第5話 雨上がりの静寂と、決意の光
いつの間にか、雨は上がっていた。湿った土の匂いと、刺すような夜の冷気がテントの中に忍び込んでくる。
「……っ」
こめかみの奥を刺すような、ひどい頭痛が続いていた。魔法を無理に放とうとした代償。視界を閉じても、瞼の裏にはあの漆黒の魔獣の影と、飛び散った奏の血が焼き付いて離れない。
テントの外では、時折、魔獣の遠吠えがこだましていた。それはあたしたちを嘲笑っているようにも、これ以上は来るなと警告しているようにも聞こえた。
「……今は、行かせない」
闇の中で、奏の静かな声が響いた。彼女は自分の肩に巻かれた包帯を、片手でぎゅっと締め直した。顔色は青白く、呼吸もまだ少し荒い。
「あなたを、ここで失うわけにはいかないから」
「……うん。分かってる」
あたしは悔しそうに唇を噛んだ。行きたい。でも、行けば死ぬ。その現実が冷たくのしかかる。
「これは――『負け』じゃないわ。準備不足の撤退よ」
奏は自分に言い聞かせるように、けれど断固とした口調で続けた。
「……次、同じことをしたら、私はあなたを守れない」
あたしは麓に見えるレガリアの街に視線を移した。
「いったん、あの街へ行く……んだよね」
「……そうね」
奏はしばらく考えてから口を開いた。
「今回の戦いで、アイラの魔法が霧散した。まずはレガリアで、あなたの魔法を制御する方法を見つけましょう。もちろん賢者の情報収集もね。遠回りになるけれど、……生き延びるための準備をするの」
あたしの胸の奥で、小さな敗北感が燻り続けていた。けれど、奏の瞳はもう前を見ていた。
* * *
「ねえ、奏。……不思議なことがあるんだよね」
テントで横になりながら、あたしは、右手の薬指にはめた指輪を、そっとなぞった。
「不思議? その指輪のデザインのこと?」
「ううん、そうじゃなくて『温度』のこと」
あたしは膝を抱え、指輪を指先で慈しむように触れた。アズライトの夜風に晒されながらも、その指輪だけは別の陽だまりにあるように、柔らかな熱を帯びている。
「この指輪、小さいときにお母さんから渡されたの。ずっと持っているやつなんだ。学校で嫌なことがあったり、自分がどこか周りから浮いているような気がして落ち着かない時……いつもこれを触ってたの」
奏はだまって聞いていた。
「そうするとね、お母さんの手みたいに、すごく温かくなるんだ。……不思議だよね、ただの金属のはずなのに。この子が『大丈夫だよ、ここにいるよ』って励ましてくれるみたいで」
奏は自分のブラックシルバーの指輪を見つめた。鈍い光を放つその指輪を、彼女もまた愛おしそうに指先で転がす。
「私の指輪もね……母からもらったものなの」
奏は続けた。
「……わかるわ。私も同じような感覚があるの。私の場合はね、計算の合わない数式を解いている時のような焦燥感に、いつも苛まれていた。そんな時、この指輪の冷たい重みと、不思議な温かさだけが、私を崩壊から守ってくれていた」
彼女の指輪もまた、静かに、だが確かな熱を宿していた。
「アイラ、あなたはこれを『慰め』だと思っていたかもしれない。でも、私にはわかる。これは……私たちが『何者であるか』を忘れないように、指輪がずっと呼びかけ続けていた証なのよ」
「……あたしたちが、何者であるか」
あたしはその言葉を反芻するように指輪を握りしめた。
戦いから撤退し、無力さに打ちひしがれそうな今、この温もりだけが「まだ終わっていない」とあたしの心に灯をともしていた。そして、指輪の温かさに触れるたび、こめかみの痛みが、ほんの少しだけ和らいでいくのがわかった。
あたしはテントの隙間から、麓に見えるレガリアの街の灯を見つめた。
そこには、息を呑むような景色が広がっていた。
雨雲が去った夜空には、見たこともないほど鋭く輝く星々が広がっていた。
そして眼下――アズライト山脈の裾野には、レガリア王国の街の灯が、まるで地上にこぼれ落ちた星屑のように、鮮やかに、くっきりと瞬いている。
「行こう、奏。あたし、強くなりたい。……もう、誰かが傷つくのを見てるだけなんて嫌だから」
街の光を見つめながら、あたしは初めて「帰りたい」ではなく、「進みたい」と思っている自分に気づいた。決意の言葉と共に、指輪が一際強く熱を持った気がした。




