第9話 家庭の灯、英雄の影
王都の一等地に建つ、立派な石造りの家。――それが、ゴードンさんの自宅だった。
「――ゴードンさん、結構……いえ、かなりいいお家ですね」
「まあな! これでも王立研究所の調査官だからな。さあ入ってくれ」
重厚な扉を開けると、そこには外の喧騒が嘘のような、穏やかな空気が流れていた。出迎えたのは、エプロン姿の女性だった。優しげな目元に、意志の強さを感じさせる口元。
「おう、帰ったぜ。――紹介しよう、俺の愛する妻エリーザだ」
エリーザさんは、泥だらけのあたしと奏を見て、一瞬きょとんとし、すぐにふわりと微笑んだ。
「あらあらいらっしゃい。――で、あなた?」
「ん? なんだ?」
「これは『浮気』の現場を押さえたってことでいいのかしら? 若い子が好みなんて知らなかったわ」
「ぶっ!! ち、ちがーう!! 誤解だ! 拾ったんだ! いや、拾ったっていうか……客人だ!」
森で巨大グマを睨みだけで追い払った豪傑が、奥さんの一言で、借りてきた猫のように慌てふためいている。
「うふふ、冗談よ。あなたがそんな器用なことできるわけないものね」
「お前なぁ……心臓止まるかと思ったぞ」
「いらっしゃい。賑やかになって嬉しいわ」
「……ゴードンさん、完全に尻に敷かれてますね」
「ああ見えて愛妻家なんでしょ。あるいは、逆らったら物理的に消されるとか」
奏が小声で冷静な分析をしていると、エリーザさんがふわりと微笑んでこちらを向いた。
「さあ、立ち話もなんだから上がってちょうだい。お風呂も沸いているわよ」
お風呂。
その単語を聞いた瞬間、あたしと奏の瞳に、異様な輝きが宿った。森での野宿生活では、冷たい川の水で体を拭くのが精一杯だったのだ。
「お風呂……!」
「文明の利器……素晴らしいわ」
案内された浴室は、白タイルが輝く広々とした空間だった。湯船からは、ほのかにバラの香りが漂ってくる。あたしたちは泥と汗にまみれた服を脱ぎ捨て、温かいお湯に沈み込んだ。
「はあぁぁ……生き返るぅ……」
「……極楽」
奏が目を閉じて、とろけるような表情を浮かべている。 いつものクールな仮面は完全に溶け落ち、年相応の少女の顔になっている。
「ねえ奏。あたしたち、本当に王都に来たんだね」
「ええ。屋根があって、壁があって、温かいお湯がある。……もう、熊の足音に怯えて寝なくていいのね」
あたしは湯船の中で膝を抱えた。
お湯の温かさが、体の芯にこびりついていた緊張をゆっくりと溶かしていく。安堵感と一緒に、これからの不安も、湯気の向こうへほどけていく気がした。
* * *
湯上がりの肌を包んだのは、驚くほど柔らかい綿の部屋着だった。
「今夜はこれでゆっくりして。……それは、うちの子がいつか着るはずだったものなの」
エリーザさんは、アイラの手渡されたワンピースの袖を、愛おしそうに一度だけ撫でた。
「あなたたちに、着てもらいたくて」
その手つきがあまりに優しくて、少しだけ寂しそうで。アイラは理由もわからず、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。エリーザさんが目を細めて笑う。その視線の温かさに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
ベッドの上には、明日袖を通すための服が並べられている。あたしには、淡いピンクのワンピース。そして奏には、機能美と凛々しさが同居する、深い青のブラウスとキュロットパンツが用意されていた。
「明日、それを着て王都を歩くあなたたちを見るのが楽しみだわ」
森を彷徨っていた時の、泥にまみれた姿とは別人のようだった。鏡に映る自分たちは、戸惑っているけれど、少しだけこの世界の住民になれた気がした。
「さあ、夕食にしましょう。今日はご馳走よ!」
その夜は、ゴードンさんとエリーザさんを囲んで、久しぶりに賑やかな食卓となった。テーブルには、大皿に盛られた肉料理や温野菜が並んでいる。
「……いただきます」
静かに手を合わせると、あたしたちは張り詰めた糸が切れたように穏やかに、また確かめるように食事を口に運んだ。
