第13話 夜明け前、旅立ちの決意
その日の深夜。
屋根裏部屋の窓の隙間から入り込む夜風が、火照った頬を撫でていく。
ベッドに入っても、どうしても眠りにつくことはできなかった。目を閉じれば、暴走した魔力が自分の内側から体を焼き尽くそうとする、あの生々しい熱と恐怖が蘇ってくるからだ。
「……あたし、どうなっちゃうんだろう」
月明かりに透かした自分の両手を見つめる。
ただの女子高生だったはずのこの手の中に、帝国が刺客を送るほどの、恐ろしい力が眠っている。リトル・セレスティアの人々がすがるような目で見てきた『希望』の正体は、回路がショート寸前の、ただの時限爆弾だ。
「起きていたのね」
不意に背後から声をかけられ、ビクッと肩が跳ねた。
振り返ると、扉の枠に寄りかかるようにして奏が立っていた。彼女もまた、寝間着姿ではなく、いつでも剣を抜けるような軽装のままだった。
「奏……。ごめん、起こしちゃった?」
「いいえ。私も、目が冴えてしまって」
コトリ、と。奏は温かいハーブティーが入ったマグカップを、あたしの隣の木箱に置いた。湯気と一緒に、微かに甘い香りが漂ってくる。
「……怖い?」
隣に腰を下ろした奏が、窓の外を見たまま静かに問う。
誤魔化すこともできた。でも、奏の横顔があまりにも真剣で、あたしは小さく首を縦に振った。
「怖いよ。……魔力が暴走したとき、自分が自分じゃなくなるみたいだった。それに、町の人たちのあの目や、『白の魔女』なんて名前……。あたしはお姫様でも魔女でもないのに。ただ、元の世界に帰りたいだけなのに……!」
せき止めていた感情が、言葉になって次々と溢れ出す。震える両手をギュッと握りしめると、ふいに、その上から温かな手のひらが重なった。
奏の手だ。剣を振るうために作られた、少し硬くて、でも頼もしい手。
「私も、怖かったわ」
「え……?」
「あなたを狙う帝国の刃が迫ったとき、私の剣は届かなかった。あのままあなたが、その力に飲み込まれて壊れてしまうんじゃないかと……自分自身の無力さが、恐ろしかった」
驚いて顔を上げると、月明かりに照らされた奏の瞳が、真っ直ぐにあたしを射抜いていた。いつも冷静で、完璧な騎士のように見えた彼女が、初めて見せた弱音だった。
「……ねえ、アイラ。あの路地裏の境界線を越えた日のこと、覚えてる?」
ぽつりと、奏が静かな声で問いかけてきた。
「うん。……あたし、三ヶ月も怖くて入れなかったのに、あの日は違った。胸の奥が騒いで、急かされるような……不思議な『焦燥感』があったの」
あたしが答えると、奏は自分の左手――ブラックシルバーの指輪を指先でなぞりながら、小さく頷いた。
「私も同じよ。どんなに論理的に危険だとわかっていても、背中を強く押されるような、抗えない焦燥があった。……きっと、私たちはあの時からずっと何かに怯えながら、同時に何かを求めていたのね」
あの日、得体の知れない焦燥に背中を押されて、あたしたちは未知の扉を開けた。
そして今も、形は違えど、同じように震えている。
奏は、そっとマグカップから手を離し、もう一度あたしを真っ直ぐに見据えた。
「アイラ。神羅島へ行きましょう」
迷いのない、凛とした声。
「あなたが自分自身の力を制御できるようになるため。そして私が、あなたを二度と危険に晒さないほど、強くなるため。……今のままでは、私たちは『帰る場所』を選ぶことすらできないわ」
「奏……」
そうだ。怯えて立ち止まっていても、帝国は待ってくれない。
逃げれば、きっと楽だ。
でもそれは、あの日の自分を裏切ることになる。
自分の運命から逃げない。元の世界へ帰るにしても、この世界で生きるにしても、まずは『選べるだけの力』を手に入れなきゃいけないんだ。
帰るために戦うんじゃない。
帰るかどうかを、選ぶために強くなる。
胸の奥でギリギリと音を立てていた痛みが、スッと引いていくのを感じた。代わりに、小さな、けれど決して消えない熱い炎が灯る。
「うん……行こう、神羅島へ。二人で、絶対に強くなって帰ってこよう」
あたしは、重なった奏の手を強く握り返した。
夜風はもう、冷たくは感じなかった。
* * *
翌朝、空は抜けるように青かった。
王都の裏手にある小さな隠し港。カモメの鳴き声と、潮風が頬を撫でる中、エリーザさんが少し目を赤くしながら、ずっしりと重いバスケットを押し付けてきた。
「お弁当よ。不格好だけど、たくさん食べてね。……必ず、帰っておいで」
慌てて作ったのだろう。バスケットには「焦げたパン」が入っていた。
ゴードンさんは、何も言わずに背を向けている。涙を隠しているのだろうか。エリーザさんは、最後にあたしの髪を撫でてくれた。
「ゴードンさん、エリーザさん……本当に、何から何までありがとう」
差し出された温かな手に触れたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(あたしには、日本以外にも『帰る場所』ができているのかもしれない)
そんな思いを胸に秘めながら、あたしたちはゴードンさんが手配してくれた小さな帆船に乗り込んだ。ギシッと木製の甲板が鳴り、水夫たちが慌ただしく帆を張る準備を始める。
「行くわよ、アイラ」
潮風に黒髪をなびかせながら、舳先に立った奏が振り返る。その瞳には、昨夜の迷いはもう欠片もなかった。
「うん!」
風をはらんだ白い帆が、大きく膨らむ。
目指すは、精神の島、神羅。
あたしたちの「自分を取り戻すための航海」が、静かに幕を開ける。
東の空から昇った朝日が、海面と船体とを眩い黄金色に染め上げていた。




