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ep.37 ルーカスの放課後

ルーカスは放課後、まっすぐ寮へ戻らず街へ下りることがある。

訓練のあとでも足取りは変わらず、行き先を多く語ることもない。


その日も、彼はいつものように校門を抜けていった。

エリクは少し遅れてその背を見やり、歩幅を速める。


街の喧騒を抜け、石畳の細い通りを折れた先。

ルーカスが押し開けたのは、小さな診療所の扉だった。

今日は訓練場での模擬戦で終わりだった。

皆それぞれ準備室へ戻り、訓練用の剣や槍を棚に収めていく。軽く声を掛け合いながら、ある者は寮へ、ある者は図書館へ、ある者は街へと下っていく。

その中で、エリクはふと足を止めた。

いつも街へ向かうルーカスの背中が、なぜか気になったのだ。

少し歩幅を速め、追いつく。


「ルーカス、どこに行くんだ?」


問いかけても、返事はない。

代わりに、横目だけが向けられる。


──来るか?


そう問うような視線だった。

エリクは一瞬だけ迷い、それから肩をすくめる。


「……まあ、暇だしな」


そう言って、ルーカスの後を追った。


夕方の街は、人の波で満ちていた。

仕事を終えた者たちが家路を急ぎ、石畳には幾重にも足音が重なる。露天に張られた布張りのテントからは湯気が立ちのぼり、焼いた肉の匂いと香草の香りが混じり合って流れてくる。

簡素な台に並べられた紙包みを買い、足早に去っていく男。家族の分もあるのだろう、抱えた包みは大きい。小さな子どもがそれを見上げ、跳ねるように後を追う。

その脇では、木の枝を剣に見立てた子どもたちが騎士ごっこに興じていた。


「くらえーっ!」


甲高い声とともに振り下ろされる“剣”を、別の子が大げさに受け止める。

ルーカスはその横を、変わらぬ歩幅で通り過ぎた。人波に押されることも、急ぐこともない。ただ流れの中に身を置き、自然に前へ進んでいく。


エリクはその少し後ろを歩く。こちらは人の間を縫うように、わずかな隙間を選び取って進んでいた。肩が触れそうになれば半身でかわし、足運びを止めることもない。

腕すら擦らせないのは、さすが訓練を積んだ騎士候補生といったところだ。


ふと、子どもたちのひとりが木の枝を振り上げたまま、動きを止めた。

視線が、ゆっくりとルーカスへ向く。

見上げる、というより、思わず目で追ってしまったような動きだった。


「……でか」


隣の子が、思わずといった調子で呟く。


「なんか、つよそう」


木の枝が、いつの間にか下ろされている。

さっきまでの勢いは、少しだけ削がれていた。


(……まあ、そう見えるよな)


