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アイラの冒険 異世界からの帰還  作者: まさふじ
第1章 青き山脈の誓い

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第1話 路地裏から吹く風、青い石の導き

あたしがその「扉」を開けなかったのには、理由がある。


「……また、ある」


学校からの帰り道。茜色に染まる通学路の電柱の脇に、その路地裏は口を開けていた。三ヶ月前までは、ただのブロック塀だった場所だ。ある日突然、そこには空間ができていた。


薄暗く、カビ臭く、けれどどこか懐かしい古書の匂いが漂ってくる場所。奥には『セレスティア』と書かれた看板を掲げた古本屋が、ひっそりと佇んでいる。


クラスの友達に聞いても、「あそこはずっとブロック塀だよ」と笑われるだけだった。


あたしにしか見えない路地。あたしだけを呼んでいるような空間。


(一度入ったら出られなかったりするのかな)


普通なら、怖がって逃げ出すところだと思う。でも、あたし――アイラは、逃げることも、入ることもできずに、三ヶ月もの間、この場所の前で立ち尽くしていた。


「あたしには、未知の扉を自ら開く勇気なんて、これっぽっちもないんだから」


独り言をつぶやき、カバンの紐をギュッと握りしめる。今の生活に不満があるわけじゃない。お父さん、お母さんは優しいし、友達だっている。スマホがあれば退屈しないし、明日のテストの心配だってある。


平和で、平凡で、幸せな日常。


けれど、今日。季節が夏から秋へと変わろうとしている、この夕暮れに。


ふわり、と風が吹いた。


「――っ」


それは、アスファルトの熱気を含んだ生温かい風じゃない。もっと澄んだ、高い空から降りてきたような、涼やかな風。その風が、あたしの背中をそっと押した気がした。


『……待っているよ』


誰かの声が聞こえたわけじゃない。でも、胸の奥が騒いだ。まるで、迷子センターのアナウンスで名前を呼ばれた時のような、焦燥感と安堵感が入り混じった感覚。


「……行かなきゃ」


気づけば、足が動いていた。三ヶ月間ためらっていた境界線を、あたしはあっさりとまたいでいた。


路地裏に入ると、街の喧騒がフッと消えた。カランコロン、と乾いたベルの音を響かせ、古本屋のドアを開ける。中は埃っぽく、静かだった。店員の姿はない。本棚には、見たこともない言語で書かれた背表紙がびっしりと並んでいる。


あたしは吸い寄せられるように、店の中央にある台座へと歩み寄った。そこには、一冊だけ、表紙が見えるように置かれた本があった。


「綺麗な……絵」


革張りの表紙には、美しい肖像画が描かれていた。背景には、見たこともない青い山脈と、白亜の城。そして手前には、あたしと同じ年頃の少女が描かれている。輝くような金髪に、澄み渡るような青い瞳。


「これ……」


まるで、鏡を見ているようだった。あたしに似ている。でも、あたしじゃない。もっと気高くて、強くて、そしてどこか悲しげな――。


指先が、震えた。触れてはいけない気がした。けれど、触れなければ一生後悔する気もした。あたしは、そっとその表紙に指を伸ばした。


その瞬間。


「えっ!?」


視界が、青く染まった。本が発光したのではない。あたしの身体そのものが、光り輝いていた。足元の床が抜け落ちるような感覚。重力が消え、世界が反転する。


「う、そ……ちょっと、待って……!」


叫ぼうとした声は、音にならなかった。夕暮れの教室も、通い慣れた通学路も、すべてが光の彼方へ遠ざかっていく。意識が途切れる寸前、あたしは見た気がした。本の表紙の少女が、静かに微笑んだのを。


――おかえり。


 * * *


波の音が聞こえる。ザザァ……ザザァ……という、規則正しくて優しいリズム。


「ん……」


重いまぶたを持ち上げる。最初に目に入ったのは、空だった。けれど、それはあたしの知っている空じゃなかった。青が濃い。絵の具をぶちまけたような、鮮烈な群青色。そして、そこにある太陽は、日本で見るそれよりも少しだけ大きく、白銀に輝いていた。


「ここ、どこ……?」


身を起こすと、サラサラとした白い砂が手からこぼれ落ちた。目の前には、どこまでも広がる海。振り返れば、見たこともない植物が生い茂る森。夢? ううん、潮風の匂いも、砂の熱さも、リアルすぎる。


「スマホ……圏外、だよね。そもそも電源が入らない」


制服のスカートについた砂を払いながら、あたしは途方に暮れた。とにかく、人がいる場所を探さないと。


林を抜けると、視界が開けた。なだらかな丘陵地帯に、石と木で造られた小さな集落が見えた。あたしが近づくと、村の入り口で遊んでいた子供たちが、目を丸くして固まった。


「わあ……金色の髪だ!」 「お日様みたい!」 「おーい、長老さまー! 変なお姉ちゃんが来たー!」


「へ、変なお姉ちゃんって……」


苦笑いするあたしを出迎えてくれたのは、長いひげを蓄えた優しそうな老人――この村の長老だった。


ソルナ村、というらしい。長老に続いて歩く。「辺境の村」とは思えないほど、道は平らに整えられ、家々の庭先には手入れの行き届いた植栽がある。石造りの壁は継ぎ目が美しく、ただ住むためだけではなく、明らかに「美しさ」を意識して造られていた。


長老の家に着く。言葉が通じたことに安堵しつつ、あたしは事情を話した。日本という国から来たこと。気がついたら砂浜にいたこと。そして、家に帰りたいこと。長老は、深く頷きながら話を聞いてくれた。そして、囲炉裏の火を見つめながら口を開いた。


「ふむ、異界からの迷い人、か……。ここ数年、魔獣も増えている。魔法場が乱れておるのかもしれん」


(魔獣? 魔法?)


