第一章ボロ屋編 第1話「摂政王流転す」
あらすじ
清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。
徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。
権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、
大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、
突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。
そこから成り上がる二人の物語。
プロローグ「魔王と魔女」
ローデン王国の王都フィオレンツは、その夜、青い光に染め上げられていた。
王宮の大広間には、深い藍をまとった天蓋とタペストリーが張り巡らされ、
灯された無数の燭台の炎が、その青を揺らめかせるたびに、
まるで海の底から星空を仰ぎ見ているかのような錯覚を生んでいた。
その中央、高座に並んで座る女の衣だけが、
誰よりも鮮烈な青を宿している。
絹のドレスは夜空のように深く、裾に散らされた刺繍は星のように光り、
この時代ではそうそう見られぬ色彩が、
あたかも彼女一人のために用意されたかのように輝いていた。
彼女の隣に座る男は、威風堂々たる姿で人々を圧していた。
一歩踏み出せば空気が揺れ、
視線を向ければ貴族の背筋がすっと伸びる。
声を発せば、命じられてもいない者まで膝を折る。
この夜会はただの饗宴ではない。
莫大な富と権力が、いま誰の手の内にあるのかを、
王都中に見せつけるための儀式だった。
――ドルゴンと千姫。
表向き、誰も彼らを名指しではそう呼ばない。
礼儀正しく肩書きで呼び、微笑みながら忠誠を誓う。
だが、杯を傾ける貴族たちのあいだで、
声をひそめて囁かれる呼び名は別だった。
「魔王」
「魔女」
王家をも手玉に取り、
商会も軍も官僚も意のままに動かす二人への、
羨望と恐怖と憎悪が入り混じった蔑称である。
いまやローデン王国の財政も軍事も交易も、
その多くがこの男女の決裁一つで動く。
高座から見下ろす彼らの視線一つで、
ある家は没落し、別の家は栄える。
二人が、別の世界から流れ着いたことなど、
この夜会に集う誰ひとりとして知らない。
「摂政王流転す」
順治七年十二月二十一日(西暦一六五〇年十二月三十一日)
現在の北京郊外、西山。
冬の陽は低く、鋭い光で山腹を照らしていた。
雪こそ少ないが、大地は霜で白く、澄みきった冷気が張りつめている。
木立の向こうから、角笛と銅鑼の音が重なって響いた。
「来るぞ!」
「一頭参ります!!」
追い立て役の叫びが山肌に反響する。
藪が激しく揺れ、黒い影が飛び出した。
「おお……でかいぞ……!」
「何と立派な角……!」
ざわめきに包まれながら、厚い毛並みの大きな牡鹿が斜面を駆け下りてくる。
その姿はまるで山の王であった。
「こいつは、儂がやる。」
男はただ一言だけ告げ、馬腹を軽く蹴る。
馬は雪を散らしながら加速し、男は揺れる鞍の上から迷いなく弦を引いた。
矢羽が冬の空気を裂く。
――ドンッ。
牡鹿は数歩進んだのち、そのまま大地へ崩れ落ちた。
「見事にございます、摂政王様!」
周囲の臣下が歓声を上げる。
男は倒れた牡鹿のそばに立ち、しばし、その黒い瞳を見つめた。
「……まるで鹿の王だ。
これほどの獲物なら、陛下もお喜びになろう。」
「まことにその通りでございます! さすがは摂政王!」
冬の空気を震わせる銅鑼の余韻が尾を引く。
――次の瞬間。
視界が揺らぎ、山の輪郭が溶けるように滲んだ。
(……む?)
強烈な眩暈。
世界がねじれ、上下が分からなくなる。
「摂政王!? しっかりお掴まりを!!」
「殿下!!」
叫びが遠のく。
馬上で体勢を崩し――落ちた。
冷たい霜の感触が、ふっと消える。
音も光も、吸い込まれるように薄れていった。
……気がつくと、
鼻先にあるのは霜ではなく、柔らかな土の匂いだった。
(……気を失っていたのか? 儂は、狩りをしていたはず……)
肩がじんと痛む。馬から落ちた衝撃の名残だろう。
だが、もう霜の冷たさはない。
手を伸ばす。
弓はない。背負っていた矢筒も消えていた。
残っているのは腰の短刀だけ。
周囲を見渡す。
山林ではある。だが――。
「アルグン!」
愛馬の名を呼ぶ。
返事はない。蹄音すら響かない。
「誰かおらぬか! ジルガ! ハイダ! ボド!」
家臣の名を次々に叫ぶ。
声だけが森の奥へ虚しく吸い込まれていく。
名を呼ばれた者たちの影は、どこにもなかった。
(……ここはどこだ)
同じ森のようでいて、決定的に違う。
京城(北京)郊外の冬の山林の鋭い冷気がない。
大気の重さも匂いも、まるで異なる。
胸に、得体の知れぬ違和感が走った。
……その後、どれほど森をさまよったのか分からない。
