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喫煙

作者: 霜月希侑
掲載日:2025/10/19

 街の片隅、薄暗い路地の奥にある小さな喫茶店のカウンター席で、彼女はいつも彼の隣に座っていた。窓の外では、秋の風が枯葉を巻き上げ、まるで煙のように不規則に舞っていた。店内の空気は、タバコの煙とコーヒーの香りが混ざり合い、どこか懐かしく、どこか息苦しい。彼女、優花は、彼、悠真の吐き出す煙をそっと目で追いながら、肺の奥にその匂いを刻み込むように深く息を吸った。


「大嫌いだよ、この臭い」と、優花は小さく呟いた。声は軽く、まるで冗談のように響いたが、その言葉の裏には、どこか切実なものが潜んでいた。悠真は煙を吐き出しながら、片方の眉をわずかに上げ、彼女をちらりと見た。


「嫌いなら離れりゃいいじゃん」と、彼は笑いながら言った。だがその笑顔には、どこか試すような、彼女の心を覗き込むような色が混じっていた。


優花は答えず、ただ彼の横顔を見つめた。悠真の指の間では、タバコが赤く小さく燃え、灰が静かにカウンターの灰皿に落ちていく。彼女はその一連の動きを、まるで神聖な儀式のように見つめていた。煙は彼の一部だった。細く、儚く、しかし確実にそこに存在するもの。彼女はそれを吸い込むたびに、彼と自分が少しずつ混ざり合っていくような錯覚に陥った。


二人は高校時代からの付き合いだった。悠真は当時からタバコを吸っていた。校舎の裏、誰も来ない階段の踊り場で、彼はいつも煙を吐きながら空を見ていた。優花はその姿に、理由もなく惹かれた。タバコの匂いは嫌いだった。なのに、なぜかその煙の中にいる彼を愛さずにはいられなかった。彼女はよく、煙草が彼の命を縮めるという話を耳にした。医者の父がそう言っていたし、テレビやポスターでも警告されていた。でも、優花は思うのだ。もし彼の命が縮むなら、私も一緒に縮めたい、と。彼より後に死にたくない、と。


喫茶店のカウンターには、古いラジオが置かれ、かすれた音で昭和の歌謡曲が流れていた。店員は奥で新聞を読み、客はまばらで、時折カップの触れ合う音だけが静寂を破った。悠真はタバコを灰皿に押し付け、新しい一本に火をつけた。優花はその動作をじっと見つめながら、ふと口を開いた。


「ねえ、悠真。タバコ、やめないの?」


彼は一瞬動きを止め、彼女の顔を見た。煙がゆっくりと天井に向かって昇っていく。悠真の目には、どこか遠いものを見るような光があった。


「やめようかな、って思うこともあるよ。でもさ、これがないと俺、なんか落ち着かなくて」彼はそう言って、煙を吐き出した。その煙は、まるで彼の心の輪郭を描くように、ゆっくりと広がり、消えた。


優花は黙って頷いた。彼女にはわかっていた。タバコは彼にとって、ただの習慣以上のものだった。それは彼の不安や孤独、言葉にできない何かを形にする手段だった。彼女もまた、言葉にできないものを抱えていた。悠真への愛、煙への嫌悪、そしてその二つが絡み合う複雑な感情。彼女は彼の煙を吸い込むたびに、自分が彼の一部になるような気がした。煙は彼の吐息であり、彼の存在そのものだった。


ある日、優花は喫茶店で待っていたが、悠真はなかなか現れなかった。いつもなら、彼は遅れても必ず来る。彼女は携帯を手に取り、メッセージを打とうとしたが、なぜか指が止まった。代わりに、彼女はカウンターの灰皿を見つめた。そこにはいつも彼の吸い殻が積み重なっているはずなのに、今は空っぽだった。不思議な不安が胸をよぎった。


その夜、悠真から電話がかかってきた。彼の声はいつもより低く、かすかに震えていた。「優花、ちょっと話したいことがあるんだ」と彼は言った。彼女は胸が締め付けられるような感覚を覚えながら、いつもの喫茶店に向かった。


店に着くと、悠真はいつもの席にいた。だが、いつもと違ったのは、彼の前にタバコがなかったことだった。灰皿は空のまま、コーヒーだけが静かに湯気を立てていた。優花は一瞬、時間が止まったような気がした。


「タバコ、やめたんだ」と、悠真はぽつりと言った。「医者にさ、肺がちょっとやばいって言われて。まぁ、たいしたことないんだけど、なんか、考えるきっかけになったっていうか」


優花は言葉を失った。彼女の胸の奥で、喜びと不安が交錯した。タバコのない悠真は、確かに彼女が望んだ姿だった。煙のない愛、クリアな空気の中で二人で生きる未来。それなのに、なぜか彼女の心はざわついていた。煙がなくなった今、彼女は何を吸い込んで彼を感じればいいのだろう。


「よかったじゃん」と、彼女は無理に笑顔を作った。「これで、もっと長く一緒にいられるよね」


悠真は微笑んだが、その笑顔にはどこか寂しさが滲んでいた。「そうだな。でも、なんか変な感じだよ。タバコがないと、俺、俺じゃなくなる気がしてさ」


その言葉に、優花の心は揺れた。彼女は気づいていた。煙は彼の一部であり、彼女の一部でもあった。煙がなくなった今、二人の間にあった微妙な繋がりが、どこかで途切れてしまったような気がした。


それから数ヶ月、悠真はタバコを吸わなくなった。喫茶店の空気は澄み、コーヒーの香りだけが漂うようになった。優花は彼の隣に座りながら、時折、かつての煙の匂いを思い出していた。彼女はそっと彼の手を握り、微笑んだ。煙のない愛は、確かに清らかだった。でも、どこかで彼女は知っていた。この愛が、煙のように儚く消えてしまう前に、もっと強く彼を抱きしめなければいけない、と。


秋が深まり、路地の枯葉がさらに舞うようになった頃、優花はふと思った。煙がなくなった今、彼女は彼の吐息を直接感じたかった。唇を重ね、彼の息を吸い込むように。そこには、かつての煙よりも深い、彼の存在があった。


いつか、煙のない愛で、二人で生きよう。優花はそう心に誓いながら、悠真の肩にそっと頭を預けた。喫茶店の窓の外では、枯葉が静かに地面に落ち、秋の夜が深まっていくのだった。

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