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第二章商会乗っ取り編 第14話「丁稚の兄妹」

あらすじ

清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。

徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。

権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、

大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、

突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。

そこから成り上がる二人の物語。


流れ着いたローデン王国王都フィオレンツにて、

荷役として働き始めたドルゴンは才覚を発揮し、

遂にハルトマン商会の王都倉庫長として正社員に就任する。

その裏で、王宮の奥にあるという帰還の鍵を手に入れるために、

二人は商会乗っ取りに向けて動き出す。


主な登場人物

ドルゴン:清朝初期の権力者・摂政王

千姫:徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室 猫かぶりのお姫様

フカ:逃亡奴隷、ドルゴンにフカと名付けられる

河野:ドルゴンの部下となった日本人女性 人の醜聞を覗くことが生きがい


ハンス:ハルトマン商会倉庫の荷役の班長 粗暴な男


主な用語

ハルトマン商会:ドルゴン、フカが働いている商会

正社員:幹部

準社員:従業員

「丁稚の兄妹」


「ちわーす、ミカーヤです」


「サブちゃん、ご苦労様。

 あら、初めての子ね。可愛らしい顔しちゃって」


「ヨアンって言います。よろしくお願いします、ザサーエさん」


少年は、御用聞き先の夫人に向かって丁寧に頭を下げ、

慣れた手つきで配達の品を家の中へと運び込んだ。


「次の注文は、どうしましょうか?」


「ええと……酒二瓶、塩一袋、蝋燭二束をお願いするわ」


ヨアンは頷きながら、さりげなく家の奥へと視線を走らせた。

そこに、針を刺したままの針山と、縫いかけのシャツが置かれているのが目に入る。


「……ザサーエさん、糸は足りてますか?」


「そうそう、そろそろ買い足す必要があったわ。

 白糸も一巻、お願いするわ。

 ――あなた、お名前はなんだったかしら?」


「はい、ヨアンです」


「ヨアン君ね。また次もお願いするわ」


「まいどありがとうございました。また伺います」


玄関を出ると、背中に向けて向けられていた視線が、

ゆっくりと離れていくのを感じながら、ヨアンは通りへと足を運んだ。



店に戻ると、庭先から乾いた音が聞こえてきた。

少女が箒を動かし、砂利を掃き集めている。


「レーネ、俺も手伝うよ」


ヨアンは箒を取り、声をかけた。


「あ、お兄ちゃん。ありがとう」


「元気にやってるか?」


「うん。大丈夫だよ。エルナ姐さんも優しくしてくれているから」


「そうか……よかった」


ヨアンは、妹レーネの様子をじっと眺めた。

顔色、動き、声の調子――どこにも無理はない。

言葉に偽りがないことを確かめるように見てから、胸の内で静かに息をついた。


そのときだった。


「おい、何油売ってんだ!

 お前の仕事は庭掃除じゃないぞ!」


場を切り裂くような大きな声が響いた。


「はい、若旦那!今行きます!

 ……じゃあな、レーネ」


「うん、お兄ちゃん」


ヨアンは箒を戻し、足早にその場を離れた。

振り返ることはしなかった。


ヨアンは、親の借金の形として、年季奉公に出された少年だった。

妹のレーネと共に売られ、ミカーヤ商店という大店で働いている。


ヨアンは「サブ」と呼ばれる御用聞き。

レーネは「ヒンテン」と呼ばれる裏方。


兄妹は同じ店で働いてはいるが、

寝食はサブとヒンテンでそれぞれ別にされていた。

そのため、二人が顔を合わせられるのは、

レーネが雑用に出ているとき、

ヨアンがこうして、さりげなく手を貸す時ぐらいだった。



――翌朝。


朝の店は、いつもと同じように慌ただしかった。

人の行き交う音、木箱の擦れる音、呼び声が交錯する。


ヨアンは荷棚の前で足を止めた。

通り過ぎるはずだった視線が、自然と棚に縫い止められる。

無意識のまま、頭の中で数を追っていた。


(塩の袋は、まだ十六袋残っている。

 蝋燭の箱は……あと一箱と、束が二つ。十二束しかない……減りが早すぎる。

 ……そうか、先日の嵐だ。

 みんな不安がって、蝋燭をたくさん使ってしまったんだ。

 塩は、この分なら一週間は持つ。

 でも蝋燭は……明後日には切れてしまう)


