第10話 特命調査官
「――ここが、ゴードンさんの職場?」
翌日。あたしたちが連れてこられたのは、王立図書館のさらに奥。厳重な警備兵が立つ鉄柵の向こう側――王宮の敷地内だった。
「今日は、ある御仁に接見してもらう。お前たちが見てきたアズライトについて情報提供してもらいたい。頼んでいたものは持ってきたな?」
「はい。大丈夫です」
「ああ。俺は、表向きは王立研究所の調査官だ。……しかし裏の顔は、危険な任務もこなす陛下直属の『特命調査官』なんだ」
ゴードンさんは、昨日の陽気なおじさんとは別人の顔つきで、低い声で言った。
「いいか、妻には内緒だぞ? あいつは俺がただの学者だと思ってる。余計な心配をかけたくないんでな」
「は、はい……」
長い回廊を抜け、案内されたのは王宮の奥座敷。豪奢な扉の前で、ゴードンさんが立ち止まる。
「……粗相のないようにな」
重厚な扉が開かれる。
部屋の中央、深紅の椅子に座っていたのは、静かな威厳を湛えた初老の男性だった。派手な王冠などなくとも、彼が視線を動かすだけで、空気がわずかに張りつめる。その瞳に射すくめられた瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
「……よく来たな。彼女らが、例の『生還者』か」
その声は低く、静かだった。逆らう、という選択肢そのものを奪う声だった。
「はっ。アズライト山脈を越えてきた二人です」
ゴードンさんが深く頭を下げるのを見て、あたしたちも慌てて膝をついた。
この人が、レガリア王国の国王――。
「面を上げよ」
王様の鋭い視線が、あたしと奏を射抜く。
「誰もが生きて帰れぬ死の山、アズライト。そこを越えたというのか。……そこで何を見た」
試すような問いかけ。あたしは喉を鳴らし、正直に答えた。
「……魔獣です。それも、ただの動物じゃない。何かに怯え、逃げ惑うような……異様な気配でした」
「ほう。異様、とな」
「はい。それに……」
あたしは言葉を選ぶ。うまく説明できないけれど、肌で感じたあの感覚。
「空気が、歪んでいました。自然のものじゃない、人工的な『嫌な感じ』が、山全体を覆っていて……」
そのとき。
服の下、胸元の青い魔法石が、ほんの一瞬、王の視線と共鳴するように、はっきりと一度だけ脈打った。
(今の……なに?)
王様の目が、わずかに細められる。
彼はあたしの言葉だけでなく、もっと別の何か――あたしの存在そのものを探っているようだった。
「……なるほど。感覚的な証言だが、興味深い」
王様の言葉を引き取るように、隣で控えていた奏が一歩前に出た。
「陛下。論理的な補足をさせていただきます」
奏は懐から、昨日図書館で作成した地図とメモを取り出し、テーブルに広げた。
「山岳地帯における魔獣の分布図です。ゴードンさんから聞いた本来の生息域から、意図的に『南』へ――つまりこのレガリア側へ押し出されている傾向が見られます」
「ふむ」
「そして、ここ。帝国の隠密部隊と思われる痕跡と、その移動ルートの予測です」
奏の指先が、地図上のポイントを的確になぞっていく。王様の表情が、驚きから真剣なものへと変わる。
「さらに、物的証拠がこれです」
あたしは、ポケットからハンカチに包んだ『欠片』を取り出した。山道で拾った、黒ずんだ石ころだ。
「これは……」
「変質した魔法石の欠片と思われます。あたしたちが遭遇した魔獣の体表に付着していました」
「帝国の魔力付与実験……。自然界への悪影響が、ここまで及んでいるというのか」
王様は唸り、深く椅子に背を預けた。
「……あい分かった。貴重な情報、感謝する。お前たちの処遇については、ゴードンに任せよう」
「あ、ありがとうございます!」
王はゆっくりと立ち上がった。
「レガリアの民は、我が守る」
それは宣言ではない。既に背負っている者の、確認だった。
王の言葉が、重く部屋に沈んだ。
誰もすぐには口を開けず、沈黙が降りる。
やがて、傍らの側近が静かに顎を引き、面会時間の終了を告げた。
あたしたちは促されるままに立ち上がり、部屋を出る。扉が閉まるその瞬間まで、背中に王様の重い視線を感じていた。
* * *
二人が去った後の部屋で、国王とゴードンは重苦しい沈黙を共有していた。
「……帝国はやはり、あの付近で何かを企んでいるようじゃな」
「ええ。いくら奴らが魔法探知に長けているとはいえ、アイラがあのエリアに近づいた途端、即座に警戒班が現れました」
ゴードンは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「魔獣の異常繁殖、そして意図的な南下……。おそらく、奴らは何らかの実験を行っています」
「いずれ、増えた魔獣たちを山から解き放ち、このレガリアへなだれ込ませる……。その混乱に乗じて侵攻を開始する。そんなシナリオか」
王の推測に、ゴードンは沈黙した。
「帝国が魔獣を操る術を得たとすれば……それはセレスティアの地で何かを掘り起こした可能性もある。……均衡が崩れつつある、ということか」
