第6話 レガリア王国、霧の向こうの豪傑
アズライトの牙を剥くような断崖をようやく背にし、川のせせらぎに導かれるように山を下る。空気は柔らかく、暖かくなっていく。視界は一気に開ける。そこには、眩いばかりの街の活気が溢れていた。
「……やっと、着いたね」
あたしの声は、安堵で少し震えていた。……でも、それだけじゃない。つい数日前まで死に物狂いで帝国や魔獣から逃げていたあたしには、この眩しすぎる平和が、どこか薄氷の上に成り立っているような、そんな脆さすら感じられた。
「……戻ってきたんだ。人が笑っている場所に」
街の入り口に差し掛かると、そこは色とりどりの旗で飾られ、焼きたてのパンや香草の香りが漂っていた。
「見て、奏。すごい人だよ!」
「ちょうど収穫祭の時期みたいね。運がいいわ。これなら他所者が紛れ込んでも目立たない」
奏は包帯を隠すように上着を羽織り、慎重に周囲を観察しながら歩く。広場では、子供たちが楽しそうに追いかけっこをしていた。あたしたちのボロボロの装備と、どこか場違いな雰囲気が気になったのか、一人の少年が足を止めてあたしを見上げた。
「ねえお姉ちゃん、どこから来たの?」
「あたしたち? ええと、あの向こうの……アズライト山脈を越えてきたんだよ」
あたしが指をさすと、遊んでいた子供たちが一斉に動きを止めた。
「ええっ!? あの青いお山を?」
「嘘だ! あそこは魔獣がいっぱいいて、大人でも近寄らないんだぞ!」
「そうだよ。お母さんに、あのお山には絶対行っちゃいけないって言われてるもん。お姉ちゃんたち、死ななかったの?」
子供たちの純粋な驚きに、あたしは苦笑いするしかなかった。けれど、振り返った奏の目は笑っていなかった。
「……運が良かっただけだよ。さあ、みんなは遊びに戻って」
優しい口調でそう言いながら、奏は自分のボロボロになった指先を隠すように、拳を握りしめていた。
その手は、子供たちの無邪気な言葉よりもずっと固く震えていた。
* * *
祭りの喧騒の中、あたしたちは二手に分かれて聞き込みを開始した。
この街のどこかに、元の世界へ帰るヒントを持つ『賢者』のことを知っている人がいるかもしれない。あたしは屋台で果物を買うついでに、気さくなおばさんに話しかけてみた。けれど……。
「賢者? あはは! お嬢ちゃん、それなら広場の大道芸人でも探したほうがいいよ。あいつらなら『賢者の末裔』なんて看板を掲げて、偽の魔法薬を売ってるからねぇ」
おばさんの笑い声と共に差し出されたのは、真っ赤なリンゴだった。あたしはそれを受け取り、甘酸っぱい香りに鼻をくすぐられながら、この街での『賢者』の立ち位置――もはやお伽話でしかないという現実――を思い知らされた。
夕暮れ時。オレンジ色に染まる広場のベンチで、あたしたちは再合流した。
「聞いて、奏。――この街の街灯、魔力じゃなくて電気じゃないかしら」
「そういえば、機械仕掛けの時計台もあったわね」
あたしたちは、転移してから初めて科学技術を感じさせられた。
「……それでどうだった、奏」
「収穫はゼロに近いわね。『賢者』なんて言葉を知っている人さえいなかった。でも――」
奏が声を潜め、手帳を閉じた。
「一つだけ、気になる噂を耳にしたわ。街の西側、旧市街の先の深い森に、人里を離れて住み着いている『変な人』がいるそうよ」
「変な人?」
「ええ。何日も部屋にこもって奇妙な実験を繰り返したり、誰も理解できない理論をぶつぶつ言っていたり……。街の人からは『偏屈な壊れ屋』なんて呼ばれて避けられているみたい」
「それって……その人が『賢者』? ……じゃないわよね」
