ep.36 高原の鬼ごっこ
北部高原での馬術訓練の日。
広い空の下、馬を走らせる者と順番を待つ者に分かれ、時間はゆっくりと過ぎていきます。
けれど、じっとしているには少し寒く、少し退屈で。
何気ないひと言から、二人は柵の外へと駆け出すことになりました。
それは訓練の合間の、ほんの気まぐれ。
ただの追走――のはずだったのですが。
北部高原の風は、乾いていて軽い。短く刈られた草を撫で、露出した岩肌をなぞり、巻き上がった砂の匂いを運んでくる。蹄が地面を打つたびに乾いた音が弾み、手綱の革が軋み、低く抑えた号令が風に混じった。
規則正しい周回の軌跡が地面に刻まれ、踏み固められた土は他の場所よりわずかに色が濃い。外周には簡素な柵が巡らされ、馬止めの柱には使い込まれた縄が巻かれている。ここが単なる草地ではなく、鍛錬の場であることは一目で分かる。
今日は貸し出しは三頭まで。すでにエリクとアルフレッド、そしてソフィアが騎乗していた。ルーカスが横につき、歩様を崩さぬよう間合いを見ている。速歩から常歩へ、常歩から停止へと移るたび、砂が小さく跳ねる。
残されたのはエミリアとアストリッド。順番待ちの時間は思いのほか長い。
柵にもたれ、アストリッドが空を仰ぐ。
「暇だね」
雲は薄く流れ、陽射しはあるのに風が冷たい。エミリアは腕をさすった。
「そうね。体、冷えちゃう」
じっとしていると余計に寒さが沁みる。動きたいという衝動が、内側で小さく燻る。
アストリッドが横目で見る。
「走る?」
エミリアは息をひとつ吐く。
「アストリッドが逃げるなら、追うわよ」
「捕まらないけど?」
「ちゃんと捕まえるから」
アストリッドはわずかに顎を上げ、柵の向こうを一瞥した。
「じゃあ、私が逃げるからエミリアが捕まえる。範囲は先生が見える距離までね」
軽く言ったが、その“見える距離”は高原の広がりを思えば相当なものだ。遮るものの少ない地形は、視界の及ぶ限りを許す。
エミリアは口元だけで笑う。
「遠いわね」
「追い甲斐があるでしょ」
次の瞬間、アストリッドは駆け出していた。エミリアも遅れず踏み出す。
腕を組んだまま、エリーナが声を上げる。
「三十分だ。鐘が鳴ったら終わり。無茶はするなよ」
止めはしない。その目はしっかり二人を追っている。
アストリッドは逃げる。
足取りは軽やかに、周囲の岩や低木、柵の合間を縫い、時に踏み切り、時に身をひねって越えていく。その軌道は一定せず、弧を描き、切り返し、風に押される草のように柔らかい。舞っている、と言ってもよい。
エミリアは追う。
無駄な横揺れはない。アストリッドの動きを線として捉え、その先を読むように踏み込む。強く地面を捉えた足は迷いなく岩へと跳び、着地の衝撃を殺し、そのまま次の一歩へ繋げる。直線的でありながら、決して粗くはない。
障害の多い場所へと導いたのは、アストリッドにとって賢い選択であっただろう。複雑な足場を使う走りにおいては、彼女に分があるように見える。
ソフィアの馬の手綱を握りながら、ルーカスが丘の方へ目をやる。速歩から常歩へ落とす合図を出しつつ、視線だけが遠くを追った。
「……地形戦だな」
その呟きに、エリクの乗る馬がゆるやかに並ぶ。鐙を踏み直しながら、彼もまた走る二人へと目を向ける。
「アストリッドの方が上手そうだ」
追走は、やがてなだらかな丘へと移る。
まだ二人の間に距離はある。だが障害の少ない斜面では、直線を取るエミリアが徐々に差を詰めていた。
丘の向こうは崖だ。五メートルほどはあるだろうか。落ちればただでは済まない。
その手前で、アストリッドは歩を緩め、エミリアに正対する。
引きつけたところで身を交わし、一気に丘を下る。距離を振り出しに戻すつもりだろう。
(大丈夫。逃げ切れる)
視線だけでエミリアを誘い、崖ぎりぎりの縁を抜けて駆け抜ける――
はずだった。
踏み込んだ足の下で、土が鈍く崩れた。
「……!」
一瞬、地面が消える。
咄嗟にアストリッドは手を伸ばす。だが掴めるものはない。
エミリアの反応は早かった。視線でアストリッドの逆側へ誘導されていたが、無理やり脚で制動をかけ、反対へ踏み出す。噛み締めた奥歯が鳴る。
アストリッドが落ちていく様子は、ひどくゆっくりに見えた。
間に合うか、否か。――いや、間に合わせる。
身体が軋むのも構わず踏み込み、エミリアは腕を伸ばす。指先が触れ、滑りかけた手首を掴む。
そのまま勢いを殺さず、身体を捻る。踏み込んだ足を軸に弧を描くように向きを変え、その遠心のままアストリッドの体を丘の上へと振り上げる。
アストリッドの体が草地へ転がる。遅れて、エミリアも同じ場所へ投げ出された。
一瞬、音が消える。
エミリアはしばらく空を見上げていた。高原の空気は、王都よりも澄んでいるように感じられる。
視界の端で、アストリッドが体を起こすのが見えた。どうやら無事らしい。
