第18話 凪いだ海、神羅の剣
神羅島での修行の締めくくりは、驚くほど静かな朝食から始まった。
お盆の上に載せられたのは、炊きたての白い米。つややかで、一粒一粒が立っている。奏はそれを一口運ぶと、ゆっくりと、愛おしむように咀嚼した。
「……美味しい。一粒一粒の粒立ちが極めて大きく、噛むほどに生命力あふれる甘みが広がる。鼻に抜ける香りはどこまでも華やかで……。ええ、間違いないわ。これは、日本で『奇跡の米』と呼ばれたあの一品に匹敵する、いえ、神羅の霊気を吸ってそれを超えている……」
陶酔したように語る奏の言葉に、これまでの厳しい修行の疲れが溶けていくような、深い安堵が滲んでいた。隣でそれを見ていたあたしも、思わず笑みがこぼれる。奏にとって、この「神羅の米」は単なる食事以上の、魂の拠り所になっているようだった。
「アイラ、見て。この輝き。まるで龍の瞳がこちらを見つめているような神々しさだわ。……このお米があるなら、私、一生この島で修行してもいいかもしれない」
「ちょっと、奏! 目的を忘れないでよ!」
* * *
食事を終えたあと、あたしたちはソウシンさんに呼び出され、道場の奥の間へと招かれた。
静寂な空気が満ちていた。ソウシンさんは、あたしの目をじっと見つめて口を開く。
「さて、お主は魔法という外の理を、気という内の理で制した。暴れ馬のようだった魔力が、今は凪いだ海のように静まり、お主の意志に従っておる」
「はい……。自分の中の力が、ようやく自分の体の一部になった気がします」
あたしが答えると、ソウシンさんは満足げに頷き、言葉を継いだ。
「アイラよ。賢者に会いなさい。……奴は今も『青き山の奥地』に隠れ住んでおる」
「賢者――。やはり、いらっしゃるのですね」
「うむ。……そこは強大な『気の結界』に守られた場所。精神を制御できぬ者が近づけば、一瞬で正気を失うじゃろう。じゃが、今のお主らなら辿り着けるはずじゃ。奴なら、お主が真に『帰るべき場所』への道を示してくれるだろう」
続いて、ソウシンさんは奏に向き直った。その目は、まるでおじいちゃんが孫を見るような、慈しみに満ちている。
「奏よ。お主の合気、見事であった。その技は誰かを倒すためのものではない。理を守るためのものじゃ。お主の内に流れる『気の脈』が、この先の進むべき道を教えてくれるはずじゃ」
「はい……。この島に来て、ようやく自分の『重心』が定まった気がします。迷いが消えました」
奏の言葉に、ソウシンさんは目を細めた。その視線の先には、かつてこの島を守っていた誰かの面影が重なっているようだった。
「……左様か。ならば、もう何も言うまい。彼女を守ってあげなさい。剣とは、斬るためのものではない。道を切り開くものじゃ。……お主らの剣は、あるいは世界を変えるかもしれん」
そう言うと、ソウシンさんは立ち上がった。
「少し待っておれ」
ソウシンさんが奥から運んできたのは、長い年月を感じさせる白木の長持ちだった。彼が静かに蓋を開けた瞬間――道場の空気が、キッと凍てついた。
奏の息を呑む音が聞こえた。
「……『比翼の剣』。あれは二人の魂を重ねる絶大な力。じゃが、同時に物質への負荷も計り知れん。普通の鈍では、お主らが心を重ねる前に木っ端微塵じゃろうて」
ソウシンさんがうやうやしく取り出したのは、一振りの太刀だった。
漆黒の鞘は、まるで周囲の光すら吸い込むような静謐な輝きを放っている。その刀身は、抜かれてもいないのに――周囲の空気がわずかに歪んでいた。見つめているだけで、自分の“中心”が引きずり出されるような感覚だ。
「これは神羅十剣の一つ。古より神羅を守る十人の守護者にのみ与えられた剣じゃが……末席がずっと欠番となっておった」
ソウシンさんが、その太刀を奏の前に差し出す。
「……奏。お主がこの剣を、自らの『道』として選ぶのなら、受け取るがよい」
奏の喉が、微かに鳴った。
差し出された白木の柄を見つめる彼女の指先が、期待と、そしてそれを背負うことへの畏怖に、小さく震えている。
その震えは恐れではなかった。「守る」という選択の重さを、初めて真正面から受け止めた証だった。
「私のような者が……本当に、いいのでしょうか」
戸惑う奏に、ソウシンさんは静かに微笑み、その剣を差し出した。
「これは神羅の剣。だが本当は――お主らのために、ここで眠っていた剣なのじゃよ」
* * *
神羅島の波止場。ゴードンさんの船が、出発の時を待っていた。
「ソウシンさん、本当にありがとうございました。ここで気を教わらなければ、あたしは自分の力に振り回されたままでした。……これでようやく、自信を持って賢者様に会いに行けます」
あたしが深く頭を下げると、ソウシンさんは一瞬の間を置き、深く、重みのある声で言った。
「アイラよ。お主がどこから来たのか、わしには全てはわからぬ。だが、一つだけ確信していることがある。『帰るべき場所』は、決してお主を拒みはせぬ」
「……! はい。信じています。絶対に、日本に帰ってみせます!」
「道中、風が止まることもある。だが案ずるな。お主自身が『風』になればよい。……行け、賢者が待っておる」
船が岸を離れる。舵を握るゴードンさんが、快活な声を上げた。
「いい顔になったな、二人とも! 修行の成果、見せてもらうぜ!」
遠ざかっていく神羅島。山々の緑と、透き通るような海。あたしはその景色を見つめながら、隣に立つ奏に話しかけた。
「……奏。私、なんだか不思議な感じがするの。日本に帰りたいってずっと思ってたけど……今、この世界の空気が、すごく温かく感じる。前は異物だった。今は居場所になりつつある」
奏は腰に下げた神羅の剣の重みを確かめるように手を添えた。前方の水平線を見つめるその横顔は、かつてベイル村で絶望に暮れていた時とは別人のように、静かで強い光を宿している。
「それは、アイラの『気』がこの世界と調和し始めた証拠よ。……行きましょう。私たちが、迷い子としてではなく、自らの足で『帰る』ために」
そう言ったあと、奏は少しだけ悪戯っぽく口角を上げた。
「……その代わり、戻ったらまた特訓よ」
「えーっ! まだやるの!?」
あたしの悲鳴に、ゴードンさんが笑う。
「ハハハ! それで、次はどこへ向かうんだい?」
奏が頷き、あたしも大きく息を吸い込んだ。
「準備はできたわ」
「うん、行こう。賢者が住む青き山――アズライトへ!」
* * *
船がゆっくりと岸を離れていく。遠ざかる二人を見送りながら、ソウシンは懐から一通の書簡を取り出した。そこには、「青き山の賢者」からの走り書きがあった。
『――その娘が、真実と世界の理を知った時、正気を保てる器であるか。お主の眼で見極めてほしい』
ソウシンはしばらく海を見つめていた。
「あの娘は、お主が恐れるほど弱くはない。……アイラよ、たとえ世界の理が覆ろうとも、お主の内の『凪いだ海』は決して濁りはせぬだろう」
やがて、ふっと目を細める。
「合格じゃよ、友よ」
その瞬間、指先から発した「気」が書簡を粉々に砕き、紙片は風に乗って空へ舞い上がった。