「……可能性は低いわね。話を聞く限りでは、ただの変わり者の技術者か、世捨て人の類でしょう。そもそも、このレガリアで『賢者』という言葉が使われない」
奏は溜息をつき、遠くに見える暗い森を見つめた。
「でも、他に手がかりがないのも事実。念のため、明日そこへ行ってみましょう。もしもの時のために、準備は怠らないで」
「うん。わかった」
お祭りの楽しげな音楽が遠くで鳴り響く中、あたしはポケットの中の指輪をそっと握りしめた。森の奥にいるという『変な人』。その人が、あたしたちの閉ざされた運命の扉を開ける鍵になるのだろうか。
* * *
翌日、あたしたちは森へと向かった。
霧が立ち込め、昼間だというのに薄暗い。
足を踏み入れるたび、街の喧騒が遠ざかっていくのがわかった。
森の中にだいぶ入ったとき、かさかさと草木がこすれる音がした。
緊張感が走る。
「動物?」
「大丈夫かしら。まだ肩が痛くて刀を振れないの」
あたしたちは前の方に気を取られていた。
突然、後ろから大きなうなり声が聞こえたのだ。
「きゃー!」
振り返ると、巨大な動物があたしと奏に向かって突進してきた。
「クマ!?」
「アイラ、早く逃げて!」
あたしたちは、森の奥地に向かって、必死に逃げようとする。
クマはすぐそこまで迫ってきた。
そのとき。
「――待ちな!」
鼓膜を震わせるような怒号。それだけで、森の空気が一変した。霧を割り、のっそりと姿を表したのは、岩石のような筋肉をまとった一人の男だった。武器を構えるわけでもなく、ただそこに『居る』だけで、野生の猛獣を圧倒するほどの重圧を放っていた。
「ここはオレの縄張りだ。立ち去れ!」
クマは、その男の視線を受けた途端、低く唸り声をあげ、森の中へと退いた。
男はクマが完全に姿を消すまで、その場を動かなかった。
まるで、逃げたかどうかではなく――戻ってこないかを見ているようだった。
奏は、その男から視線だけは外さなかった。
助けられたというより、見逃された――そんな距離感だった。
「無事か」
それだけだった。叱責も、安堵もない。状況確認の声だった。
「はい、大丈夫です。……助けてくれてありがとうございます」
「どういたしまして。この時期、あいつらは子育てをしている。おそらく君たちは、知らないうちに子供に近づいてしまったのだろう。……だが、さっきの奴は少し目が血走っていたな。このあたりの山が荒れているせいかもしれん」
その顔は、厳ついけれど、どこか温かい。
「俺はゴードン。すぐ近くの小屋に腰を落ち着けてる」
「私はアイラ、こちらが奏です」
「よろしく。それにしてもその格好。……旅人か。どこから来た?」
奏は警戒した表情のまま、冷静に答えた。
「私たちは、アズライト山脈を超えて、この街へ来たばかりです」
「ほう、アズライト山脈を。それはまた、ずいぶんな旅をしてきたものだ……」
ゴードンさんはそこで言葉を切ると、鋭い眼光でわたしたちを睨んだ。
「……それで、君たちは帝国の人間ということなのか?」
「ちっ、違います!」
奏は即座に否定し、ゴードンさんを強く睨み返した。
ゴードンさんは、しばらくあたしたちを見据えたあと、フッと笑みを浮かべた。
「オーケー。疑って悪かったな……。しかし、この森の奥地も危険だ。女の子二人で立ち入るところではない。何用でここに来た?」
「ゴードンさん、実は私たち……『賢者』を探しているんです」
「賢者?」
「はい、『アズライトの賢者』です」
あたしの言葉に、森の静寂が一層深まった気がした。ゴードンさんは黙ってあたしたちを見つめ、それから、
「……まずは、場所を変えるか」
と短く言った。
薄暗い森の奥、彼の背中について歩きながら、あたしたちはこれまでの長い、けれど確かな旅の軌跡を、ぽつりぽつりと語り始めた。