小さく、息を吐く。
アストリッドは体を起こし、エミリアへと視線を向けた。
「……何やってんのよ」
立ち上がる途中で、思ったより強い声が出たことに自分で驚く。だが、言葉は止まらなかった。
「あんたまで落ちるとこだったじゃない! なに考えてんのよ!」
自分だけが危険なら、それは自業自得だ。だが、そのために誰かを――エミリアを巻き込むのは違う。
向けているのはエミリアだが、怒りの矛先は自分自身にある。
エミリアは答えない。ただ、草の上に寝転んだまま、小さく呟く。
「ちょっと、身体、痛い」
無理に引いた衝撃が、今になって響いているのだろう。腕を軽く動かしてみせる。大事ではなさそうだ。
怒りの行き場がなくなる。
自分への苛立ちと、巻き込んだことへの気まずさが混ざり、素直な言葉が出てこない。代わりに、アストリッドはわずかに頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「……今のはノーカンだからね」
崖の方を見ないまま続ける。
「足場が崩れただけだし、ちゃんとした勝負じゃない。あれは事故」
自分でも子どもじみていると思う。それでも、このまま終わるのは嫌だった。
少しの沈黙のあと、エミリアは短くうなずく。
「うん。それでいいよ」
アストリッドはくるりと踵を返し、崖から離れた広い草地へ視線を向ける。
「先生のところまで、私が逃げ切ったら勝ち。それでいいわね?」
言い終わるより早く、もう駆け出していた。
「ずるい!」
エミリアは身体の痛みを置き去りにするように跳ね起きると、すぐに後を追う。
距離は開いた。だがエリーナの立つ場所までは遮るものもなく、ほぼ一直線だ。地形の助けはない。
トップスピードと持続力では、エミリアに分がある。
草原を二つの影が横切っていく。
遠くそれを眺めながら、エリーナが小さく呟いた。
「追いつくかは五分だな」
「先生、楽しんでるでしょ?」
馬首を返してアルフレッドが呆れたように言う。
「あれも訓練のうちさ」
表情は変わらない。だが声音は、わずかに愉しげだった。
アストリッドが思ったよりも早く、距離は縮まっていた。
(やっぱり平地じゃ厳しいなぁ……)
分が悪いことはわかっていた。やはりエミリアは速い。
それが今は、少しだけ嬉しくもある。
エリーナまでの距離も近づいている。だが、それよりも速く、背後の草を踏む音が迫っていた。
もう少し――。
次の瞬間、大きな足音が弾け、背中に衝撃が走る。
エミリアが身体ごと突っ込んできたのだ。
二人はもつれるように地面を転がる。
それでもアストリッドの手首は、しっかりと掴まれていた。
「……負けね」
荒い呼吸のまま、エリーナとの距離を目で測る。
あと三メートル。
「よし、そこまで」
エリーナの声が勝負の終わりを告げる。
そして間髪入れずに続けた。
「時間だ。早く馬に乗れよ」
悪戯っぽい声に、アストリッドが抗議する。
「先生、もうちょっとだけ、待って……!」
「駄目だ」
即答だった。
そのやり取りを聞きながら、エミリアは仰向けのまま空を見上げる。
高原の空は、やはり、どこまでも澄んでいた。
ゆっくりと目を閉じる。
「……疲れた」
小さな呟きが、風に溶ける。
隣では、まだアストリッドが何やら言い募っている。
「あと少しだったのに……!」
「少しかどうかは知らん」
素っ気ない返答に、アストリッドが不満そうに唸る。
エミリアは目を閉じたまま、わずかに笑った。
エミリアの指先には、まだ確かな感触が残っている。
掴んだ手首の温もり。ぶつかった衝撃。土の匂い。
身体は重い。
けれど胸の奥は、不思議と軽かった。
風が二人の髪を揺らす。
「ほら、さっさと来い」
エリーナの声が飛ぶ。
エミリアとアストリッドは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。
今日の訓練はまだまだ終わりそうもなかった。
さて、高原といえば温泉です。
訓練場の近くには、騎士団が使う簡素な浴場があります。冷えた身体を温め、張った筋をほぐすための場所。今日のような日は、特にありがたい存在です。
もっとも――湯に浸かった瞬間に漏れるのは、感嘆よりも小さな呻き声だったかもしれません。
全力で走り、転び、馬を駆った一日。
エミリアもアストリッドも、そして慣れない馬術に挑んだソフィアも、それぞれに普段以上の負荷がかかっています。湯の中で「痛い……」と小さく呟きながら、じっと動かずにいる姿が目に浮かびます。
そんな様子を見て、エリーナは肩まで湯に浸かったまま淡々と言うのでしょう。
「よくほぐしておけよ。明日の方が痛むぞ」
脅しではなく、経験からくる忠告です。
走ることも、転ぶことも、痛むことも、すべてが訓練の一部。
今日の鬼ごっこも、きっと無駄にはなりません。
明日もまた、高原の風の下で。