王は低く呟いた。己に言い聞かせるように。
「レガリアはまだ戦の準備が整っておらぬ」
「断定はできません。ただ、すぐ北方に帝国という脅威が迫っている事実……警戒は怠れません」
王は静かに目を細めた。
「……滅びたはずの国が、動くか」
そして視線を上げる。
「……それとな、ゴードン」
王の声色が、ふと変わった。
「あの娘……アイラと言ったか。持っていたな」
「……はい?」
「胸元だ。服の下に隠していたが、微かな魔力の波動を感じた。あれは……かつてセレスティア王家が用いていた『蒼穹の石』の波長に似ておった」
ゴードンは息を呑んだ。
「あの石は、……。まさかな」
王は自嘲気味に首を振った。
「陛下?」
「いや、忘れてくれ。……だが、偶然にしては、出来すぎておる。時が動く匂いがする。……ゴードン、引き続き彼女たちを監視せよ。決して目を離すでないぞ」
* * *
その日の夕方。
ゴードンさんの自宅に戻ったあたしたちは、キッチンでエリーザさんの手伝いをしていた。
「あらあら、どうしたの? 二人とも、なんだか冴えない表情よ」
野菜を刻む手を止めて、エリーザさんが心配そうに覗き込んでくる。王宮での緊張が、まだ顔に残っていたのかもしれない。
「あ、いえ……その」
「ゴードンさんの仕事の、お手伝いをしてきて……ちょっと疲れちゃって」
特命調査官のことは秘密だ。あたしは言葉を濁した。
エリーザさんは「まあ、あの人の道楽に付き合わせたのね」と苦笑した。
「……あの、おばさん」
「なぁに?」
「いやー……ゴードンさんも奥さんも、どうしてあたしたちにこんなに親切にしてくれるのかなぁって」
ずっと気になっていたことだ。
身元も分からない、怪しいあたしたちを家に招き入れ、食事を与え、服まで用意してくれた。
「ふふ……」
エリーザさんは包丁を置き、遠い目をした。
「前に、娘が帰ってきたみたい、って言ったわよね。……実はね。あたしたちには娘がいたのよ」
「やっぱり……」
「今はどちらに?」
奏が尋ねると、エリーザさんは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「それがね……。森の中で、行方知らずになってしまったの」
「えっ……」
「……すみません、変なことを聞いてしまいました」
あたしたちが息を呑むと、彼女はかぶりを振った。
「いいのよ。あたしが話し始めたんだから」
彼女は手元の野菜を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……五年前だったかしら。アズライトの麓の森に、家族でピクニックに行ったの。……本当に、ちょっと目を離した隙だったわ」
「……」
「ほんの一瞬だったのよ。……それだけで、十分だった」
エリーザさんの手が、持っていた布巾をぎゅっと絞るように震えた。
「……右を見ればいいのか、左を見ればいいのかも分からなくて。喉が潰れるまで名前を叫んで……。そのあと、あの人と一緒に何日も、何日も……」
言葉が途切れ、彼女は視線を落とした。
誰も、何も言えなかった。
調理場に、シチューの煮える音だけが響く。
「あの人は、今でもあの時のことを悔いているわ。『俺がついていながら』って」
豪快で、強くて、自信に満ち溢れているゴードンさん。
その心の奥に、そんな深い傷があったなんて。
「年頃としては、生きていればちょうどあなたたちと同じくらい。……だから、あの人は、あなたたちに娘を重ねて見ているんじゃないかしら」
エリーザさんは、涙をこらえるように一度だけ強く瞬きをして、あたしたちに向き直った。
「……だからね。あの人、救えなかった分まで、誰かを守りたいのよ。……もちろん、私もね」
その言葉が、胸に突き刺さった。
あたしたちが森から生きて帰ってきたこと。それが、彼らにとってどれだけの意味を持っていたのか。
「ただいまー! 腹減ったぞー!」
玄関から、いつもの豪快な声が響いた。
何も知らないゴードンさんが、陽気に帰ってきたのだ。
「あ……」
玄関の声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが決壊した。
あたしはキッチンを飛び出した。
玄関で靴を脱いでいるゴードンさんの背中が、滲んで見える。
「あーん、ゴードンさぁぁん!」
「うおっ!? おいおい、どうしたアイラ!?」
あたしは勢いよくゴードンさんに抱きついた。
泥と汗、そして微かな古書の匂い。大きくて、温かい背中。
「よしよし、何か怖いことでもあったか? もう大丈夫だぞ」
ゴードンさんは困ったように笑いながら、大きな手であたしの頭を撫でてくれた。その不器用な優しさが、今はたまらなく嬉しくて、切なかった。
「……さあ、みんな。夕飯にしましょ。今日はあったかいシチューよ」
リビングの入り口で、エリーザさんが目を赤くしながら、それでも母のように微笑んでいた。




