世界は俺を治そうとしている
怪物を斬ると、街は静かになる。
剣が肉を裂く感触は、もう覚えていない。
何百回と振るった刃は、骨を断つ手応えさえ失っていた。
黒い血が噴き、空気に溶け、赤い雨が降る。
人々はその雨に打たれながら、決まって同じ言葉を言う。
「もう大丈夫だ」
「英雄がいるから」
声の高さも、安堵の息遣いも、驚くほど似通っていた。
祈りの言葉さえ、誰かが書いた台本をなぞっているみたいに。
アベルは剣を下ろし、胸の奥に残る違和感から目を逸らした。
⸻
妹のミナは、戦いの前、妙に饒舌だった。
「ねえお兄ちゃん、戦争が終わったらさ」
「この村を出たいな。海を見てみたい」
いつもは怖がりで、怪物の話をすると耳を塞ぐくせに、
その日は未来の話ばかりした。
「お兄ちゃんがいるから、きっと大丈夫だよね?」
アベルは笑って頷いた。
それしか、できなかった。
その夜、怪物はあっけなかった。
剣を一振り。
歓声。
拍手。
振り返ったとき、ミナは笑っていた。
「強いね。やっぱり英雄だ」
それが、最後だった。
⸻
翌朝、ミナは村外れで見つかった。
胸を貫かれ、血は乾ききり、
顔だけが――あまりにも穏やかだった。
眠っているみたいに。
夢の続きを見ているみたいに。
アベルはその場に膝をついた。
喉が引きつり、息が詰まる。
泣こうとした。
叫ぼうとした。
でも、できなかった。
英雄は泣かない。
泣く前に、次の怪物が現れる。
誰かを守るために、悲しむ暇すら奪われる。
そのとき、初めて思った。
――俺は、守れなかったんじゃない。
――守ることしか、してこなかった。
⸻
それから、怪物が変わった。
逃げない。
無駄に吠えない。
アベルの動きを見て、待ち、囲む。
剣を振るえば、半拍遅れて避けられる。
踏み込めば、退路を塞がれる。
戦うたび、学習されている。
そして奇妙なことに、
アベルが戦場に現れない地域では、怪物の発生が減っていた。
嫌な考えが、胸に沈殿していく。
俺が来るから、現れているんじゃないのか。
⸻
地下研究施設に落ちたとき、
アベルはほとんど抵抗しなかった。
そこにいた男――ハルは、剣を見て目を伏せた。
「久しぶりだな、英雄」
彼も、かつて英雄だった。
守った村は、怪物に“適応”され、消えた。
「英雄は希望だ」
「だが希望は、世界を止める」
モニターに映る街は、整いすぎていた。
同じ家。
同じ服。
同じ祈り。
「危機がなければ、人は変わらない」
「変わらない存在は、世界にとっての異物だ」
ハルは言った。
「怪物は免疫反応だ。
世界が自分を守るために生み出した抗体」
数値が跳ね上がる。
「君は速すぎる。
守る速度も、依存させる速度も、壊す速度も」
アベルは、ミナの声を思い出していた。
「お兄ちゃんがいるから大丈夫」
その言葉が、刃みたいに胸を刺す。
⸻
施設が揺れる。
怪物たちが、静かに集まってくる。
剣を取れ、と身体が命じる。
斬れば終わる。
いつものように。
手が震えた。
指が痺れ、呼吸が浅くなる。
剣を握れば、また誰かが救われる。
そして、また誰かが未来を失う。
「……ごめんな」
誰に向けた言葉か、分からなかった。
膝が笑い、剣が床に落ちる。
金属音が、やけに大きく響いた。
怪物たちは、襲ってこなかった。
ただ、アベルを包み、地下深くへ導く。
逃げ場のない、隔離区画へ。
――病巣を閉じ込めるために。
そのとき、アベルは初めて、
ほんのわずかに安堵した。
もう、誰も守らなくていい。
⸻
翌日。
怪物は消え、英雄アベルの名も消えた。
人々は言う。
「平和になった」
地下深く。
剣を持たない英雄が、生きている。
世界は今日も、健康だった。