エリクは小さく息を吐く。

隣を歩く背中は、ただ無言で前を向いているだけでも、当然に目を引く。歩幅も、視線も、揺るがない。

ルーカスは一瞬だけ子どもたちへ視線を落とすが、何も言わない。ただそのまま、歩幅を変えずに通り過ぎる。

エリクはその横顔をちらりと見て、わずかに眉を動かした。

街の喧騒も、視線も、何もかもが、ルーカスにとっては特別なものではないらしい。

やがて人通りは少しずつ減り、露天の明かりがまばらになる。通りの端に、古びた看板が見えてきた。

診療所、とだけ簡素に書かれている。

ルーカスは迷いなく、その扉を押した。


扉を押し開けると、外の喧騒が一段遠のいた。

診療所の中には初老の男が立っていた。白いものが混じる髪を後ろへ流し、低い位置で束ねている。皺の刻まれた顔つきは穏やかだが、その目はよく動いていた。

清潔な白衣が、彼が医師であることを物語っている。

室内には、乾いた薬草と煎じ薬の匂いが混ざり合った、独特の香りが漂っていた。棚には瓶や包み紙が整然と並び、窓際の机には乳鉢と薬研が置かれている。


「おお、ルーカス。いいところに来たな」


男は顔を上げると、ほっとしたように息をつき、すぐに目の前の患者へと向き直った。椅子に腰かけた男は、片腕を押さえている。布越しにも滲む赤が見えた。


「薬が足りん。そこにあるから少し練ってくれ。いつもの配分でな」


言われなくても分かっている、というようにルーカスは短く頷く。

患者を一瞥。傷の位置、血の滲み方、顔色を確認する。

それから棚の前に立ち、乾燥した草束をいくつか取り出す。迷いはない。必要な分だけを切り分け、薬研に入れ、一定の力で擦り潰していく。

ごり、ごり、と乾いた音が室内に響く。

その手つきは驚くほど滑らかだった。慣れている、というより、染みついている動きだ。

エリクはその横顔を、黙って見ていた。


患者は壮年の男だった。がっしりとした体格に、日に焼けた肌。袖をまくった腕には、古い擦り傷がいくつも走っている。


「先生、面目ねぇ」


男は押さえていた布を外し、腕を差し出す。

浅いとは言えない裂傷があらわになり、血がじわりと滲んでいた。


「気にするな。怪我したくてする奴はおらん」


そう言って、医師は傷の少し上をぺんと叩く。


「……っ」


男がわずかに顔をしかめる。


「面目だの何だの言う前に、じっとしてろ。力を抜け」


淡々とした声。

男は苦笑しながら、言われた通りに腕の力を抜く。


医師はその腕の裂傷を確認する。

浅いとは言えないが、致命的な深さではない。血はじわりと滲んでいる。


手際よく止血と消毒を進めながら、角度を変えて患部を観察する。


「仕事か?」


「ああ、材木が跳ねてな。ちょいと油断した」


「縫うほどじゃないが浅くもない。しばらく重い物は持つな」


「へいへい……」


軽口のような返事。しかし、その目の奥には、明日の仕事をどうするかという現実的な計算が滲んでいた。


「ルーカス、どうだ?」


医師の問いに、ルーカスはすでに薬草を油に練り終え、湿布にまとめていた。細かく潰された緑が、ほのかに苦い匂いを放っている。


「炎症を抑える配合で。いつもより少し強めです」


短く答え、湿布を差し出す。

医師はそれを受け取り、指先で質を確かめるように押した。


「……ふむ。良い出来だな」


そのまま湿布を傷口に当て、包帯を手際よく巻いていく。巻き終えると、男の腕を軽く持ち上げ、可動域を確認する。


「三日は安静だ。無理をすれば開くぞ」


男は肩をすくめる。


「先生がそう言うなら。けど女房に叱られちまうな」


診療所の中に、小さな笑いが落ちた。

エリクは、黙ってその一連のやり取りを見ていた。


男の処置がひと段落した頃、診療所の扉が激しく叩かれた。


「先生! 開けてくれよ! 友達が怪我したんだ!」


高い声が、半ば泣きそうになりながら叫ぶ。

ルーカスが一瞬だけ視線を向ける。言葉はない。

エリクはすぐに扉へ向かい、閂を外した。


そこに立っていたのは、先ほど通りで騎士団ごっこをしていた少年たちだった。

一人は片足を引きずり、膝を押さえている。指の隙間から、赤が滲んでいた。


「入ってもらいなさい」


医師の落ち着いた声が、室内の空気を引き締める。

エリクは頷き、二人を中へ招き入れた。


「転んだんだ。石につまずいて……血が止まらなくて……」


支えているほうの少年が、必死に言葉を繋ぐ。その目は、不安と焦りで揺れていた。

ふと、その視線がルーカスに向く。大きな影が、すぐそばに立っている。

