いつもならやんわりと避けられる事が多いのだが。でも、一寸体を固くしたのは感じられた。
そのまま無言で、俺達は部屋に戻った。
5
奈緒が部屋のシャワーを浴びている間、俺はじっと考えていた。
部屋の外からは、ジージーという夜行性の虫の羽音が、微妙な音程のハーモニーとなって聞こえてくる。よく聞くと色々な生き物の物音が混ざり合って聞こえ、此処が深い田舎であることを思い起こさせた。そしてそれは今日が特別な日だと言う意味でもあった。
奈緒を自分のものにしたいという欲、それは確かにある。でも、同時にそれを強く抑制する何か、も俺の心の中にはあった。奈緒の心が分からない、という不安。十年の重みと同時に今晩一晩しかチャンスが無いというプレッシャー。長く進まなかった恋を無理に今決着して本当によいのか? ずっとこの先それで良かったと思えるのか。考えれば考えるほど深みにはまってゆく。
カチャッと音がして、シャワーを浴び終えた奈緒が出てきた。
「浴びる?」
「──うん」
別にどちらでも良かったけれど、結論を先延ばしにしたい気持ちから反射的に返事をする。どっちにしろ礼儀として──などと、下心と妙な生真面目さの混ざり合った気持ちで、俺はシャワーを浴びた。
シャワールームから出ると、奈緒がミネラルウォーターを二つのコップに入れているところだった。
「お水で乾杯、だね」
お互いのベッドに浴衣姿で向き合って座って、俺達は小声で乾杯をした。
微妙な雰囲気だった。
客観的な状況としては、奈緒は全てを許している、と言って良いだろう。なにしろ男と二人きりで泊まっているんだから、世の中の人は皆そう思うだろう。でも、彼女はもちろん「抱いて」と自らは言わない。むしろ意図的に話題をそういう方面から逸らしている感じがした。一寸よそよそしい。何となく目線が落ち着かないし。
本心は、「ノー」なのかな……。
たった三〇センチの間隔。でも、それを乗り越えることへのためらい。
今までずっとそうだった。手を繋いでも、却って何となくよそよそしくて、奈緒の方から体を寄せてくることはなかったし、こちらから近づくとやんわりと距離を取られることが多かった。それは俺を戸惑わせたし、男として餓えさせた。
あなたを必要としているけれど、でも近付き過ぎないで──彼女は何時もそう言っている感じだった。ダブル・バインド。そしてそれは今も同じだった。
抱いても良いですか? ──そうハッキリ訊いて良いもんなら、訊きたいぐらいだった。駄目と言われても、その方が気が楽なくらいだ。
──こういうときは男がリードするもんなんだろうな……。
自分は、女の方から寄ってこられると却って引いてしまうタイプだった。奈緒も俺と似たもの同士、きっと俺が体を近づけると同じ距離だけ引くだろうし、それは俺を再び傷つけるだろうと思った。無理に抱く──それは俺には出来なかった。行きずりならばそれで良い。でも、一〇年間の歴史、曲がりなりにも一緒に過ごしたハイティーンと二〇代、その綺麗な想い出をぶち壊すことは許され難かった。
一寸でも良い、彼女の方からオーケーのサインを送ってくれれば、俺はためらわずに彼女を抱きしめられるし、そうすれば後は自然に委せられる。でも、これが、そうはしてくれないんだよなぁ……。
非道くないか? いや、寧ろむごくないか?