指先が、無意識に棚板をなぞった。


ヨアンは踵を返し、番頭のもとへ駆け寄った。


「番頭さん――あの、今日は塩の配達日ですよね」


「そうだが?」


「蝋燭の在庫、足りますか?」


番頭は怪訝そうな顔で棚を見渡し、

次の瞬間、眉を寄せて足を止めた。


「……まずいな。

 蝋燭が、もうほとんどないじゃないか」


「塩は余ってます。

 でも蝋燭は、このままだと二日で切れます。

 今日は塩じゃなくて、蝋燭を届けてもらった方がいいと思います」


番頭は口を閉ざし、しばらく考え込んだ末、額に手を当てた。


「だが……もう、今日の便は決まってる」


ヨアンは、一歩前に出た。


「俺、行ってきます。

 今なら、まだ積み込み前かもしれません」


「ちょっと待て、ヨアン」


だが、その声が背中に届く前に、

ヨアンはもう店を飛び出していた。



ハルトマン商会の倉庫は、朝のざわめきに包まれていた。

馬の鼻息、車輪の軋み、荷役たちの掛け声。


馬車の前では、荷役たちが最後の確認をしている。


「ミカーヤです!」


ヨアンが声を張り上げると、

ひげ面の男が振り向いた。


「おう、ミカーヤ商店さんか。

 今日の荷は、もう出るところだが、どうした?」


「すみません。今日の荷物なんですが……

 塩じゃなくて、蝋燭を四十箱に変えてもらえませんか」


「はあ?」


男は、あからさまに眉をひそめた。


「何勝手なこと言ってんだ。

 もう積み込んじまったんだぞ」


「そこを、なんとかお願いします」


「無理だ無理だ。

 おい、行くぞ。

 小僧、どかねえと轢いちまうぞ」


馬が動きかける。


「ああ、ちょっと待って!」


そのときだった。


「ハンス――どうした」


低く、よく通る声が倉庫に響いた。

荷役たちが一斉に振り向く。


「ドルゴンさん。

 勝手なこと言う変なガキがいまして……

 ミカーヤ商店さんの使い走りみたいなんですが」


ヨアンは、反射的に背筋を伸ばし、

ドルゴンに向かって深く頭を下げた。


「すみません。

 今日の荷物ですが、塩ではなく、蝋燭四十箱に変えてもらえませんか」


ドルゴンは、ヨアンをじっと見た。

値踏みするような視線が、上から下までなぞる。


「急な話だ。

 その変更について、店の者の許可は取っているのか?」


ヨアンは、はっとして言葉を失った。


「……取ってません。ですが……」


「はあ?