「たくさんお食べ。ここには魔獣も来ないし、雨風に凍えることもないわ」
エリーザさんが、あたしたちの皿に次々とおかずを取り分けてくれる。ゴードンさんが「俺の分がないぞ!」と騒ぎ、エリーザさんが「あなたは食べ過ぎよ」と笑い飛ばす。
ここにあるのは、あたしたちが元の世界で当たり前のように享受していた、けれどこの世界に来て一番遠ざかっていたもの――「家庭」の空気だった。
(あったかいな……)
お腹だけでなく、心まで満たされていくのを感じながら、あたしたちは泥のように深い眠りについた。
* * *
翌日、あたしたちはゴードンさんに案内され、王都の中心にそびえる王立図書館を訪れていた。
見上げるような白亜の殿堂。重厚な石造りの門をくぐると、そこには天井まで届く書棚が幾重にも並び、古書の香りと静謐な沈黙が支配する、知識の迷宮が広がっていた。
「いいか、騒ぐんじゃねえぞ。ここは王国の知性の結晶だからな」
ゴードンさんが声を潜めて言う。彼は受付で身分証を提示し、一般の利用客が立ち入れない奥の区画――「禁書庫」へとあたしたちを導いた後、仕事に戻っていった。
「すごい……。本しかないのに、圧倒されちゃう」
「論理的に考えて、この蔵書数は異常だわ。……でも、これなら見つかるかもしれない。あたしたちをここに呼んだ『理由』が」
石造りの図書館は、昼間だというのにひんやりとしていた。高窓から差し込む光が、空中の埃をきらきらと浮かび上がらせる。
奏はすでに臨戦態勢だった。手元のメモには、調べるべき項目がびっしりと書かれている。『賢者の伝説』『魔法』『転移』『地理』……。あたしたちは手分けして、分厚い背表紙の森へと足を踏み入れた。
* * *
一時間後。
あたしは閲覧室の机に突っ伏していた。
「……だめだぁ。賢者の『け』の字も見つからない」
「諦めるのが早いわよ。……あ、これなんてどう?」
奏が持ってきたのは、『魔導原論』と書かれた分厚い本だった。なんだか難しそうな数式や図形がたくさん載っている。パラパラとページをめくると、あるページで目が止まった。
「魔法――世界中に満ちている『エネルギー場』を、ストローで吸い上げるみたいに体に取り込んで、体内で変換して吐き出す行為、らしいわ」
「ストロー……」
「そう。だから重要なのは、そのエネルギーをどう変換するか。『振動』させれば火になり、『収束』させれば硬質化して氷や土になる。『流動』させれば風や水流になる」
奏はそこで言葉を切り、あたしの胸元の魔法石をちらりと見た。
「でも、放出系は違う。変換せずに、純粋な魔力をそのまま解き放つ……。つまり、今のアイラは『吸い込んだ水を、そのまま勢いよく噴き出している』状態ね」
「……それって、ただのホースの暴発じゃん」
「言い得て妙ね。だから制御が効かずに、ホース(体)の方が水圧で悲鳴を上げている。……それが、あなたの頭痛の正体よ」
奏は続けた。
「まずは、放出の制御がうまくできるといいのだけれど。……可能なら、他の系統も覚えて、攻撃や守備の幅を広げたいわね」
難しい話で知恵熱が出そうだったあたしは、ふと背表紙を見て驚いた。
「ねえ、著者ロレンスって――、あのロレンスさん?」
「――ええ? あの偏屈学者さん?」
「びっくり! でも確かに、ゴードンさんも詳しいって言ってたわね」
「今度会ったら、いろいろ聞いてみよう」
* * *
続けて、奏はこのあたりの地理情報を調べ始めた。地図を指でなぞる。
「北にヴォルガンス帝国。アズライト山脈を挟んで南がレガリア。西は西方諸国連合。そして東の海に――神羅島」
レガリア王国は温暖な気候で、農作物を豊富に生産する。一方、ヴォルガンス帝国は肥沃な土地が少なく、常に南進による領土拡大を画策している。
実際に十五年前、帝国はセレスティア王国を侵略。このとき、帝国に対抗するために、西の小国群が西方諸国連合を結成したようだ。しかし、帝国への抵抗以外には共通目的もなく、連合内のいざこざも絶えない、という状況だった。
「アイラ、これを見て」
そこには、十五年前に滅びた『魔法国セレスティア』の最期が記されていた。
「……セレスティアは、帝国の圧倒的な軍事力の前に、わずか一週間で陥落した。……そして、これ」
