第8話 遥かなる王都アステリアを目指して
森の湿った空気が、いつの間にか乾いた風に変わっていた。ゴードンさんが用意した馬車に揺られること指折り数えて五日。あたしたちは、うっそうとしたアズライトの麓を抜け、レガリア王国の心臓部へと近づいていた。
「ガハハ! 驚いたか? 俺が王立研究所の人間だってのは本当だぞ。俺の顔は多少知られてる」
御者台で手綱を握るゴードンさんが、豪快に笑った。揺れる荷台の上で、あたしと奏は顔を見合わせる。
「……信じられません。あの森でクマを睨みだけで追い払った人が、調査官だなんて」
「論理的に考えて、あの筋肉量はフィールドワークの域を超えています」
奏の冷静なツッコミに、ゴードンさんはニヤリと歯を見せた。
「レガリアの国王陛下は聡明な方でな。実力さえありゃあ、身分に関係なく登用する。学問も武術も等しく尊ばれる国だ。俺も若い頃は、東の海でダイオウイカと素手で殴り合ったもんだがな!」
「ダイオウイカと……素手で?」
あたしが呆気にとられていると、ゴードンさんは「墨を吐かれて大変だったがな!」と笑い飛ばした。この豪快な背中を見ていると、どこまでが本当でどこからが冗談なのか分からなくなる。
* * *
馬車が峠を越えると、視界が一気に開けた。
「うわぁ……!」
思わず、独り言がこぼれる。眼下に広がっていたのは、眩いばかりの一面の黄金色だった。
収穫を待つ小麦畑は、地平線の彼方まで続いていた。秋の陽光を浴びて一斉に首を垂れる穂が、風が吹き抜けるたびに、ザァ……と重なり合う囁きのような音を立てて、柔らかい金色の波紋が広がっていく。それはまるで、陸にある海原のようだった。
アズライトの深い青に支配されていたあたしの瞳には、その輝きがあまりに眩しく、少しだけ鼻の奥がツンとした。戦うためだけじゃない、この世界が持つ本当の美しさに、私は初めて触れた気がした 。
「すごい……こんなに広い畑、見たことない」
「ここがレガリアの穀倉地帯だ。この国、いや周辺諸国の胃袋を支えていると言ってもいい」
ゴードンさんが誇らしげに言った。
「王都アステリアは経済の中心地だ。ここから運ばれた小麦が市場に並び、世界中のパンとなり、人々の血肉となる。金と情報が集まる場所だ」
あたしは黄金の波を見つめた。つい数日前まで、あたしたちは死と隣り合わせの森を這いずり回っていた。でも、この世界にはこんなにも穏やかで、豊かな場所があったんだ。
(戦うだけが、この世界じゃない)
その事実に、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じた。隣を見ると、奏がどこか遠い目をしている。
「……小麦。また、パンですね」
「えっ?」
「いえ、なんでもありません。……パンは、優れた保存食です」
奏は小さくため息をつき、覚悟を決めたように水筒の水を飲んだ。
* * *
その夜、街道沿いの野営地で簡単な夕食をとった。メニューは干し肉と硬いパン、それに野菜くずを入れたスープ。質素な食事だけど、星空の下で食べると格別な味がした。
「……平和ですね」
スープを飲みながら、奏がポツリと漏らした。けれど、その目は周囲の暗闇を油断なく警戒している。
「ああ。だがな、奏」
ゴードンさんが、焚き火に薪をくべながら静かに言った。
「平和に見える国ほど、水面下では必死に足を掻いているもんだ。理屈を積み上げ、交渉を重ね、軍備を整える。……放っておけば、世界はすぐに牙を剥くからな」
その言葉の重みに、あたしは胸元の魔法石を握りしめた。この平和は、誰かの必死な努力の上に成り立っている。そして、あたしたちが探している「賢者」も、その均衡の中にいるのだろうか。
「そういえば、鍛錬の方はどうだ。お前たちも毎日何かの準備をしているんだろう」
平和な王国に入ってからも、奏は剣を振り、あたしは魔法の練習を欠かさなかった。
「はい。……いずれまたアズライトの青い山に行かないと、と思っています」
「いいんじゃねえか。ただし、それ相応の強さを身に着けてからだ」
ゴードンさんは続けた。
「奏は筋がいい。このまま鍛錬を続けろ。なんなら、剣技を知りたかったら教えてやる」
「あたしはどうですか?」
「アイラは、剣の扱いには慣れてきたみたいだな。ただ、……魔法が安定しないな」
「どうしたらいいかわかりますか?」
