第4話 アズライトの試練
ベイル村を離れ、あたしたちはレガリア王国へと続く旧街道を歩いていた。
かつては商人の馬車で賑わったという道も、今では背丈ほどの雑草に覆われ、石畳の隙間から不気味なシダ植物が顔をのぞかせている。
「魔獣が増えてから、ここは『死に体』の道になったのよ」
前を行く奏が、迷いのない足取りで草を掻き分けていく。その背中に揺れる黒髪を見ながら、あたしは胸元の魔法石に触れた。老術師に教わった魔法。あの日、リンゴの木を焦がしたあの熱い感触が、あたしに根拠のない自信を与えていた。
その夜、あたしたちは山の中腹で小さなテントを張った。
焚き火の爆ぜる音だけが響く静寂の中、あたしは無意識にポケットからスマホを取り出す。もちろん電波なんてないし、充電も残りわずかだ。暗い画面に映る自分の顔は、少しだけやつれて、けれどどこか見知らぬ誰かのように強張って見えた。
「……それ、まだ持っていたの?」
奏がスープの入ったクッカーを差し出しながら、冷ややかな、けれどどこか懐かしむような視線を向けた。
「うん。写真とか、見ちゃうと帰りたくなるから……あんまり開かないようにしてるんだけど」
「合理的な判断ね。でも、その板切れがただの鏡になる前に、元の世界に戻る方法を見つけないと」
奏の言葉はいつも通り厳しい。けれど、隣に座る彼女の肩が微かに触れたとき、あたしはこの世界に来て初めて、一人じゃないんだと心の底から思えた。
翌日、事態は急変する。アズライト山脈の深い霧の中から、牙を剥いた魔獣――双頭の狼が現れたのだ。
「アイラ、左!」
「いけるっ!」
あたしは魔法石に意識を集中させる。老術師に言われた「世界の書き換え」をイメージし、指先から黄金色の閃光を放った。光弾は狼の一つの頭を直撃し、視界を奪う。その隙を逃さず、奏の銀閃が残る首を正確に撥ね飛ばした。
「やった……! 奏、あたしたち、いけるよ!」
倒れた魔獣を前に、あたしは昂揚感に震えた。魔法さえあれば、この山だって越えられる。そう確信してしまったのだ。
* * *
あたしたちは街道を離れ、青い山に向かう脇道に入る。しばらく進んでいくと、空気が変わった。
冷たい――のとは、少し違う。
張りつめている、と言った方が近い。
息を吸うたび、胸の奥に何か重いものが沈んでいく感覚があった。
「……静かすぎるわね」
奏が低く呟く。
その声が、必要以上に遠くまで響いた気がして、あたしは思わず口をつぐんだ。
鳥の声がしない。
草を踏む音さえ、どこか吸い込まれていくようだった。
進むにつれて、森は歪み始めた。
幹の途中で黒く焦げた木。
岩肌に残る、刃物ではつかない深い引き裂き痕。
地面には、明らかに人のものではない巨大な爪痕が刻まれている。
「……これ」
奏が足を止め、しゃがみ込む。
指先で、爪痕の縁をなぞった。
「新しい。昨日……いえ、数時間前ね」
あたしの喉が、ひくりと鳴った。
見えない何かが、すぐ近くにいる。
そう理解した瞬間、青い魔法石が胸元で、かすかに震え始めた。
「アイラ、動かないで」
奏の声が、今までより一段低くなる。
それだけで、背筋に冷たいものが走った。
木々の奥。霧の向こうで、何かが――確かに、こちらを見ている。
逃げたい。そう思ったのに、足が動かなかった。
そのとき、奏が背中に抱えていた剣を外した。
鞘ごと、こちらへ差し出される。
「……え?」
あたしは思わず首を振った。
受け取れるはずがない。
剣なんて、持ったこともない。
奏は、あたしの反応を見ても表情を変えなかった。
ただ、淡々と、事実を並べるように言う。
「使わなくていい」
一拍。
「でも、あなたも持ってなさい」
霧が、ゆっくりと流れる。
「何かあったら、振るのよ。
当てなくていい。逃げる時間を作るだけでいいから」
それは命令でも、励ましでもなかった。
ただの判断だった。
あたしは、しばらく剣を見つめてから、震える手で受け取った。
――重い。
