ep.7 訓練の日々:ルーカス対エリク
ルーカスとの三戦目の相手に指名されたのは、特別学級に加わってまだ日が浅いエリクだった。
訓練終盤、疲労の色がにじむルーカスに、彼がどう挑むのか──
剣と槍、静かな駆け引きが始まる。
槍を肩に担いだまま、ルーカスは訓練場の中央に立っていた。
腰を下ろすこともなく、ただ、静かに呼吸を整える。
浅く、整った息。表情は変わらない。
だが、足元には細かい汗のしずくが落ち、軽く握った拳の節がわずかに震えている。
その様子を、少し離れた場所で見ていたエミリアが、横目でアストリッドに話しかけた。
「……ねえ、ちょっと悔しくない?」
「うん? 何が?」
アストリッドはナイフを磨いていた手を止め、肩越しに笑う。
「ルーカスにいいとこ持ってかれたでしょ。あんたも、私も」
「そりゃまあ、ね。でも、あれを崩せる気はしなかったし。むしろ、よくやったほうじゃない?」
「……あーもう、なに平気な顔してるのよ、ちょっと腹立つ」
エミリアがむくれるように言って、アストリッドが吹き出す。
「じゃあ、次はエリクくんに頑張ってもらおうか。ちょっとルーカスに一発かましてくれるかも?」
エミリアはちらりと、すでに剣を持って立ち上がっている弟の姿を見やる。
「……さあ、どうだか。あいつ、まだこっち来て三ヶ月だし。ルーカスとは、まともにやり合った回数も少ないからね」
「逆に言えば、手の内を見せてないとも言えるけど?」
その一言に、エミリアの目元がほんの少し緩む。
「……ま、やるならちゃんとやれって話よ。あいつ、いざってときに迷うとこあるから。一撃でも入れられたら上出来かな」
そう言ってふっと息をつき、エミリアは視線を訓練場へ戻した。
「──始め」
エリーナの合図とともに、槍と剣が向き合う。
陽光がいっそう強さを増す中、石畳に交差する影が二つ。
風はまだ涼しく、訓練場は静まり返っていた。
ルーカスが間合いを測り、前足に重心を乗せた──その瞬間、地を蹴る。
初手から全力──鋭い突きが、一直線にエリクを貫こうと迫る。
だが、その動きに、ほんのわずかだが“遅れ”があった。
(……今の、イメージより遅い?)
わずかな違和感。訓練を重ねてきた者にしか気づけない程度の微細な遅れ。
連戦の疲労が、ルーカスの反応に影を落とし始めている。
その一瞬を、エリクの身体が自然に反応した。
「っ……!」
剣を横に構え、踏み込みを止めるように切っ先で受ける。
重い衝撃が肩に抜ける。だが、すぐに次の一手──下段から角度を変えた突き上げ。
重心を低く保ったまま、一直線に狙ってくる。
(来る!)
半身をひねって躱す。すぐさま三撃目。訓練で何度も見てきた、ルーカスの得意技──三段突き。
その三撃目を、紙一重でかわす。肩先をかすめ、風だけが抜けていく。
(せめて、一撃──!)
槍が引かれる一瞬の“間”を見逃さず、エリクは低く身を沈め、飛び込むように踏み出した。
間合いを強引に詰め、振りかぶった剣を肩口から斜めに振り下ろす。全身の勢いを乗せた、鋭い一太刀。
続けて逆の軌道──地を払うように、もう一撃。
制式に学んだ、無駄のない流れる剣筋。だが──
届かない。
ルーカスの槍がすっと横から滑り込み、刃を受けてそらす。
そのまま、体をわずかにずらしながら、柄で押し返すように一撃を放った。
「……!」
受け流され、エリクは半歩後退。いったん剣を引き、体勢を低く──そこから大きく振り上げる。隙を誘う、あからさまな構え。
ルーカスの目が一瞬だけ反応する。その隙を逃さず、エリクは横へ滑り込み、さらに内側へと潜る。
──懐へ入った!
だが、その先が遠い。
槍の柄がくるりとひるがえり、上段から打ち下ろされる。
「ぐっ──!」
剣で受けるも、上からの一撃に耐えきれず、体勢を崩す。とっさに後退し、危うく槍の追撃を避ける。
(……やっぱり届かない。剣だけじゃ、無理だ)
そこで、左手を腰へ。動きながら、小さな符を一枚引き抜く。
指先で折り返すように掌に収め、息を吸い込む。
(──決めるなら、今しかない)
視線はルーカスの足の運び。肩の動き。
あの三段突きは、直線的であるがゆえに、わずかな軌道変化にも弱い。
そして──この場面で、彼はまた、あの技を繰り出すと読んだ。
ルーカスが前へ出る。
来た──。
一撃目、真正面からの突き。エリクは剣で押さえ、後退しながらかわす。
斜めからの二撃目。タイミングは、ここ。
「──風よ」
低く、短く呟いたその声と同時に、掌の符が淡く輝いた。
風の衝撃が横から吹きつけ、槍の穂先をわずかに逸らす。
「っ……!」
ルーカスの腕に、意図しないずれが生じる。三撃目に繋げる体勢が崩れる。
その瞬間を、エリクは見逃さなかった。
(──今だ!)