 ガキの思い付きかよ!」


「こっちは忙しいんだ。

 もう行っちまおうぜ」


荷役たちがざわつく。


ドルゴンは手を上げ、その場を制した。


「続けろ」


ヨアンは一度、深く息を吸った。

胸の奥のざわめきを、言葉と一緒に整える。


「塩は、今店に十六袋在庫があります。

 売れ行きから見て、一週間はもちます。

 でも蝋燭は、先日の嵐で急にお客さんが使ってしまって、残り十二束です。

 このままだと、二日で切れてしまいます」


具体的な数字を口にするにつれ、

ヨアンの声は、わずかに落ち着きを取り戻していった。


「だから、今は塩じゃなくて、蝋燭が必要なんです」


ドルゴンは腕を組んだ。


「言っていることはもっともだ。

 だが、それはミカーヤ商店さんの事情だな。

 我々が積み替える利点にはならない」


試すような口調で、ヨアンの目を見据える。


ヨアンは、もう一度息を整えた。


「……おっしゃる通りです。

 ですが、この話は、ハルトマン商会さんの利益でもあります」


「ほう」


「うちと商会さんの契約は、

 『年間契約で、配送料は商会さんの負担』……そう聞いています。

 だから、配送の回数が少ないほど、商会さんの利益になります」


ヨアンは馬車を指さした。


「今、このまま出ると、

 蝋燭を今日、急ぎでもう一度運ぶことになります。

 二回配送です。

 でも、今ここで積み替えれば、配送は一回で済みます」


一拍、置いてから続けた。


「積み替えは手間です。

 でも、運送が一回で済むなら、商会さんにとっては得です。

 俺も、積み替えを手伝います」


しばしの沈黙。


やがて、ドルゴンは口元だけで笑った。


「……理は通っているな」


振り返り、荷役たちに声をかける。


「おい、積み替えだ。

 今やれば、今日は残業せずに済むぞ」


荷役たちが顔を見合わせ、

やがて黙って動き出した。


塩の袋が下ろされ、

蝋燭の箱が次々と積まれていく。


手伝おうと駆け出したヨアンを、

ドルゴンは呼び止めた。


「お前、名前は?」


「ヨアンです」


「覚えておこう」


それだけ言うと、

ドルゴンは倉庫の奥へと歩いていった。


ヨアンは積み替えの作業を手伝いながら、

胸の奥が、ほんの少しだけ熱を帯びているのを感じていた。


ヨアンが勝手に行動したことは、

結果的に在庫切れを防いだということで、問題視されなかった。


商会の人に、名前を覚えてもらえた。

それは、少年にとっての、小さな勲章だった。



暫く後、ヨアンは忙しい繁華街の飲食店への御用聞きに回された。

昼夜の境が曖昧な通り。

呼び声と笑い声、皿のぶつかる音が重なり、足を止める暇もない。


――そして、ある日。


「ちわーす、ミカーヤです」


「サブちゃん、ご苦労様。

 あら、若旦那、ご無沙汰ね」


「ザサーエさん、お世話になります」


ミカーヤ商店の若旦那、ルーカスは、

定期的に御贔屓の家々へ、自ら御用聞きに赴いていた。

顔を覚えてもらうため。

店の評判を探るため。

そして、自分の目で確かめるために。


「次の注文は、どうしましょうか?」


「ええと……酒二瓶、豆一袋、あと白糸一巻をお願いするわ。

 糸が切れちゃって、困ってるのよ。

 こういうの、ヨアン君なら切れる前に気づいてくれるんだけどね……」


言葉の最後が、少しだけ宙に残る。


「ねえ、若旦那。

 サブちゃんを、またヨアン君に変えてもらえないかしら?」


一瞬、ルーカスの指先が止まった。

だが、すぐに表情を整える。


「それは……こちらの勉強が足らず、ご不便をおかけしました。

 あいつ、いえ……ヨアンについては、持ち回りをまた見直させていただきます」


ルーカスは深々と頭を下げた。

床に落ちた視線の先で、影が揺れる。


「ヨアンなら……」


「ヨアンがよかった……」


「ヨアンに戻してほしい……」


その後、ルーカスが回った家々から聞こえてきたのは、

ヨアンへの賞賛と、

ヨアンから交代したサブへの不満の声だった。


その度に、ルーカスは同じように頭を下げた。

一軒、また一軒と。


(……あいつ、勝手なことをやりすぎだ)


胸の奥に、黒いものが沈殿していく。

気づかないふりをしても、

言葉を重ねるたびに、それは確かに形を持ち始めていた。


店に戻ると、

ルーカスはヨアンの姿を見つけ、足を止めることなく迫った。


「おい、お前。

 何勝手なことをやってるんだよ!」


「え……若旦那。

 俺、何かやっちゃいましたか?」


突然の剣幕に、ヨアンの肩がわずかに強張る。

心当たりがないからこそ、言葉が遅れる。


「とにかく……もっと周りをよく見ろ!」


ルーカスはそう吐き捨て、

ヨアンの胸を小突いて、そのまま立ち去った。


「なんだよ、ルーカスの奴。いきなり怒りやがって……」


その様子を見ていたマルクが、鼻で息を吐く。


「おい、ヨアン。気にすんな。

 若旦那はな、お前が良くできるから嫉妬してんだよ。ありゃ」


「……マルク兄さん」


サブの番長格であるマルクの言葉は、

確かに慰めだった。


だが、

ヨアンの胸の奥には、小さなしこりが残ったままだった。



(若旦那が厳しいのは……

 俺の働きぶりが足りないからだ)


そう考えたヨアンは、

ルーカスとの一件以来、さらに気を張って仕事に取り組んだ。


一歩早く動く。

一声多くかける。

先回りして考える。


だが――


「おい!

 お前、いいかげんにしろ!

 何も良くなっていないじゃないか!」


ルーカスは、前よりも強い口調で詰め寄った。


「え……俺……ダメですか?