もちろん、彼女を責めるのはいささか筋違いだと感じてはいるのだけれど。
「明日の朝ご飯も、おばあさんの焼いたパンが出るのかな」
「多分ね」
なんて感じで、自分も彼女のペースに合わせてしまっている。
一寸会話がとぎれて、彼女の微妙にうつむいた頬が紅く染まっているのが、妙に色っぽく見えた。じっと見つめると、一瞬目があって、一寸奈緒は身を固くして、また目線を逸らした。
やっぱり「ノー」なのかな……。
そうやって勘ぐると何か疲れたような、一寸どうでも良いような気持ちも浮かんでくる。「乱暴は嫌よ」という夕方の台詞。優しくだったら抱いても良いのよ、とその時は取れたが、今微妙に緊張してうつむく奈緒を見ると、抱いてはいけないという意味だったのか、とも思えてくる。
下らない思考ゲームだった。頭で考えれば考えるほど上手く行かなくなる。自然体が一番良い。でもその自然体は、一体何処にあるのだろう。俺は心の中で苦笑する。
「もう午前二時だわ」
俺達は、何とも言えぬ息詰まる雰囲気の中、ただ日常会話で時間を浪費していた。正直言ってもう、目蓋が少し重くなってきていた。
「奈緒」
思い切って、立ち上がり奈緒の手を取る。
「英二さん……」
奈緒の体を引き寄せ、そっと抱きしめた。華奢だけれど、暖かいしっかりとした存在感を腕の中で感じ取る。そして、淡い口づけ。
奈緒は目をつぶって、そして見開いた。抵抗はしなかった。
「ありがとう」
思わぬ言葉に一寸驚く。でも、奈緒は体をほどいて、少し俺と距離を置いた。
「そろそろ寝ましょう」
「あ、ああ……」
奈緒は自分のベッドに入ると、そそくさと布団を掛けて、こちらを見て笑った。俺は、しばし呆気に取られていたが、でも今更奈緒を襲おうという気持ちは湧いてこなかった。俺も自分の布団に入り、奈緒の方を向いて横に臥した。
「お休み、奈緒」
「お休み、英二」
スタンドの電気を切る。何時しか、この割り切れない想いの中、俺も奈緒も眠りに落ちていた──。
そして、朝が来た。
6
チュン、チュン。チュン、チュン。
小鳥のさえずりは一寸騒がしいぐらいに聞こえてきた。高原の朝の日差しが窓から差し込んできて眩しい。
俺は、高原の冷たい水で一人洗面を済ませ、二階廊下の窓際のソファーから、何とは無しに牧場のある遠景を眺めていた。遠くで牛たちがけだるそうに群れている。のどかな風景だ。虚脱した脳に、漫然とその景色はインプットされていった。まだ、朝も早い。
その後、遅れて起きてきた奈緒が着替える間、自分は居場所が無くて再度部屋の外でぶらぶらした。
なんか、一寸割り切れないけれど、でも、これが俺達なんだろうな……。
恋人──でも結ばれぬ運命の二人。
朝食の間は、お互い言葉少なで、間もなくチェックアウトの時間も迫っていた。まあ、自分の場合、ここの半住人だから、一〇時に出なくても全然大丈夫なのだが、奈緒と一時でも長く居たい反面、長くいるほど昨晩のことを後悔するようにも思えた。
「車で何処かまで送るかい?」
「いえ、いいです。森を歩いて駅まで行きます。──もう一度、野草の丘に寄りたいから」
「そうかい。また来いよ。少年も、奈緒ちゃんも!」
天野のおっちゃんに見送られて、俺達は想い出のペンションを発った。
野草の丘は、今日は晴れていた。僅かにすじ雲のある広々とした青空、遠景には八ヶ岳の連峰が見える。
俺達は、ペンションで余っているというレジャーシートを一枚貰ってきて、それに腰掛けて、野草の丘の景色を目に焼き付けていた。八月は最盛期だが、高原の秋は早い。今が最後と蓮花や女郎花などの花々が咲き競っていた。
「懐かしいわね」
「ああ。本当に。これから、この景色は心の想い出の箱に、ずっと仕舞うことになるんだろうな」
「私はそうは思わないだろうなぁ」
と奈緒。彼女はむしろスッキリしたような表情だった。一つ難題を乗り超えた、とでも言うような。
