ep.39 ソフィアと乗馬
北部高原の乗馬訓練場で、エミリアとアストリッドが草原を走り回っていたころ。
その同じ場所で、ソフィアは人生初の乗馬に挑戦していた。
もちろん一人ではなく、隣には付き添い役のルーカス。
草原を全力で駆け回る二人とは対照的に、こちらは馬の上で揺れながら必死に姿勢を保っていた。
同じ場所、同じ時間に起きていた、もう一つの出来事のお話。
北部高原の空は高い。
雲は薄く引き延ばされるように流れ、視界を遮るものはほとんどない。風は乾いていて、草の匂いと土の匂いを軽く運んでくる。王都の街路に満ちている人の気配や石の熱とは違い、ここには広い空間そのものの気配があった。
王都から半日ほど北へ出た場所にあるその乗馬訓練場は、ゆるやかな丘と草地に囲まれている。遠くまで見渡せる地形で、遮るものは低い岩とまばらな低木くらいだ。踏み固められた周回路が楕円を描き、ところどころに馬の蹄の跡が重なっている。乾いた土の上には、何度も踏みしめられた跡が薄く層のように残っていた。
特別学級の面々も、今日はそこで訓練をしていた。ちょうどこの頃、エミリアとアストリッドは順番待ちに飽き始めていた。
貸し出されている馬は三頭まで。
訓練用の馬は気性も穏やかで、人に慣れている。とはいえ体の大きさは人間の比ではなく、近くで見ると筋肉の動きや呼吸の重さがはっきりと分かる。太い首がわずかに動くたび、皮膚の下で筋肉が波のように動いていた。
そのうちの一頭にはアルフレッドが乗っている。背筋を伸ばし、ややぎこちない姿勢で鞍に座っていた。手綱を握る手にはまだ迷いがあるが、それでも真面目な性格らしく、言われた通りの周回をきっちり守っている。馬の歩調に合わせようと意識しているのか、わずかに体が上下していた。
もう一頭はエリク。こちらは落ち着いた様子で、一定の距離を保ちながらゆっくりと馬を歩かせている。時折手綱を調整し、馬の頭の向きを軽く整える。その動作は自然で、少なくとも馬に振り回されている様子はない。馬もまた落ち着いた様子で、ゆったりと首を揺らしながら歩いていた。
そして残る一頭。
「……あ、あの……」
固い声が風の中に混じった。
小柄な体が、鞍の上でわずかに揺れている。
ソフィアだった。両手で手綱を握りしめ、背中はやや前に倒れている。足は鐙にかかっているものの、力の入れ方が分からないのか、膝から下が少し不安定だ。
普段はどこかぼんやりとした雰囲気を漂わせている彼女だが、今は違った。顔は真剣そのものだった。
馬の横にはルーカスが立っている。手綱の先を軽く持ち、馬の歩調に合わせて歩いていた。歩幅は一定で、馬の肩の動きときちんと合っている。
馬はゆっくりと常歩で進んでいた。
だがその揺れは、初めて乗る者には十分に大きい。鞍の上でソフィアの体が小さく上下する。背筋を保とうとするたびに肩に力が入り、腕まで固くなっていた。
「これ……落ちないよね」
ソフィアが恐る恐る聞いた。
ルーカスは一瞬だけ横目で見た。
「落ちる時は落ちる」
即答だった。
ソフィアの目がぱちりと大きくなる。
「えっ」
「今は大丈夫だ」
淡々とした声だった。
ソフィアは少しだけ息を吐いた。だが体の緊張はほとんど解けていない。手綱を握る指先は白くなっている。
馬が一歩進む。
そのたびに体が揺れる。揺れに合わせて腰が動く感覚がまだ掴めない。結果として、上半身だけが不自然に揺れてしまう。
「前を見る」
「は、はい」
ソフィアは慌てて顔を上げた。言われて初めて、自分がずっと足元ばかり見ていたことに気づく。馬の首と地面の間ばかり見ていたらしい。
視線を上げると、草原が広がっていた。視界が一気に開ける。遠くには丘の稜線がゆるく続き、空との境界が柔らかく溶けている。
その景色に気を取られた瞬間、また体がぐらりと揺れた。
「……揺れるね」
「揺れる」
「思ったより」
「そうだな」
風の音と馬の蹄の音が重なる。乾いた土を踏む音は、思ったよりも柔らかかった。
トッ、トッ、と規則的な音が続く。
ソフィアはしばらく黙って揺れに耐えていた。呼吸が少しずつ整ってくる。体の力の抜き方を探しているのか、肩がわずかに上下した。
やがて小さく呟く。
「……動いてる」
「動く」
「ちゃんと」
「そうだな」
ルーカスはわずかにうなずいた。
