ep.38 用水路調査
東の穀倉地帯で、用水路の水が急に減った。
数日前までは問題なく流れていた水が、なぜか下流で弱くなっているという。
原因はまだ分からない。
教師エリーナはこれを実習として扱い、アルフレッドとエリクの二人に調査を命じた。
もし原因が見つかれば、その場で対処することも含めて、という条件付きである。
二人は馬を借り、麦畑の広がる集落へと向かった。
東の穀倉地帯。
今日は実習という名目で、教師であるエリーナから用水路の不調の原因を調査し、場合によっては解決するよう命じられている。
許可を得て借り受けた二頭の馬は、それぞれ一人を乗せ、揺れる麦畑の中を進んでいた。
「暑い……面倒くさいな……」
半分目を閉じ、手綱を握りながらも馬に任せきりのエリクがぼやく。
アルフレッドは苦笑する。
「困っている人がいるんだから、何とかするよ。ほら、目を開けて。少し急ごう」
エリクがこの教室に来て半年ほど。
どうやら、少し地が出てきたらしい。
——あるいは、遠慮がなくなったのか。
真面目で努力家であることは知っている。
だが、こうした面を見せるようになったのは最近だった。
(とはいえ言うだけで、行動は今までと変わらないんだよね)
それが苦笑の原因でもある。
面倒だの何だのと口にはするが、体はきちんと動く。動かす。
頼まれれば手を貸すし、気づけば誰かの隣にいる。
……結局、そういう人間なのだ。
そんな道中も程なく終わり、二人は目的地の集落へと辿り着いた。
初夏の陽射しの下、広がる麦畑は一見穏やかだ。
だが、用水路の水位は明らかに不足していた。
底が見えそうなほど水位は低く、かろうじて流れが続いているだけだ。
ここまでの集落では、こんな光景はなかったはずである。
「数日前までは普通だったんだがな」
年配の農夫が眉をひそめる。
傍らの青年は、不安そうに水面を覗き込んでいた。
アルフレッドは膝をつき、水流を観察する。
流れは弱いが、完全に止まっているわけではない。
エリクは無言で周囲の地形と流路を目で追っていた。
やがて、短く言う。
「……上だな」
アルフレッドも頷く。
「上流に行ってみるしかなさそうだね」
馬を農夫に預け、二人は用水路に沿って上流へと歩き出した。
「さて、何が出ると思う?」
少し見上げる形でアルフレッドが尋ねる。
「今のところは何とも。ただの土砂崩れとかなら、まだいいんだけどな」
「それは十分に面倒ごとだよ、エリク……」
とはいえ、言いたいことは分かる。
水路が埋まっただけなら、掘り返せば済む話だ。もっと厄介な事態はいくらでもある。
用水路はやがて森へと続いていた。
用水路はやがて森へと続いていた。
境目は曖昧だった。
背後ではまだ麦穂が揺れているのに、数歩踏み込むだけで光の色が変わる。
足元はぬかるみ、ところどころに獣の足跡が沈んでいる。
浅い水たまりが空を映し、踏めば鈍く濁った。
ブーツは濡れないが、踏み出すたびに泥がまとわりつく。
湿った土の匂いが、ゆっくりと肺に入ってくる。
「迂回しようか?」
アルフレッドが言う。声はわずかに抑えられていた。
エリクは周囲を見回し、首を振る。
「反対側に水路はなかったはずだ。原因があるなら、この中だろ」
用水路は細くなり、草に半ば隠れている。
流れは弱く、ところどころで淀んでいた。
「……こういう湿った場所には、厄介なのが寄ってくるんだよ」
アルフレッドが枝の重なりに目を向ける。
エリクは小さく息を吐いた。
「だから嫌なんだ」
それでも足は止めない。
さらに奥へ進むと、足場は明らかに悪くなった。
水が本来の流れを失い、周囲に溜まっている。
地面は踏むたびにぐずり、と音を立て、靴底を吸い付くように離さない。
「……水が溜まってる」
アルフレッドが低く呟く。
流れが弱い理由が、足元に現れていた。
せせらぎは近いはずなのに、その音は妙に細い。
やがて木立の奥に岩場が見えた。
本来ならそこから清水が湧き、細い流れを作っているはずだった。
だが今は、枝と草を積み上げた塊が岩の隙間を覆っている。
その周囲は一面の泥濘だ。
堰き止められた水が溢れ、巣の周りを湿地のように変えている。
足元の泥には、小さな三本爪の跡がいくつも重なっていた。