わずかに見つけた木の実を噛み、草の汁をすすり、
朝露を舐めて凌ぐ日々。
限界は近かった。
意識は朦朧とし、身体は憔悴しきっていた。
世界が薄れ、視界が暗く、重く沈んでいく。
(……ここで、死ぬのか……)
思考が途切れ、男の意識は闇に落ちた。
「奴隷の男」
「……くそっ、しくった。」
雪が解けた頃合いを見て、あのクソみたいな工房から逃げ出した。
そこまでは良かった。
だが、その先のことなんざ何も考えちゃいなかった。
ただ――逃げたかった。それだけだ。
森の中をあてもなくさまよって、
やっと人影を見つけて声をかけたんだが……
よりによって、一番会いたくねえ連中だった。
人攫い。
奴らに捕まったら、どうなるかなんて考えるまでもねえ。
俺の人生はまた真っ暗闇に逆戻りだ。
縄で縛られ、奴らの汚ねえ天幕に引きずり込まれる。
そこにはすでに何人か捕まってるやつらがいた。
「……獣人のガキどもか。」
犬族か猫族か、熊族か……そんな毛の生えた子供が五人。
怯えて縮こまってやがる。
それから――人間の男が一人。
やけにデカい。それに変な髪(辮髪)をしてやがる。
上半身はひん剥かれて、頭を垂れたまま動かねぇ。
俺はガキどもと一緒に木に括られ、縄をかけられた。
「おい、あんた……運が悪かったな。」
声をかけてみたが、男はまるで反応しねぇ。
死人みてえに動かない。
夜が深まるにつれ、人攫いどもは“獲物”をたっぷり捕まえて上機嫌。
焚き火の前で酒盛りを始めやがった。
「おい、傷つけんなよ。値が下がんだろ!狼族の娘はとびきり高く売れるんだ!」
「へいへい、分かってらぁ!」
奴らは下卑た笑いを上げながら、
狼族と言われた娘を無理やり傍に侍らせて体を触ってやがる。
娘は歯を食いしばって、ただ耐えていた。
そんな地獄みてぇな光景の中で、そいつ――
あの大男が、ふっと立ち上がった。
音もなく、人攫いらへ近づく。
次の瞬間だった。
――ドガッ!
男の足が、大柄な人攫いの背中を蹴り飛ばした。
そこから先は、何が起きたか分からねえ。
男は両手を縛られてたはずなのに、
人攫いの三人は、気づけば全員倒れて動かなくなっていた。
呆気にとられていると、
男は奴らの荷物を漁り、水袋を見つけて喉に流し込む。
それから娘に近づき、何かをしてやった。
(俺には見えなかったが、多分縄を解いてやったんだろう。)
そして短刀を握りしめたまま、俺たちの方へ戻ってきた。
その殺気――
生きてきて、一度も感じたことがないほどの“死の匂い”だった。
ガキどもなんか毛を逆立てて震えてた。
男は迷いなくガキどもの縄と手枷を次々に切り、
俺の縄もほどいた。
解かれた瞬間、ガキどもは一目散に森へ逃げていった。
あぁ、娘だけは、一度だけ振り返り、男に頭を下げて走り去ったな。
男は小さく何かを呟いた。
「礼もなしか」みたいな、そんな感じの言葉のように聞こえた。
気づけば、その場に残ったのは俺と男だけ。
「……殺したのか?」
恐る恐る聞いたが、男は何も答えねぇ。
焚き火のそばに戻って、また荷物を漁ってる。
そこから、汚れてはいるがやけに上等な上着と帽子を取り出した。
どうやら、男自身の服らしい。奴らに奪われてたんだろう。
男は人攫いたちのボロ服を今度は逆にひん剥き、裸の男たちを暗闇に放り捨てていった。
妙に落ち着いていて……まるでそういう世界にいた人間みたいだった。
火にあたり始めた男のそばへ、俺も恐る恐る近づいた。
さっきの殺気は、もう消えていた。
奪った食い物を差し出され、俺は無言でそれを受け取った。
「……ここはどこだ?」
「……お前は……?」
男が何か言っているが、言葉がちっとも分からねえ。
聞いたことのねぇ音だった。
この国の言葉じゃない。
「……ドルゴン。」
身振りで、自分の名らしきものを示している。
どうやら“ドルゴン”と言うらしい。
そして俺の名前を聞いてくる。
「……無い。
俺の名前はない。捨てたんだ。」
「無い?……おまえの名前は“無い”というのか?」
いや違う、そうじゃねえ。
何度かやり取りしていると、ようやく伝わったらしい。
男――ドルゴンは、じっと俺を見てこう言った。
「名前が無いなら付けてやろう。
……そうだな、お前は肌が黒い。
なら“フカ”だ。
儂の国の言葉で“黒い”という意味だ。
黒は、何物にも染まらぬ色だ。」
言葉の意味は分からねぇ。
ただ、悪い響きじゃなかった。
“フカ”――悪くねえ。
新しい人生を始めるなら、良い名だと思った。
話してる途中で、眠気が急に押し寄せてきた。
まぶたが落ちる直前、
ドルゴンが何か言った気がする。
「行く当てがないなら、儂についてこい。
……いい思いをさせてやる。」
そんな風に聞こえた。
焚き火の温かさの中で――
俺は久しぶりに、深い眠りに落ちた。
ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。
楽しんで頂けたら幸いです。




