第15話 溶け合う呼吸、解(ほど)ける心の鎧
神羅島に降り注ぐ陽光は、容赦なくあたしたちの体力を削っていく。
師範代リャンさんが課した修行は、ただ「静かに立つ」ことだけではなかった。
強大な「気」を流すには、まずそれに耐えうる強靭な「器」――肉体の土台が必要不可欠だというのだ。
「足が止まっていますよ! 気は血流と同じです。身体の隅々まで道を開拓するつもりで走りなさい!」
早朝。師範代の怒号が飛ぶ中、あたしは島の外周に広がる険しい岩場を走っていた。
背中には、自分の体重の半分はあろうかという重い石の入った籠を背負わされている。一歩踏み出すごとに太ももの筋肉が悲鳴を上げ、肺は酸素を求めてひゅーひゅーと情けない音を立てていた。
「はぁっ、はぁっ、はっ……!」
視界がチカチカと明滅する。足がもつれ、泥だらけの地面に無様に這いつくばった。
口の中に入った砂を吐き出しながら、ゆっくりと顔を上げる。
数メートル先では、奏が同じように重い籠を背負っているにもかかわらず、涼しい顔で――いや、よく見れば彼女の額にも薄っすらと汗が滲んではいるものの、足取りは乱れず、見事な体幹を保ったまま急な岩場を駆け上がっていくところだった。
(……すごい。奏は、やっぱり次元が違う)
剣の修練で培われた、完成された肉体と技術。それに対して、あたしはただの女子高生だ。体力も、技術も、何一つ追いついていない。
でも、だからといって諦めるわけにはいかなかった。
「……まだ、いける……っ!」
泥だらけの手で地面を叩き、強引に身体を起こす。
不思議なことに――。こうして極限まで肉体を追い込んだあとの『立禅』は、驚くほど深く、自分の内側へ沈んでいける。
最初の三日間は、ただの地獄だった。
筋肉痛で足が震え、立っているだけで足の裏から火が出るような熱さが全身を駆け巡る。頭の中は「早く休みたい」「水が飲みたい」という、みっともない叫びで埋め尽くされていた。
けれど、基礎体練と立禅を繰り返すうち、変化が訪れたのは七日目を過ぎたあたりだ。
肺に流れ込む空気の温度、皮膚を撫でる風の湿り気。
そして、走り込みで極限まで血流を高めたおかげか、自分の内側にある魔力の「淀み」――細い管に泥が詰まっているような、あの不快な感覚を、まるで他人事のように客観的に眺められるようになっていたのだ。
そして、十日目の朝。
いつものように立禅の姿勢をとっていたあたしの身体で、何かが流れ始めたのを感じた。
(あ……)
通った。
詰まっていた何かが、音もなくほどけた。
次の瞬間――。
視界を覆っていた靄が、嘘のように晴れていく。
大気中に漂うキラキラとした光の粒子――魔力の煌めきが、肌を刺すように鮮明に感じ取れた。
全身の回路が限界まで拡張され、指先まで熱い血と魔力が駆け巡る。
地道で泥臭い体力作りが、ついに「回路」を広げ、魔力の道を開通させた瞬間だった。
あたしは、ようやく次の段階へ進む準備が整ったのだと確信した。
けれど。
「……はぁ、……っ、……っ」
隣から聞こえる、尋常ではない荒い呼吸に、あたしは意識を引き戻された。
奏だ。
完璧な姿勢。凛とした佇まい。けれど、その横顔からは見たこともないほどの汗が滝のように流れ落ちている。
彼女の「気」は、あたしのように物理的な苦痛と戦っているのではない。もっと深い、暗い……自分自身の「何か」を必死に抑え込もうとしている。そんな、痛々しい拒絶の波動を感じた。
「そこまで」
師範代リャンさんの声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「……二人とも、明日から動功へ移りますよ」
立禅の「静」から、動きの中での調和を目指す「動」の訓練。
師範代の指示に従い、ゆっくりと、螺旋を描くような動作を繰り返す。太極拳のような、スローモーションの動き。それは神経の隅々まで「気」を巡らせるための、気の遠くなるような再学習だ。
* * *
「動」の訓練が始まって数日がたったころ。
奏の動きは、相変わらず正確で美しい。
けれど、その動きの中に、一瞬だけ鋭い「棘」が混じるのをあたしは見逃さなかった。
彼女は、戦っている。何か強迫観念のような、正体不明の恐怖と。
(奏……何を、そんなに怖がってるの……?)