奏が指し示した一行。そこには、ある一人の騎士の名前が刻まれていた。
『英雄騎士レオナルト、王家滅亡後、ただ一人帝国に膝を屈し、自治区宰相の座に就く』
「……ねえ、奏」
ページをめくる手が、無意識に止まった。
英雄騎士レオナルト。冷徹な鉄の甲冑に身を包み、帝国の紋章を背負った男。
裏切り者として描かれているはずのその肖像画から、あたしは目を離せなくなっていた。
「この人……本当に、裏切ったのかな」
「……歴史書にはそう書いてあるわ。宰相になってから、魔導士の拘束とか、魔法石の徹底管理を始めている。生き残るための合理的な判断だったのかもしれないけど」
奏の冷静な声が、遠く聞こえる。
絵の中の彼は、どこか遠くを見ていた。その瞳は、何かを睨みつけているようにも、泣いているようにも見えた。
ズキリ、と胸の奥が痛んだ。
魔法の副作用の頭痛じゃない。もっと深い、記憶の底を爪で引っ掻かれたような痛み。
「……悲しそうな目」
「え?」
「自分を犠牲にしてでも、一番大切な何かを『守り抜こう』としている……。そんな、覚悟を決めた顔をしてる気がして」
『守る』って、どういうことなんだろう。
あたしはまだ、その答えを知らない。
指先で、肖像画の彼の頬に触れる。冷たい紙の感触のはずなのに、なぜか、ひどく懐かしい温もりを感じた気がした。
「……アイラ! これを見て!」
奏が、レガリアより東の海に浮かぶ孤島『神羅島』の記述を指さした。
「神羅島は、武術の島。呼吸と型によって己の『気』を練り、鋼の如き肉体を得る。精神を研ぎ澄ませ、己の内なるエネルギーを制御するための修行の場……」
奏がその行を読み上げるとき、声に熱がこもったのが分かった。
「今のアイラに必要なのは、これよ。あふれ出す魔力を、精神で制御する技術」
「精神論? うーん、魔法とは関係ないような……」
「いいえ、関係あるわ」
奏は、真剣な眼差しであたしを見た。
「それに……これは私にとっても必要かもしれない」
「奏に?」
「私には魔法がない。でも、この『気』という技術があれば……あなたの隣で、対等に戦えるかもしれない」
奏の手が、強く握りしめられていた。
アズライト山脈での無力感。彼女はずっと、それを引きずっていたんだ。
「それに見て! 特産品の欄」
「え?」
「『東方の島国では、黄金の穀物、米が主食である』……」
さっきまでのシリアスな表情はどこへやら、奏の目がキラリと怪しく光った。
「論理的に考えて、行くしかないわね。神羅島」
* * *
そのとき、図書館の閉館を告げる鐘の音が、ゴーンと厳かに響き渡った。気づけば、高窓から差し込む光は、鮮やかな茜色に変わっている。
「……おっと、もうそんな時間か」
書棚の影から、太い声が掛かった。ゴードンさんが、仕事終わりのジャケットを肩にかけ、こちらに歩いてくるところだった。
「どうだい、知りたいことは見つかったか?」
「あ、ゴードンさん! はい、おかげさまで」
「そいつはよかった。……それと、二人にプレゼントだ」
ゴードンさんは懐から二枚の金属プレートを取り出し、親指でピンと弾いてよこした。あたしと奏は、慌ててそれを受け取る。
「これ……身分証ですか?」
「『臨時閲覧許可証』兼、身分証明書だ。俺の権限で作っておいた。これで図書館も、城門も顔パスで出入りできるぜ」
銀色に輝くプレートには、あたしたちの名前と、王立研究所の刻印が刻まれている。これがあれば、もう怪しまれることもない。この世界で生きていくための、最初の切符。
「ありがとうございます、ゴードンさん! なんてお礼を言ったらいいか……」
「礼には及ばねえよ。……その代わりと言っちゃなんだが」
ゴードンさんの声のトーンが、ふと低くなった。顔を上げると、いつもの豪快な笑みは消え、鋭い研究者の目が、あたしたちを射抜いていた。
「二人に、折り入って相談がある」
「……相談、ですか?」
「ああ。身元不明で……、腕が立って、魔法にも詳しいお前さんたちを見込んでの頼みだ」
ゴードンさんはニヤリと不敵に笑うと、声を潜めてこう告げた。
「――明日、俺の『仕事』を手伝ってくれないか?」