ソフィアはしばらく馬の首の動きを眺めていた。筋肉が波のように動き、そのたびに体が前へ進む。生き物の上に乗っているという感覚が、ようやく少しだけ実感として浮かんできた。
少しして、また声をかける。
「ねえ、ルーカス」
「なんだ」
「乗馬、上手だよね」
ルーカスは少しだけ考えるように間を置いた。
「子供の頃から乗ってた」
「そうなの?」
ソフィアは少し驚いた顔をする。
ルーカスは周囲の草地を軽く見回した。
「北部高原の出身だからな。この辺りは、馬がないと移動が面倒だ」
「なるほど……」
ソフィアは感心したようにうなずいた。
その瞬間、馬が小さく首を振った。体がぐらりと揺れる。
「わっ」
慌てて手綱を強く引く。
馬がぴたりと足を止めた。
「引きすぎだ」
「ご、ごめんなさい」
「少しだけでいい」
ルーカスは手綱の持ち方を指で示した。
「こう」
ソフィアは恐る恐る真似をする。力を抜き、手綱を少しだけ緩める。
馬はまた、ゆっくりと歩き出した。蹄の音が戻る。
「……歩いた」
「そうだな」
短いやり取りが、また続く。
その時だった。遠くの方で、甲高い声が弾けた。
「待てって言ってるでしょ!」
「捕まえられるなら捕まえてみなさいよ!」
ソフィアは思わず振り向いた。丘の向こう、草原を横切る二つの影が見える。
人影が、ものすごい勢いで走っていた。エミリアとアストリッドだった。どうやら本気で鬼ごっこをしているらしい。草原の上を、全力で駆け回っている。
ソフィアは目を丸くした。
丘を回り込むように、二つの影が走っている。片方が逃げ、もう片方が追う。だが距離は離れたり縮んだりして、単純な追いかけっこには見えなかった。逃げる方は岩の間を抜け、丘の斜面を斜めに切り、時には大きく弧を描く。追う方はそれを真っ直ぐに切り詰めていく。足運びの違いが遠目にも分かった。
「……鬼ごっこ?」
「そうらしい」
ルーカスもちらりと丘の方を見る。二人の速度はかなり速かった。草地を蹴り、岩を飛び越え、また走る。人の動きとは思えないほど軽い。
ソフィアはしばらくその様子を眺めていた。
自分は今、馬の上で姿勢を保つだけで精一杯だ。あの二人は地面を蹴り、跳び、方向を変え、また加速している。揺れる視界の中で、二つの影が風のように動く。
「……人って、あんなに速く走れるんだね」
「走れる奴はな」
ルーカスは簡単に答えた。
ソフィアはしばらく黙っていた。馬の背がゆっくり上下する。視線は遠くの丘と、近くの馬の首の間を行き来する。
「……馬に乗るのって、難しいね」
「最初はそんなもんだ」
ソフィアはもう一度丘を見る。逃げているアストリッドが岩を蹴って方向を変える。追っているエミリアはそれを真っ直ぐに詰める。二人の動きは速く、そして滑らかだった。
ソフィアは少し首を傾げる。
「二人とも仲いいよね」
そう言って、もう一度丘を見る。
それから視線を落とした。鐙に乗せた足はまだ不安定だ。体は揺れ、姿勢を保つことに意識の大半を使っている。それでも馬は前に進んでいる。一歩ずつ、確実に。
丘の上では、まだ二つの影が走っている。距離は少し縮まっているようにも見える。
「……あっちの方が大変そう」
「たぶんな」
ルーカスは短く答えた。
そう言いながら、隣の馬へと目を向ける。鞍の上で必死に姿勢を保っている小さな背中。落ちないように、ただそれだけに集中している。
肩も腕もまだ固い。だが、さっきよりはほんの少しだけ体の動きが馬に合ってきていた。
ルーカスの口元がわずかに緩む。
「こっちも、なかなか大変だ」
「えっ?」
ルーカスはそれ以上は言わなかった。
「前を見る」
「あ、はい」
ソフィアは慌てて前を向く。馬は変わらず、ゆっくりと草原の道を歩いている。遠くでは、まだ二つの影が走っていた。
だがソフィアの視界には、もう丘はほとんど入っていない。今はただ、揺れる馬の背と、目の前に続く草原の道だけを見ていた。
馬はゆっくりと、同じ歩調で進んでいく。
作者は馬に乗ったことはありません。
なので乗馬の描写は、映像や資料などを参考にしつつ想像で書いています。実際に乗るとどんな感じなのか、少し気になるところではあります。
とはいえ、初めて乗るとバランスを取るだけでも大変らしいので、たぶんソフィアと似たような感じになる気もします。
草原を走り回る二人と、馬の上で必死な一人。
同じ場所でも、やっていることはだいぶ違うようでした。