背が高く、無表情で、何も言わずにこちらを見ている。

それだけなのに、妙に落ち着いて見えた。


「……お願いします」


小さな声だった。頼る相手を選んだというより、思わず向けてしまった視線の先にいた、というような響き。

ルーカスは少年の前にしゃがみ込む。目線が近づくと、その圧もわずかに和らいだ。


「大丈夫だ」


それだけを、低く告げる。

余計な慰めはない。だが、その声には迷いがなかった。

泣いている少年を軽々と抱え上げ、医師の前の椅子へ座らせる。暴れないように、しかし締めつけない絶妙な力加減で肩を支える。


「っ……ひっ……」


少年は涙をこぼしながらも、先ほどよりは声を荒げない。

それを見て、先ほど治療を受けていた壮年の男が立ち上がった。


「先生、俺はもう大丈夫だ。礼はまた今度にする」


深く頭を下げ、静かに診療所を出ていく。

扉が閉まると、室内には薬草の匂いと、子どもの荒い息づかいだけが残った。


医師が傷口を洗うため、水を流す。

冷たい水が膝を伝い、赤く濁る。


「っ、やだ……!」


少年が身体をよじる。


その瞬間、ルーカスの手が肩と太腿を押さえた。力は強いが、乱暴ではない。逃がさないための、確かな重み。


「痛いな」


淡々とした声。

少年は涙をこぼしながら頷く。


「でも動くな。今動けば、もっと痛くなる」


表情は変わらない。ただ事実を告げるだけだ。

医師が傷口に布を当て、血を拭う。

少年の呼吸が荒くなる。


「三つ数える。三つで終わる」


少年は息を詰める。


「……いち」


「違う。俺が数える」


低く言い直す。

少年の視線が、自然とルーカスへ向いた。


「一」


水が再び流れる。


「二」


布が押し当てられる。少年の指が椅子の縁を強く掴む。


「三」


包帯が巻かれる音が、静かに響いた。

医師が手を離す。


「終わりだ」


少年はまだ涙で頬を濡らしているが、暴れはしなかった。

ルーカスはそこで初めて、少しだけ力を緩める。


「よく我慢したな」


声の角が、わずかに丸くなる。

少年は鼻をすすりながら、小さく胸を張った。


「……うん」


その横で、もう一人の少年が拳を握りしめている。


「お、俺が……俺が追いかけたから……」


震える声。

エリクはその肩に手を置いた。


「転ぶのは走ったからじゃない。石があったからだ」


少年は顔を上げる。


「でも……」


「君が支えて、ここまで連れてきたんだ」


静かな声。


「それで十分だ」


少年はしばらく黙り込み、それから小さく息を吐いた。

荒れていた呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。

診療所の中には、水の滴る音と、薬草の匂いが満ちていた。


ルーカスは立ち上がり、医師の手元を確認する。

エリクは、肩に置いた手をそっと離した。


診療所を出ると、空はすでに茜から群青へと移ろいかけていた。

街路の人影はまばらで、露天の灯りもいくつか消えている。

しばらく無言で歩いたあと、エリクが口を開いた。


「……ルーカスは、ずっとこんなことしてるのか?」


少しだけ間があった。


「……孤児院の頃から世話になってる」


前を向いたまま、ルーカスは答える。


「恩返しだな」


そのとき、ほんのわずかに口元が緩んだ――ように、エリクには見えた。

夕闇のせいかもしれない。

エリクはそれ以上は何も聞かない。


「そうか」


短く返し、歩幅を合わせる。

石畳を踏む足音だけが、静かに重なる。

街の灯りが遠ざかり、寮の影が近づいてくる。


二人は言葉を交わさぬまま、並んで歩き続けた。

この世界の医療は、主に薬草と経験に支えられています。


止血し、洗い、必要であれば縫う。

骨を固定し、熱を下げ、あとは時間に委ねる。

それ以上の手立ては、そう多くはありません。


傷を瞬時に塞ぐ薬や、失われた血を取り戻す術は存在しません。

記録の中には、かつて魔術士が傷を癒したという記述も残っていますが、それが実際にどのようなものであったのかは分かっておらず、再現された例もありません。


ですから、怪我は怪我として残ります。

無理をすれば開き、治るには相応の時間が必要です。


作中で描かれている処置も、その範囲に収まるものです。

この世界では、人の身体はゆっくりと回復していきます。

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