 いったい、どうすれば……」


「……とにかく、周りをよく見て、

 よく考えて動けよ……」


(……まだ、足りないのか)


ヨアンは唇を噛み、

何も言わずに頷いた。


それから、

ヨアンはさらに働いた。


だが、

その目の下には、次第に影が溜まり、

瞬きの回数が増えていった。


「ルーカス。

 最近、お前、ヨアンに厳しすぎやしないか」


ある日、店長が声をかけた。


「最近じゃ、こっちが心配になるくらい、

 根詰めて働いているって聞くぞ。

 いったい、何が気に食わないんだ?」


「親父……」


ルーカスは一度、視線を逸らし、

それから、吐き出すように言った。


「あいつ……ヨアンは、確かに優秀だよ。

 悔しいが、俺なんかより、よっぽどできる」


拳が、知らずに握られる。


「でもさ、あいつが抜けた後、

 御贔屓さんが何て言ってると思う。

 『ヨアンがよかった』

 『ヨアンに戻してくれ』

 そればっかりだ」


声が、少し荒くなる。


「うちは、あいつ一人で商売をやってるんじゃない。

 あいつが頑張りすぎて、他のサブたちは立つ瀬がない。

 ……あいつは、働きすぎなんだよ」


「……ふぅ」


店長は、深く息を吐いた。


「そこまで分かっているなら、

 もう少し言い方を工夫してやれないのか」


「知ってるだろ。

 俺があいつと折り合いが悪いこと」


ルーカスは肩をすくめた。


「俺だって、冷静に伝えようとしてる。

 ……だけど、あいつの前に立つと、

 むかっ腹が立っちまうんだ」


一拍、間を置く。


「それにさ、俺からも親父からも、

 他のサブやヒンテンの手前、

 『頑張るな』なんて、立場上言えないだろ」


吐き捨てるように、続けた。


「このままあいつが気づかないなら……

 いっそ、あいつを家の跡取りにでもすればいいのさ」


「……全く。

 なんてことを言うんだ、お前は」


店長は額に手を当て、首を振った。


「やれやれ……これは、難儀なことだ」


絡まりきった事態を前に、

店長は、重く頭を抱えた。



――ヨアンは、繁華街で配送を終え、積み上げられた木箱の上に腰を下ろして耽っていた。

行き交う人の声や、遠くの笑い声は耳に入っているはずなのに、

その目には、どこか焦点の合わない暗さが籠っていた。


「こんなところで、何をしているんだ?」


背後から声がかかる。

ヨアンの肩が、わずかに揺れた。


近づいてくる影に、ヨアンは見覚えがあった。

顔を上げ、目を細める。


「あなたは……ドルゴンさん。

 ご無沙汰しております」


ヨアンは箱から下り、慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。


「暗い顔だな……。

 何かあったのか? ヨアン」


名を呼ばれた瞬間、

ヨアンの胸の奥が、じわりと熱を帯びた。

堰を切ったように、言葉が込み上げる。


「ドルゴンさん、俺……どうしたらいいですか?

