第二章商会乗っ取り編 第12話「商会長夫人カロリーネ墜ちる」
あらすじ
清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。
徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。
権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、
大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、
突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。
そこから成り上がる二人の物語。
流れ着いたローデン王国王都フィオレンツにて、
荷役として働き始めたドルゴンは才覚を発揮し、
遂にハルトマン商会の王都倉庫長として正社員に就任する。
その裏で、王宮の奥にあるという帰還の鍵を手に入れるために、
二人は商会乗っ取りに向けて動き出す。
主な登場人物
ドルゴン:清朝初期の権力者・摂政王
千姫:徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室 猫かぶりのお姫様
フカ:逃亡奴隷、ドルゴンにフカと名付けられる
ラインホルト:ハルトマン商会倉庫長の正社員、ドルゴンの活躍で河港都市リューデンの商館長に就任
ミルガ:娼館の呼び込みにして、自称街の情報屋
主な用語
ハルトマン商会:ドルゴン、フカが働いている商会
正社員:幹部
準社員:従業員
「商会長夫人カロリーネ墜ちる」
「母さん、商会長の奥方様の名前はなんだったかなあ?」
「カロリーネ様よ。
ほら、教会に熱心な方」
「商会長には娘さんがいたよね?」
「娘さんはリリア様ね。
もう十三だったはず。
ほら、大奥様の葬儀の時にいらしたでしょう」
――ラインホルトとその夫人の会話。
「ハルトマン商会長の夫人はヴァルトベルク家の出だ。
ヴァルトベルク家は男爵家だが、今は勢いがない。
十年ほど前、娘たちをまとめて嫁に出していた。
ハルトマン商会長との縁組も、その流れの一つだろうな」
――情報屋ミルガの調査内容。
◆
私は、没落貴族の娘だった。
没落貴族の娘が実家から期待される役目は、資産階級に嫁ぎ、跡取りを産むこと。
有力商会長の後妻という立場での結婚は、自分の意に沿うものではなかった。
ただ、商会長の妻として跡取りを設け、身に付けた教養で商会の差配に関われるようになるのだと、
嫁いだ当初の私は希望を抱いていたし、最初は夫も優しくしてくれていた。
だけど、嫁いで八年。
ついに期待していた子を授かることはなかった。
ここ三年は、夫から触れられることも稀になってしまった。
また、商会長夫人として私に与えられる役割も、極めて形式的なものに過ぎなかった。
毎週土曜日、商会の各部門長から届けられる週次の記録を、
ギルドの会合で不在にすることが多い夫に代わって受け取り、
それを渡すだけ。
私の意見が商会の経営に影響を与えることはなかった。
そして、夫と前妻との血のつながらない娘。
最初は、亡くなった前妻に代わり母親になろうと努めた。
だが、あの娘にとって私は、いつまで経っても他人に過ぎなかった。
最近では反抗的な態度が目立っている。
あの娘のためと思って用意した「お話し相手」は、嫌がらせを受けて次々に辞めていった。
数年後に控えた社交界への顔出しの準備も思うように進まず、
その非難の目は、母親である私に向けられる。
私の人生は、重く、暗く、停滞していた。
◆
「エーバーハルト、今週から倉庫長は、ラインホルトさんの後任の方でしたね?」
「はい、その通りでございます、奥様。
ドルゴン殿という異国の方でございます」
家宰のエーバーハルトが応じた。
「異国の出の者が、倉庫長の重任をうまく担えるのかしら……」
ハルトマン商会長夫人カロリーネは、不安の声を漏らした。
ほどなくして、倉庫長ドルゴンがハルトマン家を訪れた。
「失礼いたします。倉庫長ドルゴンが、今週の取引帳簿を持参いたしました」
ドルゴンは、変わった頭髪をしていた。
だが、その所作には一切の落ち度がなく、
その顔には自信が満ち、どこか独特の色気を帯びていた。
そしてその目は、逸らすことなくカロリーネを捉えていた。
「はい、確かに受け取りました、ドルゴンさん。
――おや、これは」
提出された書類の中に、これまで見かけたことのない資料があることに、カロリーネは気付いた。
「はい、奥様。取引内容を見やすいよう、取りまとめました」
「……分かりやすくまとめられています。
私が作るものより、よほど見やすい。
前任のラインホルトさん、いえ、他の部門長の方も、このようなものは作られませんでした」
「奥様も、このような取りまとめをなさっているのですか?」
「え、ええ。商会の役に立てばと思い、受け取った記録に目を通してまとめを書き出しているのです。
もっとも、それを受け取った夫が、どうしているかは分かりませんけれど……」
カロリーネの顔に、わずかな影が落ちた。
「奥様。決裁会議の折、商会長はよく手元の資料に目を落としておられます。