想像していたより、ずっと。
金属の冷たさが、掌から腕へ伝わってくる。
「……こんなの、持ってたら」
声がかすれる。
「私、守られる側じゃいられなくなる」
奏は、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「そうね」
そして、前を向いたまま続ける。
「でも、それでいい。ここから先は、そういう場所よ」
その言葉と同時に、霧の向こうで低い唸り声が重なった。
(一体や二体なら、私が前に出る。でも――)
一体ではない。数が多い。
霧の向こうで“何か”が動く気配。
低く、重なり合う唸り声。
奏は剣を構え、静かに気を高める。
「……来るわ」
あたしは剣を握り直した。重さが、少しだけ現実味を帯びる。
――これは、戦うためのものじゃない。生き延びるための重さだ。
そう理解した瞬間、胸元の魔法石が、かすかに同調するように光った。
「……怖がってる。私じゃなくて……この石が。
……何かを『感じ取っている』みたいに……嫌がっている」
一体の魔獣が姿を現す。
奏が構える。
だが、さらに『別の影』が動く。
霧の奥から現れたのは、さきほどのとは次元が違う、漆黒の巨躯を持つ魔獣だった。
胸元の魔法石が、じわりと熱を帯びた。
いつもとは違う。脈打つような感覚が、内側から押し返してくる。
制御できないほど強く反応し始める。
(……魔力が集まっている?)
そう思った瞬間、あたしは疑わなかった。
(今なら行けるかも)
あたしは前へ出た。一歩踏み込み、最大出力の光弾を放つ。
――ズドン
衝撃音と共に放たれた黄金の光は、魔獣の目の前で霧散した。
──違う。
今までの失敗とも、成功とも違う。
何かが、根本から噛み合っていない。
効いていない。
あたしは一瞬、理解できなかった。
魔獣はあたしの魔法を「無視」して、突進してきた。
「アイラ、下がって!!」
突き飛ばされた衝撃であたしは地面を転がった。
顔を上げた瞬間、息をのむ。
あたしを庇った奏が、魔力を帯びた魔獣の鋭い爪を肩に受けていた。
「奏っ!!」
鮮血が舞う。あたしの慢心が生んだ、取り返しのつかない「死」の予感。
「退くわよ……! これは、今のあたしたちが越えていい山じゃない!」
苦悶に満ちた奏の声で、あたしは我に返った。
(まただ。いつも――「できる気がする」って思ったときほど……)
(もし、今のが致命傷だったら)
震える足で彼女を支え、あたしたちは這う失意のまま、来た道を必死に逃げ出した 。
魔獣はむやみに追ってこなかった。まるで「越えてはいけない境界」を守っているようだった。
「……狩りじゃない。
まるで……これは、排除よ。近づくものを、選別してる」
* * *
山頂付近の峠まで逃げ延びたとき、雨が降り始めた。
濡れた地面に座り込み、肩を抑える奏を見ることしかできない。
「……奏。動かさないで。傷、見せて」
「大丈夫……たぶん」
そう言いながらも、奏の指先は肩口から離れなかった。
雨に打たれているはずなのに、その部分だけ、妙に熱を持っているように見える。
「『たぶん』って何よ」
「うん……でも、ちょっと変な感じがする」
「変?」
「痛いっていうより……中が、ざわざわしてる」
あたしは返す言葉を見つけられず、ただ唇を噛んだ。
視界の先、山の麓には、レガリア王国の街の灯が、まるで届かない星のように点々と輝いていた。
「……逃げたんじゃない。準備よ」
奏が自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、あたしの胸の奥には、消えない敗北感と、自分の無力さへの恐怖が、そして――それでも進まなければならないという確信が、冷たい雨と共に染み込んでいった。
「奏……ごめん。あたし……」
言いかけた言葉は、激しい頭痛にかき消された。魔法を使いすぎた代償。視界が歪む中で、あたしはただ、遠くの灯りを見つめ続けるしかなかった。




