第7話 ゴードンの提案
「ここだ。むさ苦しい場所だが、雨露はしのげる」
あたしたちは、ゴードンさんが滞在しているログハウスにやってきた。
ゴードンさんが重い木戸を押し開けると、そこには異様な光景が広がっていた。広い小屋の中は、足の踏み場もないほどに物が溢れかえっていたのだ。壁一面を埋め尽くす分厚い書物、天井から吊り下げられた干した薬草の束、テーブルの上には、何かの動物の頭蓋骨や、色のついた液体が入ったフラスコが所狭しと並んでいる。
「うわぁ……」
あたしが圧倒されていると、奥の部屋からドタドタと足音が響き、白衣を羽織った神経質そうな男が現れた。
「おいゴードン! 何度言ったらわかるんじゃ! 帰ってきたなら靴の泥を落とせ! ただでさえ繊細な『菌糸』の培養中なんじゃぞ!」
唾が飛びそうなほどの剣幕だったが、ゴードンさんは全く意に介さない様子で、ドカッと椅子に腰を下ろした。
「ガハハ! すまんすまん、ロレンス。森の土は栄養満点だろ?」
「ふざけるな! ……ん? その後ろの……」
ロレンスと呼ばれた男は、瓶底のような分厚い眼鏡の奥で目を細め、あたしと奏をジロジロと見た。
「……女? まさかお前、研究対象の『サンプル』として連れてきたわけじゃなかろうな」
「人聞きの悪いことを言うな。森でクマに襲われていたのを拾ったんだ。アイラと奏だ」
「……ふん。まあ、帝国の密偵には見えんが」
ロレンスさんは興味なさそうに鼻を鳴らすと、「触るなよ」と釘を刺して、再び奥の部屋へと引っ込もうとした。その背中を見て、あたしはハッとした。
人里離れた森の奥。大量の書物と、怪しげな実験道具。そして、この偏屈そうな態度と知的な雰囲気。
(まさか……!)
あたしはゴクリと唾を飲み込み、思わず身を乗り出した。
「あのっ! もしかして……あなたが『アズライトの賢者』さま、ですか!?」
あたしの声が響くと、部屋の空気が止まった。ロレンスさんが足を止め、ゴードンさんがキョトンとした顔をする。そして次の瞬間、ゴードンさんが腹を抱えて笑い出した。
「ブッ、ガハハハハ! こいつが賢者!? 変者の間違いじゃなくてか!?」
「やかましいわ! ……お嬢さん、残念じゃが買い被りすぎだ。ワシはただのしがない生物学者にすぎん」
「えっ……違うんですか?」
ガックリと肩を落とすあたしを見て、ゴードンさんは笑い涙を拭いながら言った。
「悪いな、期待させちまって。俺たちは王立研究所から派遣されている、ただの調査員だ。このあたりの生態系を調べている」
「お前さんは、たまに王都から来て、森を歩いておるだけじゃがな」
「フィールド調査が一番大切なんだよ!」
ロレンスさんは「時間の無駄だ」と言わんばかりにパタンと扉を閉めてしまった。あたしは、期待で膨らみきっていた胸が、針を刺した風船みたいにしぼんでいくのを感じた。目の前にあるのは伝説の叡智じゃなく、散らかった机と、神経質そうな学者の背中。
「……はぁ。やっぱり、そんなに上手くいかないよね」
椅子から立ちのぼる、古い木材の乾いた匂いが鼻をつく。落ち込むあたしの頭上に、ゴードンさんの大きな手が、まるで岩が降ってきたような重みで置かれた。
「そう肩を落とすな。あいつは偏屈だが、腕は確かだ。だが、……残念ながら、お嬢ちゃんたちが知りたい『元の世界への戻り方』の情報はない」
ゴードンさんは続けて尋ねた。
「ところで、お前さんのつけているペンダント。魔法石だな。しかも旧セレスティア王家の紋章付きだ」
「はい、山の向こうにある村で、村長からいただきました。君を守ってくれるだろうって」
ゴードンさんの目が一瞬、鋭くなるが、すぐにおどけた態度に戻る。
「へぇー。セレスティアは魔法石の産地だからな。だが王家の紋章付きとなるとなかなか手に入らねぇ。……品質はばっちりだ。高く売れるぜ」
「売りません!」
「ハハハ。冗談だ。……だが、その紋章を見せて歩くのは『私は滅びた国の関係者です』と看板を下げて歩くようなもんだぞ」
そこへ奏が割って入った。
「滅びた国……? セレスティアとはどういう国なんですか?」
「ああ……。セレスティアは、かつてアズライト山脈北側にあった王国だ。魔法で栄えていたんだが……」
奏が、無意識にあたしのペンダントへ視線を落とした。
「十数年前、北方のヴォルガンス帝国に侵略され滅んだ。今じゃ、帝国支配下の自治区になっている」
「自治はできているんですね」
「どうだろうな。帝国の強力な監視下にあって、生かさず殺さずってとこじゃねえか。国が滅びた当初は、こっちにも多くの難民が来たもんだぜ」
ソルナ村の長老が『国が荒れた時』と言っていたこと、疎開してきた宮廷の人たち、ベルナ村での帝国に対する村人の警戒。あたしたちは、これら一つひとつの状況がつながったように思えた。
「俺たちレガリアも、帝国がアズライト山脈を超えて、さらに南下してくることを警戒しているんだが、幸いあの辺りは魔獣が多くてね。――山を越えてきたって言ったな。何事もなかったかい」
あたしたちは、賢者がいるというアズライトの青い山に向かう途中、魔獣と戦い逃げてきたことを話した。
「なんだって! 街道を離れてそんな奥地までいったのか!」
ゴードンさんは、あきれたように首を振った。