「やっぱり、私とあなたはヤマアラシ同士。ぴったり寄り添って生きて行くことは出来ないと思った。私は今までの関係がずっと続いてくれていれば、一番良かったのよ……。ワガママだけれど、一生大人になりたくなかったのよね、きっと。でも、それは英二さんにとっては負担だった訳でしょ?」
「──ああ」
「もう恋人同士には戻れないわね……。でも、あなたのキスは忘れないわ」
髪をかき上げる仕草をしながら、一寸流し目にこちらを見る。ふふっと笑って。
「これからも、時々手紙書くね。英二も、何か身辺に変化があったら連絡して」
「うん、分かった」
「一生、お互い縁は切らないで置こうね。恋人でなくなった後も。だから、英二は私に遠慮しないで、好きな子と付き合って。結婚したって構わないのよ」
「……そう、するよ。でも、これを奈緒との最後のお別れにだけはしたくない。この先も自分の人生から消えて欲しくない」
「うん、約束する。でもさ、英二ももっと自由に生きると良いよ。堅く考えなくてさ」
奈緒は屈託無い笑顔を見せた。良い表情だった。
俺は、堅く考え──いや、考えること自体が感情より先に来ていたために、本当の愛を知らなかったのかもしれないなと思う。今頃になって気付いても遅いけれど、それは奈緒から貰った最大のプレゼントに違いなかった。
「行こうか」
奈緒はぽんと席を立つ。
レジャーシートを畳んで荷物に突っ込むと、俺達は歩き出した。自然な感じで手を繋いで、森の中の小径を。
俺と奈緒は、単線の終点駅まで一緒に列車に乗って、そこで東西両方向の特急に別れた。
それが俺と、恋人としての奈緒との、最後の時間だった。
Epilogue
俺は、今でも人を愛することが苦手だ。何処か醒めた自分、他人には騙されないぞと言う気持ち、その反面相手を失うことへの恐怖。いつも気付いた時にはこじれてて手遅れになってるんだ。愛されるのが怖い、そんな気持ちすらある。これは性分だから仕方がないかも知れない。
小川奈緒──彼女との少なからぬ因縁も、この一〇年間のある種腐れ縁とも言うべき関係も、今となっては必然だったのかも知れないと思う。
この春、彼女から、ひょっこりと「結婚しました」とメールが入ったとき、一抹の無念さを感じると共に、ある意味ほっとしたし、自分の心の中にあったある種の罪の意識が軽くなった。それは正直に認めなければならない。
俺も、その後、いくつかの恋をした。でも何れも結婚には至らず、消えていった。
奈緒は大空を飛ぶ鳥、そして自分は、地面を這う虫だった。奈緒の手紙は忘れた頃に、世界中の何処かから届き、俺は、ずっと東京暮らし。東京は住み心地は悪いが、交通の便の良さと、欲しい物は何でも揃うことが魅力だった。
ここ数年、携帯やインターネットの時代になって随分いろいろと変わった。奈緒と連絡を取ろうと思えば、電子メール一本で済む。たとえ世界の何処にいようとも、アドレスさえ変わっていなければ、メールはほんの数秒で届く。
でも、ヤマアラシ同士には、掟があるんだ。お互い痛くない程度以上には、近づいてはならない掟が。
きっと、こんな関係が、二人のどちらかがその人生を終えるまで続くだろう。でも、それも一つの愛の形なんだと、最近三〇歳を過ぎてやっと思えるようになってきた。
また夏がやってきた。都会の景色はめまぐるしく変わるけれど、野草の丘は相変わらず健在だそうだ。今年、久々にまた一人で行ってみようかな、そう思っている。
天野のおっちゃんも、おばあさんも元気だそうだ。
奈緒の幸福を願い、自分の新たな巡り会いを求め、そして、何よりも一〇年間の想い出を、その時だけそっと心の宝石箱から取り出すために──。
行ってみよう。
野草の丘は、今日も青々と緑をたたえているに違いない。(おわり)
二〇〇二年秋 最終稿