「魔獣……って、この世界には危険な生き物がいるんですか?」

「そうじゃ。だからこそお前さんのような丸腰の娘が一人で外を歩くのは危険じゃ」


魔法があるのなら、帰る魔法もあるかもしれない。あたしは肝心なことを聞き直した。


「それで、あの……帰る方法は、ありますか?」


すがるように聞くあたしに、長老は首を振った。


「……わしには分からん」


長老の言葉に、あたしの心はすとんと重くなった。 期待していたわけじゃない。でも、どこかで「魔法の力で一瞬で帰れるよ」なんて言葉を待っていたのかもしれない。


「そう、ですよね……。いきなりそんなことを言われても困りますよね」


力なく笑って、あたしは長老の家を出た。


 * * *


途方にくれていたあたしは、外の椅子に腰かけ、ぼーっとソルナ村を眺めていた。

そこへ長老もやってきた。


「……すまんな、力になれんで」

「……」


「綺麗な村ですね」


長老にそう漏らすと、彼は自慢げに目を細めた。


「ふふ……。そうじゃろう。この村には、かつて宮廷に仕えていた庭師や大工、職人たちが多く疎開しておる。国が荒れた時、彼らはその技術だけを携えて、この地へ逃げてきたのじゃ」


「宮廷……。そんなすごい人たちが?」


「左様。彼らの手にかかれば、岩だらけの荒野もこうして安らぎの地に変わる。……まあ、わしのような世捨て人の集まりじゃがな」


あたしは村の奥へと視線を巡らせた。そこで、家々の屋根の向こうに、ひときわ高くそびえる影を見つけた。


「あ……」


それは巨大な山脈だった。その色は、ただの岩山の色じゃない。空気そのものが青く透き通っているような、不思議な輝きを帯びている。


「あの山……お店にあった本にも描かれていた……」


あたしが呆然と呟くと、長老はハッとしたようにその山――アズライト山脈を見上げた。


「……そうじゃ、アズライト。あの青き山脈の向こうに、世俗を離れ、ことわりの深淵に住まうという御仁がおった」


長老の目が、遠い記憶を掘り起こすように鋭くなる。


「『伝説の賢者』。あらゆる世界の境界を識り、あらゆることわりを知る者。彼ならば……あるいは、お前さんの言う異界への道を知っておるかもしれん」


賢者。その言葉が、あたしの胸の中で小さな、けれど確かな熱を帯びた。


「そこへ行けば、帰れるかもしれないんですね」


あたしが即答すると、長老は心配そうに眉を寄せた。


「待ちなさい。あの山へ行くには、危険な魔獣が出る森を抜けねばならん。丸腰の娘さんが一人で行くなど、自殺行為じゃ」

「でも、じっとしてても帰れませんから」


あたしの決意が固いと見ると、長老はため息をつき、立ち上がった。


「ちょっと来なさい」


長老は再び家に戻ると、部屋の奥にある古い棚から、何かを取り出してくる。それは、古びたネックレスだった。革紐の先に、親指ほどの大きさの、透き通った青い石がついている。


「これを持っていきなさい。この辺りで採れる魔法石じゃ。多少の魔力は込められておる。お守り代わりにはなるじゃろう」

「えっ、そんな貴重なもの……」


あたしが遠慮しようと手を引っ込めると、長老が強引にそのネックレスをあたしの手に握らせた。


その瞬間だった。カッ、と青い石が内側から発光した。部屋の中が、まるで海の中にいるような青い光に満たされる。


「うわっ!?」

「な、なんと……!」


長老が目を見開き、震える声で言った。あたしの手のひらで、石は脈打つように、優しく、けれど力強く輝き続けている。まるで、ずっと会いたかった持ち主に、ようやく巡り会えたと喜んでいるように。


「これは……わしが持っていた時は、一度だって光ったことなどなかったのに」

「長老さま……?」


しばらくすると、青い光は収まった。


「……どうやら、お前さんは石に選ばれたようじゃな」


長老は、あたしの前に膝をつくような姿勢で、深く頭を下げた。


「持っていきなされ。その石には、かつての魔法国の紋章――『太陽と翼』が刻まれておる。きっと、お前さんを導いてくれるはずじゃ」


太陽と翼。石の表面には、確かに鳥が羽ばたくような意匠が彫り込まれていた。あたしはネックレスを首にかけた。石の冷たさが胸元に触れた瞬間、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


――大丈夫。根拠はないけれど、この石があれば、どこへだって行ける気がした。


あたしは、まだ見ぬ青い山の頂を見据えた。平凡な女子高生だったあたしの「冒険」が、そこから始まろうとしていた。



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