「……やれやれ、無鉄砲というか、命知らずというか。……アズライト山脈は、近年、魔獣が異常に増えている。あの街道も本来なら通行禁止で通るものもいない。俺たちも、山脈のこちら側で魔獣が増えていないかを調査していたんだ」
「青い山まで、迂回するルートはありますか?」
「……わからない。誰も行ったことがないからな」
* * *
その日の夕方。ロレンスさんは奥の部屋に引きこもり、ゴードンさんはログハウスの外にいったり別の部屋にいったり動き回っていた。残されたのは、ランプの炎が爆ぜる音と、あたしたち二人の重い沈黙だけだった。
「……これから、どうしようか」
あたしはぽつりと呟いた。命がけでアズライト山脈を越え、ここまで来た。探している賢者にはたどりつけず、代わりにいたのは豪傑とちょっと偏屈な研究者。地図の上から、行き先を示す印が消えてしまったような感覚だった。
「…………」
奏は、無言で自分の指先を見つめている。いつもなら「次の選択肢を考えましょう」と冷静に言うはずの彼女も、今は唇を噛みしめ、言葉を探しているようだった。
元の世界への道が、少しずつ、けれど確実に遠のいていく。このままこの世界に、何者でもない自分たちが取り残されてしまうのではないか。そんな予感に、背中がじわりと冷たくなる。
――その時だった。
じゅうじゅうと肉の焼ける、暴力的なまでにいい香りが鼻腔をくすぐった。空気を重く支配していた絶望感を、その香ばしい脂の匂いが力技で押しのけていく。
「さあ、食え。まずは胃袋を満たさないと、いい知恵も浮かばないぜ」
いつの間にか調理場に立っていたゴードンさんが、湯気の立ち上る鉄板を二人の前のテーブルに置いた。差し出されたのは、厚切りのステーキ。付け合わせの根菜も山盛りだ。
「……ありがとうございます」
あたしは力なく答えた。期待が大きかった分、落胆も深い。
隣で奏が、ナイフとフォークを手に取った。彼女は警戒心を解いていないのか、まず肉の断面をじっと観察し、匂いを確かめるように小さく切り分けた一片を口に運ぶ。もぐもぐと数回咀嚼し、飲み込むと――彼女の表情が、驚きに微かに緩んだ。
「おいしいよ、アイラ。食べなさい。頭を働かせるには糖分とタンパク質が必要よ」
「……うん」
あたしも一口、肉を口に運んだ。野生味の強い、噛み締めるほどに溢れる肉汁。それは確かに、凍りつきかけていた心に、生きるための活力を強制的に注入してくるような味がした。
「……ねえ、ゴードンさん」
あたしは、フォークを持ったまま、すがるような目で尋ねる。
「この世界で……本当に『賢者』なんて、見つかるのかな。あたしたち、ずっと出口のない迷路を歩いてるみたいで」
ゴードンさんは無言で、自分の皿に乗った肉を平らげた。そして、傍らに置かれた竹の水筒をぐいと煽ると、静かに口を開いた。
「お嬢ちゃんたち。……次の手が見つからないなら、一緒に王都に行かないか?」
「えっ?」
あたしたちが顔を上げると、ゴードンさんの瞳はこれまでになく真剣な光を宿していた。
「理由は二つ。まず王都には大陸中の書物が集まる図書館がある。もちろん魔法の本もな。お嬢ちゃんたちの目的は、賢者を探すことではなく、元の世界に戻る方法を見つけることだ。たくさんの書物から方法を探してみるのは、現実的な考えだ」
「……なるほど」
「もう一つは、この世界をもっと知るということだ。残念ながら、戻る方法があるかどうかは不確かだ。そうであるなら、この世界で生きていくことも視野に入れておく。その準備だ。王都に行けば、人も情報も嫌ってほど集まる。この世界を知るには、あそこが一番早い」
ゴードンさんは、あたしの胸元で静かに鎮座する魔法石を指差した。
「その石を狙う奴らが、これから現れるだろう。無防備に街を渡り歩くのは、正直おすすめしない。王都なら俺の自宅もある。野宿よりはよっぽど安全だ」
「王都……」
奏が呟く。その目は、すでにリスクとリターンを計算し始めているようだった。
「あいつ――ロレンスが言った通り、俺たちは王立研究所の人間だ。だが、俺個人としては、お前さんたちがアズライトを越えてきたその『力』と『事情』に、放っておけないものを感じている」
ゴードンさんは、少し照れくさそうに鼻を擦ったあと、一瞬だけ遠い昔を慈しむような、ひどく穏やかで、少し悲しげな表情を見せた。
「……まあ、研究者として、異世界の客人に興味があるってのも本音だがな。どうだ、王都アステリアまで俺と来てみないか?」
あたしは奏と顔を見合わせた。アズライトの絶望、賢者の手がかりの消失。重なり続けた不安の中で、ゴードンさんの差し出した手は、暗い海に投げ込まれた浮き輪のように見えた。
「……奏、あたし――」
「論理的に考えて、断る理由はないわね」
奏が、あたしの言葉を先回りするように頷いた。
「今の私たちには、この世界の『後ろ盾』が必要よ」
あたしは、最後の一切れの肉を口に放り込み、ゴードンさんに向かって力強く頷いた。
「お願いします、ゴードンさん! あたしたち、王都へ行きます」
「ガハハ! そうこなくっちゃな! ……あ、ちなみにこれ、クマの肉だからね」
「――クマ!?」
「そう、昼間見たのと同じ種類。食わなきゃ食われる。それがこの森の掟だ」
豪快に笑うゴードンさんの声が、森の夜に響き渡った。