おそらく、あれは奥様の作られた資料ではないでしょうか。
……商会は、あなたによって支えられているのですね」
思いもよらぬ言葉を向けられ、カロリーネは体が急に熱くなるのを感じた。
「いえ……私が商会の運営に助言を求められることはありませんわ」
「だとしたら……とても残念なことです。
商会では、誰も奥様の素晴らしさに気付いていないとは」
それは、長年彼女が望みながら、耳にすることのできなかった言葉だった。
この男と、もっと話したい。
カロリーネの胸に、その衝動が満ちていく。
「あの……」
「ドルゴン殿、次の方がお待ちです。そろそろ……」
エーバーハルトが口を挟んだ。
「失礼いたしました。長居をしてしまいました。
奥様、これにて失礼いたします」
「ええ、ご苦労様でした、ドルゴンさん」
ドルゴンは退室した。
カロリーネの心には、彼への興味が消えずに残っていた。
次の土曜日が、待ち遠しくなった。
◆
――次の土曜日。
「商会は、もう少し人の余裕を考えるべきではないでしょうか」
カロリーネは、自身の持論をドルゴンに向けた。
「……さすがです、奥様。
そのような視点を持つ方は、
商会には誰もおりません」
しばしの沈黙の後、ドルゴンはそう答えた。
カロリーネは、会話のたびに心が満ちていく感覚を覚えた。
それは、彼女がこれまで一度も、夫から聞いたことのない言葉だった。
「私に指図しないで!」
「お嬢様、おやめください! 今、お客様がいらしております!」
「うるさいわよ!」
屋敷の奥から、甲高い叫び声が響いてきた。
「……お恥ずかしいところをお聞かせしてしまいました。
娘ですわ」
カロリーネは、恐縮した表情でドルゴンに向き直る。
「……年頃のお嬢様なのですね」
「ええ。もう少ししたら社交界に顔を出すというのに、心配ですわ」
「若い頃は、誰しも機嫌を損ねやすい時期がございます……
私にも、そのような頃がございました」
「まぁ、あなたにもそんな時があったのね」
カロリーネは思わず笑みを浮かべ、ドルゴンもそれに応えた。
二人の間には、温かな空気が芽生えたように見えた。
「では、奥様。私はこれにて失礼いたします」
「ええ、また次の土曜日に。ドルゴンさん」
カロリーネは笑顔で見送り、再び手元の資料に目を落とした。
そして、一枚の紙に書かれた文言に気付いた。
「次に安息の鐘が鳴るとき、
あなたの慈悲が最も静かに届く場所にて、
あなたの望むものが訪れることをお祈りします」
◆
その夜、カロリーネはその紙片を見つめていた。
(安息の鐘……土曜の昼の鐘のこと。
“あなたの慈悲”……教会を指しているのかしら……
そして、“望むもの”……私が今、最も望んでいるものは……)
「次の土曜日の昼過ぎに、教会でお待ちしています」
平凡な祈りの言葉に、そのような意味が隠されていることに気付き、
カロリーネは怯えた。
(なんてことを考えているのかしら。
商会の夫人として、それは決して踏み外してはいけないこと……
……だけど、ドルゴンさん。あの方といると、私の心は満たされる……)
期待と不安が入り混じり、カロリーネの心を揺らした。
◆
そして、次の土曜日。
「こちらが、今週の取引帳簿でございます」
「はい、確かに受け取りました……あの……」
「……奥様、これにて失礼いたします」
カロリーネの前に現れたドルゴンは、以前とは打って変わり、
そっけなく、形式的な態度に終始していた。
(……冷たい。
この前までの態度が、嘘のよう。
……私の考えを分かってくれる気がしたのに、勘違いだったのかしら)
カロリーネは、わずかに肩を落とした。
(……それでも、あの手紙の意味を確かめたい)
「エーバーハルト。お昼に馬車を手配してちょうだい。教会へ参ります」
◆
「今日は、少し長くお祈りをします。
あなたたちは、夕方にまた迎えに来なさい」
カロリーネは教会の前で、侍女と御者に告げた。
そして一人、重い扉を押し開ける。
(……果たして、あの方は待っていてくださるのかしら……)
胸の高鳴りを感じながら、身廊へと進む。
そこには誰もいなかった。
祈りの席も、告解室の前も静まり返っている。
足音ひとつ響かぬ空間に、彼女の期待だけが宙に残された。
――やはり、私の勘違いだったのだ。
胸の奥で、小さく落胆を感じる。
同時に、それと同じ重さの安堵が広がった。
道を踏み外さずに済んだ。
そう思えば、これは救いなのだろう。
カロリーネは膝をつき、静かに祈りを捧げた。
認められたいと願ったこと。
ドルゴンの言葉に心を揺らしたこと。
それらすべてを主に告げ、
邪な思いを抱いた自分を赦してほしいと、低く詫びた。
そのときだった。
背後で、石の床を踏む音がした。
ひとつ、またひとつ。
ゆっくりと近づく足音が、静寂を裂く。
彼女の影に、もう一つの影が重なった。
カロリーネは振り返った。
そこに立つ顔を見た瞬間、
彼女の表情からためらいが消え、
覚悟と諦観が溶け合った、静かな闇が宿った。
ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。
楽しんで頂けたら幸いです。
次回、2026/1/23 20時投稿予定