 ……一生懸命働いて、働いて、働いて……

 それでも、『お前のやり方ではダメだ』って言われて……

 もう、どうしたらいいのかわからないんです」


言葉の最後は、かすれていた。


「教えても、それはお前を苦しめるだけだな」


ドルゴンは、静かに言った。


「……なあ、ヨアン。

 儂の元で、働かないか」


「俺の能力を……買ってくれるんですね……」


ヨアンは、思わず息を呑んだ。


「……うれしいですけど、

 俺、年季奉公なんです。

 それに妹もいるんで……置いていけません」


「ヨアン」


ドルゴンは一歩近づいた。


「お前がその気なら、

 お前を買ってやる。

 お前には、それだけの価値がある」


「だったら……」


ヨアンの声が震える。


「妹も一緒に、買ってくれませんか……

 一生のお願いです」


ヨアンは、その場で膝をついた。

乾いた土の感触が、膝へじかに伝わった。

それは、何も持っていない少年にできる、唯一の方法だった。


だが、ドルゴンは首を振った。


「ダメだ。

 儂が買うのは、お前だけだ」


はっきりとした声だった。


「妹は、お前が働いて金を稼ぎ、

 お前自身で、妹を買い戻すのだ」


「……っつ!!!」


頭を殴られたような衝撃が、ヨアンに響いた。

息が詰まり、言葉が出ない。


「今のまま、年季奉公を続けて、

 妹と共に一生貧しいままか。

 それとも、儂の元で金を稼ぎ、

 そこから抜け出すか。

 よく考えることだ」


二人の間に、沈黙が落ちた。

それは、ほんのわずかな時間だった。

だが、ヨアンには、とても長く感じられた。


そして――


「……俺、いきます」


ヨアンは顔を上げた。


「お金の稼ぎ方を、教えて下さい。

 あなたの元で金を稼ぎ、

 必ず、妹を買い戻します」


「……いいだろう」


ドルゴンは短く言った。


「荷物をまとめておけ」


そう言い残し、ドルゴンは踵を返した。

ヨアンは、その背中を見つめたまま、

しばらく立ち尽くしていた。



ヨアンが店に帰ってくると、

妹のレーネは水場で洗い物をしていた。

水音が、静かに響いている。


「レーネ、俺も手伝うよ」


ヨアンは声をかけ、

レーネの隣に腰を下ろした。


「あ、お兄ちゃん。おかえりなさい。

 最近、お仕事大変みたいだけど……大丈夫?」


「……うん。

 もう、大丈夫だ……」


それきり、ヨアンは多くを語らなかった。


……しばらく、並んで洗い物を続ける。

水に濡れた指先が、思うように動かなかった。


ヨアンは、レーネの横顔を見つめた。

だが、その姿を、直視し続けることができなかった。


「レーネ……

 元気でな」


そう言い残し、

ヨアンは店の奥へ駆けていった。


「……お兄ちゃん?」


普段と違う兄の様子に、

レーネはかすかな違和感を覚えた。

だが、首を振り、気を取り直して仕事を続けた。


――その夜。


ヨアンは、サブの番長格であるマルクを呼び出していた。


「なんだって?

 店を出ていく!?

 それ、本気なのか」


「本気です。

 俺の能力を買ってくれる人がいて、

 俺、その人の下で働きます」


「そんな……

 見ず知らずの人についていって、大丈夫なのか?」


「わかりません……

 でも、俺はそうしたいんです」


ヨアンの目は、真っすぐにマルクを見据えていた。

その視線の強さに、

マルクは言葉を失う。


「それで……

 マルク兄さんに、お願いがあるんです」


「……分かってる。

 一緒に来い」


――二人は中庭に身を隠した。


しばらくして、

奥から若い女性が姿を現した。


「マルク、いきなり夜中に呼び出して、何の用なの?

 こんなの見つかったら、大目玉だよ」


そう言いながら、

彼女はヨアンに気づき、目を丸くする。


「……あら、ヨアンじゃないか。

 どうしたのさ」


「エルナ姐さん……

 実は……」


ヨアンは、ヒンテンを締めているエルナに、あらましを伝えた。


エルナも、マルクと同じく、

最初は驚き、心配そうな顔をした。

だが、ヨアンの真剣な表情と、

それを見守るマルクの様子を見て、

その覚悟の重さを悟った。


「お二人には、レーネを見守っていて欲しいんです。

 俺、必ずレーネを迎えにきます」


そう言って、

ヨアンは深々と頭を下げた。


「ああ、任せておけ」


「あの子に変なこと言うやつがいたら、

 私たちが黙ってないからさ」


マルクとエルナは、目を合わせ、頷いた。


「ありがとうございます!!!」


ヨアンの目から、涙が溢れ、裾を濡らした。

慌てて顔をぬぐい、

改めて二人を見据える。


「……あと、もう一つお願いがあります……」



――数日後。


レーネは庭の掃き掃除をしていた。

中庭で洗い物を手伝ってもらってから、

兄の姿は目にしていなかった。


頻繁に会える兄ではなかった。

それでも、

これほど日が空いたことはない。


胸の奥に、ざわめきが広がる。


「あ、エルナ姐さん……

 あの、兄を見ませんでしたか?

 ここ数日、見かけていなくて……」


声をかけられたエルナは、

一瞬、息を呑んだ。


そして、意を決したように、

レーネの前に立つ。


「レーネ……

 いいかい。落ち着いて聞いてくれよ」


一拍、置いてから。


「ヨアンは……

 あんたの兄さんは、先日、買われていっちまったんだ。

 もう、この店にはいないんだよ」


その言葉を聞いた瞬間、

レーネの手から箒が滑り落ち、

乾いた音を立てて地面に転がった。


ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。

楽しんで頂けたら幸いです。


次回、2026/2/6 20時投稿予定

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