第二章商会乗っ取り編 第11話「日本人女中河野信子」
あらすじ
清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。
徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。
権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、
大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、
突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。
そこから成り上がる二人の物語。
流れ着いたローデン王国王都フィオレンツにて、
荷役として働き始めたドルゴンは才覚を発揮し、
遂にハルトマン商会の王都倉庫長として正社員に就任する。
その裏で、王宮の奥にあるという帰還の鍵を手に入れるために、
二人は商会乗っ取りに向けて動き出す。
主な登場人物
ドルゴン:清朝初期の権力者・摂政王
千姫:徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室 猫かぶりのお姫様
フカ:逃亡奴隷、ドルゴンにフカと名付けられる
ラインホルト:ハルトマン商会倉庫長の正社員、ドルゴンの活躍で河港都市リューデンの商館長に就任
主な用語
ハルトマン商会:ドルゴン、フカが働いている商会
正社員:幹部
準社員:従業員
「日本人女中河野信子」
昭和三十年(西暦一九六〇年)某日
東京
頭に感じた灼熱だけは覚えている。
私は、あの時亡くなったのだろうか――女はそう思っていた。
だが気が付くと、見知らぬ街、見知らぬ顔立ち、見知らぬ言葉の中に女は身を置いていた。
不潔、喧噪、雑多さ……戦争が終わった後の闇市のようであった。
耐えがたいものであったが、空襲で焼き出されたときのことを思い出し、
女はそれよりもましだと思うことにした。
まずは、生きぬかねばならない。
女として使えるものは使い、必死に言葉を覚え、
ある上流階級の家の最下層の女中として潜り込み、
なんとか糊口を凌いだ。
しばらくして、掃除の出来があまりにも良いということで家の夫人に褒められ、
主人家族の部屋を専門に掃除する係として、
その女――河野信子は重宝されるようになっていた。
仕えた家は理想的な一家に見えた。
だがしばらくして、夫の不倫、愛人への過剰な貢物が夫人に露見し、
夫人は子供たちを連れて出ていき、一家は離散した。
外見から見て、この上なく幸せな家庭だと思っても、必ず不幸は存在している。
河野信子は、仕えた家の不幸を発見するのを生来の愉しみとしていた。
その光景を目の当たりにし、河野の悪癖はこの国でも目を覚ましていた。
二軒目に仕えた家でも、河野の腕は重宝された。
だが今回は露骨に悪癖が出てしまい、
それを咎められ、罰が及ぶことを恐れた河野はその家から逃げ出した。
そして三軒目。河野はラインホルトという家に入り込んだ。
前回の反省を踏まえ、表面上は真面目に仕えることに努めた。
だがその目は確実に、ラインホルト家の不幸を探し、好奇の色を宿していた。
ラインホルトは平凡な男であった。
商会に勤め堅実だが大きな成果はなく、出世は遅く、結婚は三十代後半になってから。
夫人には頭が上がらない。
そのくせ小さな子供たちがいるにも関わらず、
夫人は不貞を働き、ラインホルトは愛人を作り、
河野の尻にも手を伸ばす。
夫婦の間に愛情は冷え、ラインホルト家は崩壊寸前だった。
だが、ある時からラインホルトは急に成果を上げ、
その顔には自信が満ち溢れ始めた。
しばらくして、ラインホルトは部下を自宅に招いてきた。
部下たちの多くは懸命に媚びを売っていたが、
その中に、媚びを売るでもなく佇む、大柄で変な髪をした
東洋の顔立ちの男がいた。
王都でこの顔立ちは珍しいが、全く見かけないわけではない。
最初、河野はこの男に特別な関心を持たなかった。
だが饗食の提供で男の前に立ったとき、
男の視線が自分に向けられていることに気が付いた。
「倉庫長、あの女性は何者ですか」
「ああ、ドルゴン。あいつはコウノだ。
なかなか仕事ができる女中だよ……
ハハッ、同じ顔立ちで興味を持ったか」
男はドルゴンと言うらしい。
同じ東洋の顔立ちをした自分に興味を持ったのだろうか、と河野は考えた。
だがその視線は、自分の本性を見透かしているようでもあり、不気味だと感じた。
その後も何度かドルゴンは自宅を訪れ、
その不気味さは回数を重ねるほどに強まっていった。
数か月後――
ラインホルトは成果を上げ続け、
ついにはリューデンの新商館長に就任するという
法外な出世を成し遂げていた。
引っ越しの準備が進む中、
河野はラインホルトがドルゴンを自宅に招く場面を目撃する。
「ああ、ドルゴン君。
今度リューデンに移るにあたって、この家を君に借りてほしい。
新倉庫長として住むには申し分ない。
家賃は月銀貨二十枚。家具も残していく。どうだい?」
「そうですね……銀貨十八枚では?」
「抜け目ないね。いいだろう」
このやり取りを見て河野は確信した。
ラインホルトの栄転は、あの男によるものだと。
その夜、河野は暇を申し出た。
◆
「ではこれが、家の鍵だ。
これから、よろしく頼むよ。ドルゴン新倉庫長」
「たしかに受け取りました。
ラインホルト新商館長、ご達者で」
ドルゴンは邸宅の鍵を受け取り、
ラインホルトはそのまま新天地へ向けて旅立っていった。
出立していく一家の姿を見届けた後、
ドルゴンは新しい住居となる邸宅へ向かった。
そしてそこには、女が一人、待ち受けていた。
「お前は……ラインホルトの家で見たことがある顔だな。コウノと言ったか。
リューデンにはついて行かないのか」
「ラインホルト様には、暇を申し出ましたわ。
……ドルゴン様、私を雇っていただけませんか?