「森トカゲかもしれない。森の奥に棲むやつだよ。数が増えると、枝や草で巣を作る」
アルフレッドが言う。
「水の近くが好きってわけか」
「湿ってる方が落ち着くんだろうね。卵もあるかもしれない」
エリクは短く頷いた。
「……あれだな」
剣を抜いた瞬間、巣ががさりと揺れる。
鈍い緑色の影がいくつも滑り出てきた。
ウサギほどの体躯。丸い頭。小さな瞳。
泥にまみれた爪を立て、低く威嚇する。
「刺激すると群れるよ!」
アルフレッドが符を指に挟む。
「最初から群れてるだろ」
泥を蹴り上げ、一体が跳ぶ。
剣が閃き、軽い手応えとともに地面へ転がった。
左右からさらに迫る。
「右!」
火球符が弾ける。
湿りきった空気の中、炎は一瞬だけ膨らみ、枝の表面を焦がして消えた。
泥に囲まれた巣は燃え広がらない。驚いた数体が散る。
「この湿り気なら広がらないね」
「広がったら困る」
エリクは舌打ちしつつ、巣の水路側へ剣を差し入れる。
絡まった枝を引き剥がすと、内側から白い卵がいくつも転がり出た。
剣先が、わずかに止まる。
「……全部壊す必要はないよね」
アルフレッドが静かに言う。
「水路にかかってる分だけでいい」
エリクは短く応じ、堰き止めている部分だけを崩していく。
やがて枝の塊が崩れ、溜まっていた水が一気に流れ出した。
ごう、と音を立てて泥を削り、岩を洗う。
湿地のようだった足元から、少しずつ水が引いていく。
残った森トカゲたちは森の奥へ逃げていった。
最後に一体、なおも威嚇していた個体が飛びかかる。
反射的に振るわれた刃が、それを静かに止めた。
弱々しかった流れは、はっきりとした水音を取り戻す。
しばらく二人はそれを眺めていた。
足元に転がる小さな亡骸を見て、エリクが言う。
「……焼くと美味いらしいぞ」
アルフレッドが目を瞬かせる。
「え? 食べるの?」
「父さんがよく食べてた」
あっさりとした口調だった。
アルフレッドは少しだけ困ったように笑う。
「……今度は別な場所に作ってくれればいいんだけどね」
「聞いてくれるといいけどな」
森は再び静まり、水の音だけが残る。
問題は解決した。
あとは流れが下流まで戻るのを待つだけだ。
「面倒だったな」
「うん。でも、これで麦は枯れずに済むよ」
エリクは肩をすくめる。
「それなら、まあいいか」
水は絶え間なく流れ続けていた。
今回は畑の水路のトラブルと、その原因の調査です。
麦は稲ほど大量の水を必要とする作物ではありませんが、それでも安定した水は欠かせません。
特に穀倉地帯では、湧水や小川から引いた用水路が重要な役割を持っています。
そして実際の農業でも、水路が詰まるという問題は珍しくありません。
土砂や倒木だけでなく、動物が原因になることもあります。
今回の原因は森トカゲでした。
数が増えると枝や草を集めて巣を作る生き物で、たまたまそれが水路の出口を塞いでしまった、という形です。
作中でも少し触れていますが、爬虫類の卵は比較的早く孵るものも多く、種類によっては数週間ほどで孵化します。
そのため、今回のような場合は一度巣を崩して終わりではなく、孵化の頃にもう一度様子を見るといった対応になるでしょう。
人間にとっては困る出来事でも、向こうにしてみれば普通に生きているだけ、というのがなかなか難しいところですね。今回はかなり地味な話でした。
畑の水路のトラブルと、その原因の調査です。
麦は稲ほど大量の水を必要とする作物ではありませんが、それでも安定した水は欠かせません。
特に穀倉地帯では、湧水や小川から引いた用水路が重要な役割を持っています。
そして実際の農業でも、水路が詰まるという問題は珍しくありません。
土砂や倒木だけでなく、動物が原因になることもあります。
今回の原因は森トカゲでした。
数が増えると枝や草を集めて巣を作る生き物で、たまたまそれが水路の出口を塞いでしまった、という形です。
作中でも少し触れていますが、爬虫類の卵は比較的早く孵るものも多く、種類によっては数週間ほどで孵化します。
そのため、今回のような場合は一度巣を崩して終わりではなく、孵化の頃にもう一度様子を見るといった対応になるでしょう。
人間にとっては困る出来事でも、向こうにしてみれば普通に生きているだけ、というのがなかなか難しいところですね。