剣を構え、力強く踏み込む。
間合いは完全に詰まり、ルーカスの槍が振れない位置。剣の切っ先が、ルーカスの胸元へと迫る──
だが。
ルーカスの体が、反射的にひねられた。
槍の石突が鋭く回転し、エリクの脇腹を狙って放たれる。
「っ……!」
剣で受けようとするより早く、石突が命中した。
息が漏れる。ぐらりと体が傾いたその瞬間、ルーカスが再び一歩踏み込み──
槍の穂先が、エリクの眉間でぴたりと止まった。
完全に、捉えられていた。
「……やられた。しかも──また、あの形か」
崩れた姿勢のまま、エリクは眉間に止まった槍の穂先を見つめていた。
ほんの一拍遅れて、少し離れた場所から視線を感じる。
ちらりと目を向ければ、エミリアが口を動かしている。
声は届かないが、何を言っているかは分かった。
『なんで同じパターンで負けてんのよ!』
──まったくだ。
思わず口元が緩む。悔しさよりも、苦笑が先に出た。
「そこまで」
エリーナの静かな声が場に響き、戦闘の終わりを告げる。
エリクは深く息を吐き、ひと呼吸だけ肩を揺らすと、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ」
ルーカスもまた、穂先を引き、軽く頷くだけでそれに応える。
言葉は少ない。けれど、それで十分だった。
ーーー
「エリク」
戦闘の余韻が落ち着くのを待って、エリーナが名を呼ぶ。
「……一歩の踏み込みが浅い」
静かな声に、エリクが顔を上げた。
「符術で崩したタイミングは悪くなかった。だが、あそこまで詰めておいて、切っ先が届かないのは、構えが高いままだったからだ。腰を落とせ。膝を使え。そうすれば、最後の一太刀は通ったはずだ」
鋭い指摘だった。だが叱責ではない。あくまで、見えたものを伝える口調だ。
「それと──呪符を出す前の動き、雑になってたぞ。腰に手を伸ばすのが見えた。あのレベルの相手なら、あれで一手失って終わりだ」
エリーナは腕を組み、じっとエリクを見据える。
「今の動きは、“符術を使えば何とかなる”と思った者の動きだ。
頼ってもいい。ただし、それで剣が疎かになるなら、槍の前には通じない」
言葉は淡々としていたが、その分だけ重みがあった。
「──以上だ」
エリクは小さく頷き、剣を収めながら一歩下がる。
「……いい勉強になりました」
言葉は控えめながらも、胸の内には確かな自覚が宿っている。
ーーー
エリーナは腕を組み直し、静かに口を開いた。
「──ルーカス」
その名を呼ばれた瞬間、訓練場の空気がわずかに引き締まる。
ルーカスは微動だにせず、ただ前を見据えていた。
「三戦すべて、見事だった。相手に合わせて戦い方を切り替え、どれもきっちりと勝ちを取りにいった。特にアストリッド戦は、捌き切っただけでなく、最後に攻勢へ転じた判断が良かった」
小さく間を置いて、続ける。
「エミリア戦では、変化した剣に気づいて対応を修正した。アストリッド戦では、疲労の中で投擲と近接を読み切り、反応しきった。そしてエリク戦──符術を絡めた変則的な攻めにも、最後まで崩れず、決定打を与えた」
わずかに、目を細める。
「お前が見せたのは“堅さ”だけじゃない。相手を見て、読み、対応し、押し返す。それを連戦でやってのけた。……その継戦力こそ、今のお前の最大の強みだ」
一拍置いて、声の調子をわずかに落とす。
「だが、疲労は確実に溜まっていた。特にエリク戦の後半は、反応が遅れていた場面もある。読みと反射で補っていたが、慢心すれば必ず綻びる。──自分が“崩れかけていた”という自覚は、持っておけ」
静かに言い切り、視線を外す。
「……以上。引き続き、課題はないわけじゃないが、よくやった」
その言葉は、訓練場全体に、短くも重みのある余韻を残した。
ルーカスは静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
言葉はそれだけだったが、その声音には確かな実感が滲んでいた。
自分の中で、確かに“掴んだ”という感覚があるのだろう。
一歩ずつ、だが確実に進んでいる──それを誰よりも自覚しているのが、今の彼だった。
そんな彼の姿に、アストリッドが小さく息を吐いた。
「ほんと、手が届かないなあ……」
ぼやくような声に、隣のエミリアが肩をすくめる。
「でも、少しは見えたでしょ。あの背中」
アストリッドはくすっと笑い、ナイフの鞘を軽く叩いた。
「んー、まあね。届かないってのは、追いかける理由になるし?」
そのやり取りを遠目に見ながら、エリクは小さくつぶやいた。
「……まだ敵わない。でも、勉強にはなったよ」
それぞれの胸に、何かが残る戦いだった。
剣の重み、槍の速さ、読み合いの間──
訓練というには、あまりにも本気の、だが確かに“学び”のある時間だった。
「──以上で、午前の訓練は終わりだ」
エリーナの声が、静かに場をまとめるように響く。
「各自、整理運動をしておけ。午後の課題は、また鐘のあとに伝える。油断するなよ」
生徒たちが一斉に返事をすることはない。
だが、それぞれが小さく頷き、思い思いに動き始める。
陽光はもう、訓練場の端まで届いていた。
石畳に落ちる影は少しずつ短くなり、蝉の声が遠くで揺れる。
熱を帯びはじめた夏の気配のなか、それでも風はまだ、涼しさを残していた。
今回はエリクとルーカスの一戦だけでしたが、講評パートが思った以上に長くなってしまいました……。
実質的にはこれまでの三戦(エミリア、アストリッド、エリク)の総まとめも兼ねていたため、少しボリュームが増えてしまったかもしれません。
とはいえ、それぞれの立ち位置や実力差、そして“今はまだ届かない”というエリクの視点も描けたことで、物語としてはちょっとした節目になったのではと思います。