新しい邸宅には、女中が必要でございましょう?」
「お前は他人の醜聞を覗くのを好む習性があるな。
そういう者は、雇うに値しない」
「あら……確かに私めの品性は、卑しいのでございましょうね。
ですが、その力が今の貴方様には
きっと役立つものになりましょう」
河野の返答に、ドルゴンは唸った。
この者の心根は決して美しくはない。
だが――
商会を乗っ取り、この国で成り上がるには、
この女は間諜として用いる価値がある。
その計算が、瞬時に脳内で組み上がった。
「コウノ。
お前は役に立ちそうだな。
本当に、儂の配下になる覚悟があるのか?」
「はい、ございます。
なんなら……いくらでも覚悟を
お示しさせていただきますわ」
河野の目は、真っすぐにドルゴンを捉えていた。
「では、その覚悟を示してもらおうか」
そう言って、ドルゴンは邸宅の鍵を開けた。
二人は無言のまま、家の中へ入っていった。
「ダルガ」
数日後、ドルゴンは千姫とフカを伴い、
新しい邸宅へと越してきた。
「ここが……ダルガだ」
ドルゴンは新しい邸宅を、
自国の言葉でそう呼んでいた。
「おお……大きな屋敷じゃのう。
ドルゴンよ、この屋敷には個室があるのか?」
「ああ。
千姫は夫人の部屋を使ってくれ。
儂はラインホルトの部屋を使う。
フカは空き部屋を改装して使えばいい」
「兄貴、俺にも個室があるんすか!
よっしゃー!
……でも、離れ離れだとちょっと寂しくなるっすね」
「同じ屋根の下にいることとに変わりはせん
それに個室があれば伸び伸び過ごせるであろう」
「それも……そうっすね」
「個室、個室♪」
二人が上機嫌で邸宅に足を踏み入れると、
そこに見知らぬ女が立っていた。
途端に、声が止まる。
「お待ちしておりましたわ。
ご主人様方」
「……ドルゴン。
この者は?」
「紹介する。
この者はコウノ。今後、ダルガの管理を任せる。
コウノ、こちらが我が主、千姫様である。
そして古参の部下、フカだ」
「心得ました。ドルゴン様。
コウノと申します。
千姫様、フカさん。
不束者ではございますが、
これからよろしくお願いいたします」
「……千姫じゃ」
「……フカっす」
河野と千姫、フカの間に、
糸を張ったような空気が流れる。
(センヒメ……ね。
昔、講談で聞いた名のような……
顔立ちも、日本人に近いわ……)
河野は澄ました顔で佇んでいたが、
内心では、いくつもの思惑が交錯していた。
「……のう。
お主、コウノと言ったか」
「はい、千姫様。何でございましょう?」
「お主、生国は?
もしや、ヒノモトから来たのか?」
ヒノモト――日ノ本、日本。
その言葉に、河野の耳は強く反応した。
(……この小娘、日本から来ているのね。
けれど……雰囲気が違う。
私の知る“日本人”とは)
一瞬の葛藤。
だがすぐに、河野は心を固めた。
この国では、弱みを見せた者から喰われる。
「いえ……存じませんわ。
私は遥か東の、東京という所から参りました」
「トキョ……知らぬ国じゃ」
「遠き地にございますわ」
千姫は東京を知らない。
河野の中に、同胞意識は芽生えなかった。
ならば――秘密は伏せるべきだ。
二人の間に、はっきりとした線が引かれた。
◆
「こちらは、客間でございますわ」
しばらくして、河野による屋敷の案内が始まった。
「ほう……この部屋は何じゃ?」
「こちらは……
以前、ラインホルトご夫妻の寝室でございました」
「では、妾とドルゴンの寝室になるのかのぅ?」
千姫は、艶のこもった視線をドルゴンへ投げる。
「せっかく個室がある。
これまでのように、同じ間で寝る必要もあるまい」
ドルゴンは、河野に目配せした。
「はい。
書斎と夫人用のお部屋に、
それぞれ寝台を用意してございますわ」
「ほほっ。冗談じゃ」
(……あの二人、何かあるようじゃのう)
千姫は笑っていたが、その声は乾いていた。
「千姫様。
お部屋を回ってお疲れでしょう。
風呂桶に湯を張っております。
汗を流されてはいかがでございますか?」
「なぬっ!?
湯あみじゃと!」
「はい、ぜひお入りくださいませ」
河野の提案に、千姫は大きく反応した。
この国に来てから、
温かい湯に浸かったことはなかったのだ。
「……そこまで言うなら、
しかたない」
◆
「ああ……よい心地であった。
コウノよ、大義であった」
湯を浴び、洗濯された衣に着替えた千姫は、
すっかり緩んだ表情をしていた。
改めて見渡すと、ダルガは恐ろしく清潔だった。
千姫がかつて過ごした大坂城の部屋よりも、
なお清いと言ってよいほどである。
「千姫様。
これからお食事の準備をいたします。
お部屋でおくつろぎくださいませ」
部屋に入ると、寝台が置かれていた。
清潔で、心地よさそうな寝具が整えられている。
「……なんと、これは……」
千姫はそっと触れ、
そのまま耐えきれず寝台へ潜り込んだ。
そしてあまりの心地よさに、
うたた寝に落ちていった。
(コウノ……
怪しげな女ではあるが……
働きぶりは、文句がないのう)
まどろみの中で、
千姫の脳裏にそんな思いが浮かんでいた。
ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。
楽しんで頂けたら幸いです。
次回、2026/1/16 20時投稿予定




