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ep.29 残された実習室で

符術実習が終わり、生徒たちが引き上げたあとの実習室。

普段なら片付けを担うアルフレッドがエリーナに呼ばれ、エリクとソフィアだけが残ることになった。

集中の余韻と静けさの中で、二人は互いの存在をあらためて意識する。

実習が終わり、他の生徒たちが次々と引き上げていく中で、符術実習室には、まだ作業の音が残っていた。


紙に触れる指先。

呪符の線をなぞる呼吸。


ソフィアは机に向かったまま、顔を上げない。

視界は狭く、意識はほとんど紙の上に落ちていた。


「……ここ、もう一本……」


小さく呟きながら、線を整える。


背後で、足音が止まった。


「アルフレッド、ちょっと来なさい」


エリーナの声が、実習室に響く。


アルフレッドは一瞬だけソフィアのほうを見たが、声はかけなかった。

集中しているのが、すぐに分かったからだ。


「はい」


短く返事をして、机を離れる。


「すぐ戻るから」


そう言ったが、ソフィアの耳には届いていなかった。


扉が閉まる音も、

廊下に遠ざかる足音も、

彼女の意識の外にあった。


――どれくらい経ったのか。


ソフィアは、ふっと息を吐いて、ようやく顔を上げる。


「……あ」


視界が広がり、実習室全体が戻ってくる。


静かだ。


さっきまで聞こえていた、紙の擦れる音も、誰かの気配もない。


「……あれ?」


ソフィアは、きょとんとした顔で周囲を見回す。


アルフレッドの机を見る。

使いかけの紙だけが、ぽつんと置かれていた。


「アル?」


呼んでみるが、返事はない。


「……みんないない」


「うん。もう戻った」


不意に返ってきた声に、ソフィアは小さく肩を揺らした。


「えっ?」


視線を巡らせ、少し遅れてエリクの姿を見つける。


「……エリク?」


「そうだけど」


エリクは呪符の束を整えながら、いつもと変わらない調子で答えた。


「今日は終わりだよ。ソフィアも片付けていい」


「えー……」


不満そうに唇を尖らせながらも、ソフィアの手は止まらない。

机の上に広げていた紙を一枚ずつ揃え、角を合わせて重ねていく。


その動きは丁寧だが、どこか名残惜しそうだった。


「……まだ描けると思ったのに」


「集中しすぎ」


エリクは小さく息を吐く。


「さっきから、周り見えてなかっただろ」


「だって、途中だったし」


「時間でやめるのも練習」


「……むぅ」


納得していない顔だが、反論はしない。

紙をまとめ終えると、ソフィアは椅子の上に正座して、じっとエリクを見た。


「エリク」


「なに」


「エリクって、慣れてるよね」


唐突な言葉だった。


「なにが?」


「こういうの。片付けとか、待つのとか」


エリクは一瞬考えてから、肩をすくめる。


「……まあ」


否定はしない。


「でも、アルフレッドのほうが慣れてる」


「今日はアル、いない」


「そうだね」


二人きりになった実習室は、やけに静かだった。

紙の擦れる音も、インクの匂いも、もう残っていない。


「……私、そんなに子ども?」


ぽつりと、ソフィアが言った。


エリクはすぐに答えなかった。

少し考えてから、困ったように笑う。


「いや、そうじゃない……けど」


一拍置いて、続ける。


「これは、きっと姉さんのせいだね」


「えっ」


ソフィアは目を丸くする。


「エミリア?」


「うん。姉さん」


エリクは苦笑したまま言った。


「昔から無茶するから。気づいたら、周りを見る癖がついた」


「……私、あんなに無茶じゃない」


ソフィアは唇を尖らせる。


「ほんと?」


「ほんと!」


即答だった。


エリクは小さく笑う。


「じゃあ、少しだけ」


「……少し?」


「少しだけ、無茶」


ソフィアは少し考えてから、小さく頷いた。


「……ちょっとだけ」


それなら許容範囲らしい。


「でも」


ソフィアは急に真面目な顔になる。


「エリクは、ちゃんと見てるよね。みんなのこと」


「そうかな」


「うん。アルのことも、エミリアのことも、ルーカスのことも」


指折り数えて、最後に自分を指す。


「……私のことも」


エリクは否定しなかった。


「見てないと、危ないから」


「危ない?」


「うん。色々」


「でも、私、ちゃんとできてるよ?」


「できてる」


エリクは即答した。


「だから、今は見てるだけ」


その言葉に、ソフィアは少しだけ誇らしげになる。


「じゃあ……」


立ち上がり、胸を張る。


「もう子ども扱いしなくていいよ」


エリクは一瞬考えてから、穏やかに言った。


「それは、無理かな」


「えー!」


「子どもだから、じゃない」


視線を合わせる。


「大事だから」


ソフィアは言葉に詰まり、少しだけ視線を逸らした。


「……ずるい」


「そう?」


「うん」


でも、嫌そうではなかった。


エリクは壁際の時計を一度確認する。


「アルフレッド、戻ってこないな」


「……呼ばれてたし」


「そろそろ戻ろうか」


「うん」


二人は並んで実習室を出る。


廊下に出ると、ソフィアは少しだけ歩調を早めた。

先に行くつもりなのか、無意識なのかは分からない。


数歩進んでから、ふと立ち止まる。


振り返ると、エリクは少し後ろを歩いていた。


「……遅い」


「そう?」


「そう」


ソフィアは一歩戻り、エリクの隣に並ぶ。

今度は、歩幅を合わせるように。


エリクは何も言わなかったが、そのまま速度を変えずに歩いた。


夕方の廊下は、人の気配が薄く、足音だけが静かに響く。


「エリク」


「なに」


「また、残ろうね」


「……アルフレッドがいない時だけな」


「それでもいい」


ソフィアは満足そうに笑った。


歩幅は違うが、歩調は自然と揃っていた。

エリクは、誰かの様子を見ることにとても慣れています。

それは騎士としての訓練というより、もっと昔から身についていた癖のようなものです。


無茶をする人がそばにいれば、自然と周りを見るようになる。

何かあれば声をかけるし、何もなければ何も言わない。

本人にとっては当たり前でも、見られている側からすれば、それは十分に「気にかけられている」ということになります。


ソフィアに向けられた言葉も、特別優しいわけではありません。

ただ、距離を取りすぎず、踏み込みすぎず、必要なところに立っている。

エリクという人物が、少しだけ分かる場面になっていれば嬉しいです。

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