奏の瞳が、ふとあたしを捉えた。
その瞬間、彼女の「気」が揺らぐ。
――アイラ。あなただけは。絶対に。
言葉にならない叫びが、彼女の壁を内側から叩き壊したように見えた。
悲鳴にも似たその切実な波動に、あたしは思わず手を伸ばしそうになった。
そのとき。
「……ほう。もう少しじゃな」
声が落ちてきた。
その瞬間、空気が変わった。
風が止まる。
鳥の声が消える。
振りむいた石段の上に、
いつの間にか、小柄な老人が立っていた。
誰も、その気配に気づかなかった。
「ソ、ソウシン様。いらしていたのですね」
師範代リャンさんが挨拶をした。
「……リャンさん、こちらは?」
「ああ、君たちは初めてだったね。この島の武術と気を束ねる大尊師――ソウシン様です」
「大尊師!?」
あたしたちは、慌てて頭をさげた。
ソウシンさんは、静かに歩み寄り、奏の方を向いて言った。
「ようやく己の中に巣食う『幽霊』の正体を見据えたようじゃのう、お嬢さん」
「……」
「ワシがきっかけを与えてやろう――」
ソウシンさんは、少し体をほぐすような動きをした後、奏に言った。
「やってみせよ」
ソウシンさんの静かな促しに、奏はゆっくりと深く息を吐き、水面を撫でるように螺旋の動きへと入っていく。
その瞬間――ソウシンさんが、音もなく奏の隣に並び立った。
「……え?」
驚きに動きを止めかけた奏を、ソウシンさんは視線で制した。
「止めるな。気の流れに、身を委ねるのじゃ」
そして伝説の大尊師は、奏の呼吸に溶け込むように、寸分違わぬ動作を紡ぎ始めた。
奏の動きに吸い付くように離れず、逆らわずに動く。
奏が動こうとする瞬間の「兆し」を察知し動く。
まるで、お互いの精神と身体とが同調しているかのような動き。
何度か動作を繰り返すうちに、場の空気が一変した。
奏の動きに柔らかさが出てきた。
二人の動きが、鏡合わせのように同期する。
ソウシンさんが動けば、奏も同時に動く。
呼吸さえ、いつの間にか同じリズムになっていた。
「……すごい」
傍で見守るあたしは、鳥肌が立つのを抑えられなかった。
二人の気は別々なはずなのに、流れは一つ。
奏の表情から険が消え、まるで深い精神の海で溶け合っているような、不思議な恍惚さえ感じられた。
――けれど。
完璧に重なった、と思ったその刹那。
一瞬、奏と目線が合う。
ほんのわずか。髪の毛一本分にも満たない「重心のズレ」が生じた。
奏の身体が、微かに強張る。
彼女だけが、その違和感に気づいたようだった。
「……っ!」
二人の合気が解ける。動きも止まる。
あたりは静まり返り、風の流れさえ止まったような静寂が支配した。
「……さて、奏よ。どのように感じた?」
奏は、しばらく考え答えた。
「不思議な感覚でした。まるで、……そう、ソウシンさんとシンクロしているような。……ソウシンさんの気の流れを感じたような」
「……これが『合気』じゃ」
「……『合気』」
「左様。相手との深い精神的な一致。これが生まれるわけじゃ」
奏は、初めての体験に戸惑っているようだった。
「……理屈で固めた鎧は、内側からしか壊せん。自分の『幽霊』と向き合えたか?」
ソウシン様の問いに、奏は力なく、けれど真っ直ぐに応えた。
「……私には、『失いたくない』という強い思いがあったんです」
ポツリと、奏の唇からこぼれ落ちたのは、彼女がずっとひた隠しにしてきた弱音だった。
「……二度と、大切なものを『失う』思いをしたくなくて……」
奏の声は微かに震え、いつも理然とした彼女からは想像もつかないほど脆かった。
「だから、感情を殺して……完璧な理屈という鎧で、自分を守りたかった。……でも、その思いが強すぎて、私は自分自身の心まで、がんじがらめに閉ざしていたんですね……」
ソウシン様は、白髭を撫でながら深く頷いた。
「しかし、その氷のように強固な鎧も、内側からじんわりと溶け出し、すでに変わりつつある。……違うかな?」
「……」
奏は言葉を返さなかった。けれど、ゆっくりと振り返った彼女の瞳が、真っ直ぐにあたしを捉える。
いつも計算高く、冷たい光を宿していた黒曜石の瞳。それが今は、春の雪解けのように柔らかく、けれど決して折れない強い意志を宿して潤んでいた。
「……ただ一度だけ、『合気』がズレてしまいました」
奏は、微かに自嘲するように微笑みながら、あたしから視線を外し、自分の両手を見つめた。
「完璧に同調したあの深い海のような静寂の中に、ずっと漂っていたかった。……でも、私にはまだ、どうしても手放せない『執着』があるようです」
その言葉が誰に向けられたものか、あたしには痛いほど分かった。
彼女の気には、まだ澱みがあるのかもしれない。けれど、その澱みの正体は、誰かを――あたしを守りたいという、不器用で優しすぎる彼女の「愛」そのものだった。
「それとな……」
ソウシンさんは、奏の流路を見透かすように目を細めた。
「お主、かつて強力な魔力を浴びたことはあるか?」
「魔力?」
「お主の経絡からは強力な『気』の流れに混ざって、少しばかりの魔力の痕跡を感じたのじゃ」
奏は振り返り、ハッと気が付いた。
「アズライト、……あの時、魔獣の攻撃を受けた……」
「ふむ。……その時に浴びたエネルギーが、魔力のチャネルをも無理やり開かせたようじゃ」
ソウシンさんは、わずかに眉をひそめた。
「……いや、しかし妙じゃな」
「……?」
「ただ魔力を浴びただけで、ここまで流路が開くものか……」
奏は、自分の手のひらをじっと見つめていた。
「……まあよい」
あたしは、そっと彼女の隣に並び、静かに息を整えた。
彼女の気は、まだ震えていた。
けれど、それは拒絶の震えじゃない。
新しい扉を開けようとする確かな鼓動だった。
――そして、あたしも同じだった。
その様子を見ていたソウシンさんが、ふと空を見上げる。
「……ほう」
しばらく目をつむり、何かを感じ取っていた。そして――。
「風向きが、変わり始めたのう」
老人は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。