「すまねえ、魔法についてはロレンスが詳しい。あいつが王都にきたら、一度相談してみよう」
* * *
翌朝。鼻をくすぐる良い匂いで目が覚めた。
「おっ、起きたか。朝飯だぞ」
ゴードンさんが差し出したお椀を見て、あたしと奏は目を丸くした。
「これ……お米!? それに、焼き魚とお味噌汁……?」
「王都は交易都市だからな。東方から米も入る」
湯気を立てる白いご飯。まさか異世界で、日本の朝食に再会できるなんて。奏が震える手で茶碗を受け取った。
「……お米。私の……ソウルフード」
小麦畑を見て「またパンか」と諦めていた彼女が、この時ばかりは、信じられないものを見るように、瞳をキラキラと輝かせていた。
「んん……っ!」
一口運んだ瞬間、奏は幸せそうな声を漏らし、動きが石像のように止まった。
いつもは「栄養摂取が最優先」と言って無表情で食事をする奏。その彼女が、今や両手で茶碗を、まるで神聖な儀式の道具のように捧げ持っている。一粒一粒を慈しむように咀嚼するたび、その長い睫毛が震え、頬がふわりと緩んでいく。
「アイラ……これ、甘いわ。噛むほどに、日本の香りがする……」
理性の防壁が、たった一杯の白米に粉砕されていくのを、あたしは見た。
「ゴードンさん、どうしてこんなによくしてくれるんですか? あたしたち、どこの誰とも分からないのに」
あたしが尋ねると、ゴードンさんは照れくさそうに鼻を擦った。
「まあ、研究者としての好奇心もあるがな。お前さんたちがアズライトを越えてきたこと、その石のこと……。それにまあ、放っておいたら寝覚めが悪いだろ」
ぶっきらぼうな優しさ。あたしは胸が温かくなるのを感じながら、久しぶりの白米を口いっぱいに頬張った。
* * *
太陽が高く昇る頃、辺り一面に広がる緑の草原を抜け、丘陵地帯を登る。道に沿って、馬車がゆるやかに左に曲がると、ついに王都アステリアの城壁が見えてきた。
「うわー」
「来たわね」
検問所の前には長蛇の列ができていた。周辺国からの商人や、戦火を逃れてきた難民たちだ。
「次は! 身分証を見せろ!」
衛兵の怒号が飛ぶ。審査は厳しい。「持たざる者」は容赦なく弾かれ、入門を拒否されている。
「……止められそうね」
奏が小声で言った。
城門の上から、こちらを見下ろす衛兵の視線が集まってくる。槍の穂先が、わずかにこちらへ向いた。あたしたちはボロボロの服を着た身元不明の少女二人組。どう見ても怪しい。
案の定、衛兵が槍を交差させて立ちはだかった。
「待て。身分証のない者は通せん。帰れ!」
「あ、あの、あたしたちは……」
「帰れと言っているのが聞こえんのか!」
衛兵が威圧的に一歩踏み出す。奏は無言で、あたしの半歩前に立った。奏の手が、無意識に腰の剣へと伸びかけた――その時。
「おいおい、私の客人に堅苦しいことを言うなよ」
馬車の荷台で寝ていたはずのゴードンさんが、のっそりと顔を出した。
「あ? 誰だ貴様……って、ご、ゴードン様!?」
ゴードンさんが懐から紋章入りの銀時計を見せる。先ほどまで威圧的だった衛兵たちの顔色から一瞬で血の気が引き、直立不動の姿勢をとった。
「王立研究所、筆頭調査官殿とは知らず、大変失礼いたしました!!」
最敬礼で道が開けられる。周りの人々がどよめく中、馬車は何事もなかったように門を通過した。
「ゴードンさん……あなた、本当に偉い人だったんですね」
「ガハハ! たまには役得を使わんとな」
巨大な門をくぐり抜けた瞬間、全身を包んだのは圧倒的なまでの『熱気』だった。
白亜の石造りの街並みが、午後の陽光を照り返して、眩しく光っている。石畳を叩く無数の馬蹄の音、露店から立ち上る焼き立てパンの香ばしい匂い、そして、あちこちから聞こえてくる人々の笑い声。――アズライトの死の静寂とは正反対の、騒がしいほどに力強い『生の音』。
あたしは圧倒されながらも、その活気に、冷え切っていた心が解けていくのを感じていた。
「これが王都……」
「活気があるわね!」
奏が、安堵したように息を吐き、そして小さく笑った。
「ねえアイラ。私、ここでもやっていけそうな気がする」
「え、どうして?」
「だって……お米があるもの」
真剣な顔で言う奏に、あたしは思わず吹き出した。
「もう、奏ったら! でも……うん。きっと大丈夫。ここからまた、始めよう」
王都アステリア。
この街が、あたしたちの運命を大きく変えることを、まだ知らなかった。




