第3話 放たれた光、交差する二人の歩幅
山の麓のその村はベイル村という。
翌朝、あたしたちは村長の家を訪ねていた。窓から差し込む朝日は柔らかく、村はいつも通り穏やかな一日の始まりを迎えている。昨夜の騒ぎは、この静かな村にとってはまだ「一過性の事件」に過ぎないようだった。
「なるほど、『青き山脈の賢者』か」
「はい。青き山脈の向こうに住まう『賢者』なら、元の世界へ戻る方法を知っているかもしれない。……ここに来る前の村で長老様から聞きました」
村長はあたしの言葉を静かに受け止め、茶の入った器を置いた。
「奏よ、お前さんが以前言っていた元の世界というのも同じ場所のことなのだね」
「はい」
村長は深い皺を刻んだ顔をわずかに動かした。
「……確かに、噂は聞いたことがある」
村長は声を低め、周囲を憚るように身を乗り出した。
「それと、昨夜、君たちを襲った二人組。わしの推測だが、ありゃあ帝国の『警戒班』だ。強大な魔力に反応して動く、いわば猟犬のような連中だよ。奴らが動いたということは、君が持つその魔法石が……君の意志に、あるいは血に、強く反応して光を放ったという事実に他ならない。石が君に反応している。ならば、それは君の身を守る盾にもなるはずだ」
あたしは首元の青い石をそっと指先でなぞった。あの戦いの最中、確かにこの石はあたしの鼓動と重なって輝いたのだ。
「アズライトへ至る道は危険だ。旅の前に、魔法の特訓をしてはどうかな?」
「魔法の特訓? あたしがですか?」
「ハハハ。魔法の器ってのは本来みんな持っているものなんだ。ただ、人によって器の大きさに違いがある。小さい器の者は魔法が顕在化しない。大半がそうだがね。しかし──」
「君は、魔法石の力を借りたとはいえ発動した。まあまあ大きな器の持ち主には違いない」
「……なるほど」
「ただ、魔法を操るというのはまた別問題だ。村の端に、老術師が隠れ住んでおる。ちょっと気難しいのだがね。まずは、あやつの元を訪ねてみるといい」
あたしが戸惑っていると、奏が静かに立ち上がった。
「行きましょう、アイラ。論理的に考えて、備えは多いに越したことはないわ。……私も、あなたの力になりたい」
包帯の巻かれた奏の手が、あたしの肩に優しく置かれた。そのぬくもりに背中を押され、あたしたちは村の境界にある、古いリンゴ園へと歩き出した。
* * *
たどり着いたリンゴ園の奥、一本の枯れ木のたもとにその老人はいた。
老人はあたしたちが近づいても目を向けず、手元の古い木片を小刀で削り続けていた。あたしがおずおずと魔法の教えを乞うと、老人は濁った、けれど鋭い眼光であたしたちを射抜き、あたしのネックレスをひったくるように手に取った。
次の瞬間、老人の指先がぴくりと震えた。
「……この紋章。王家のものだ。それも、正真正銘、『セレスティア』の理が刻まれている」
老人の声に重苦しい緊張が混じった。隣にいた奏が、反射的にあたしの前に一歩踏み出し、老人の動向を警戒する。
「いいか、小娘。魔法とは『奇跡』ではない。この世界の理を、一時的に書き換える……猛毒のようなものだ。特にその石を使うということは、眠っている巨大な力を無理やり引きずり出すことに他ならん。その覚悟がないなら、さっさとその石を穴にでも埋めろ」
あたしは拳を握りしめた。猛毒。けれど、あたしは帰りたい。そのために必要なら、やりたい。あたしの決意を聞いた老人は、鼻で笑いながらも、指導を始めた。
「まずは目を閉じ呼吸を整えろ。己の内の熱を探せ」
視界を閉じると、世界は音と気配だけの塊になった。意識を集中すると、空気の中に溶けていた目に見えない「熱」の揺らぎが感じられた。
「周囲に漂う熱、風のうねり、大地の鼓動を感じろ。それが魔力だ。お前はそのエネルギーを集め、この世界の法則をほんの一瞬だけ、お前の望む形に塗りつぶすんだ」
あたしは指先からその揺らぎを手繰り寄せ、腕の回路を通して、胸元の魔法石へと流し込むイメージをする。
幾度かの失敗を繰り返した後のある瞬間、石がドクン! と跳ねるように脈打った。あたしが送り込んだのは、小さな火花のような魔力に過ぎなかった。けれど、魔法石を通った瞬間、それは何十倍もの暴力的な熱量へと膨れ上がった。
(怖い)
石が激しく震え、あたしの右腕を焼き切らんばかりのエネルギーが溢れ出す。
(いけっ!!)
黄金色の閃光が放たれた。――ズドンッ!! 枯れ木がただ折れるのではなく、内側から爆発するように霧散した。
「はっ、はぁ……っ……!」
突き出した右手が、自分のものじゃないみたいに熱い。それと同時に、こめかみの奥を重い金槌で殴られたような、鋭い痛みが突き抜けた。
「アイラ!?」
すぐさま奏が駆け寄ってあたしの肩を支えた。奏の顔は、驚愕に染まっている。
「……信じられない。物理法則をこれほどの力技で上書きするなんて。今の出力、あなた一人で出せるものなの」
「お前の魔力は雑だ。蛇口を壊して水をぶちまけているようなものだ」
老人は続けた。
「石が増幅した魔力が、お前の未熟な回路を逆流した。それがその頭痛の正体だ」
老人はあたしたちに背を向け、去り際に一言だけ投げ捨てた。
「二度とここで使うな。死にたくなければな」
* * *
修行を終え、日が完全に沈む頃にあたしたちは村長の家に戻った。出迎えた村長の顔は険しかった。
「……奏、アイラ。あまり時間は残されていないようだ。今、村の入り口に、獲物を探す『猟犬』の目をした旅人が留まっている。……帝国がこの村を監視し始めた」
村長は家の灯りを絞り、古い地図を広げた。
「今夜、村の反対側にある、古い家畜用の出口から出なさい。隣の『レガリア王国』へ通じる街道がある。そこを経由し青き山脈を目指すのだ」
「わかりました」
「……奏、これを持っていきなさい。路銀と食料、それから……換えの『竹の水筒』も入れておいた」
奏の肩が、一瞬だけびくりと跳ねた。
「毎日、あんなに激しく動いていれば、すぐに割れてしまうだろうからな」
この村での三ヶ月。奏は毎日、村外れの森で一人、真剣を振り続けていた。村の人たちは、その必死な背中を、静かに見守り続けてくれていたのだ。
「……気づいて、いたんですか」
奏の声が、微かに震える。村長の手が、奏の頭にそっと置かれた。
「当たり前だ。お前がこの村を、どれほど守ろうとしてくれていたか。感謝している」
「感謝しているのは私です。この三ヶ月、どれほど助けていただいたことか」
「……奏。これからは、自分のために、そしてその隣の少女のために剣を使いなさい」
奏は唇を噛み締め、深く頭を下げた。
あたしたちは、闇に紛れて村長の家を後にした。静まり返った村の裏道。通り過ぎる家々の窓から漏れる温かな光。その一つひとつが、奏が三ヶ月間、身を削って守り抜こうとした日常だった。
「……アイラ。行きましょう」
振り向いた奏の瞳には、もう迷いはなかった。あたしは、まだ熱を帯びた首元の魔法石を握りしめた。頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。でも、この痛みこそが、あたしがこの世界で生きていくための代償なのだ。
あたしたちの「冒険」は、この夜、本当の意味で始まった。




