ep.3 符術の時間
特別教室での、ある一コマ。
それは静かで、地味で、それでも確かな意味を持つ時間。
今回は、符術の授業風景をお届けします。
午前の鐘が鳴り終わる頃、生徒たちはいつものように呪符の準備を始めていた。
「体動かさない授業って苦手だけど……ま、符術ならまだマシかー」
アストリッドが後ろの席で伸びをしながらつぶやく。手には呪符を描くための紙束を抱え、その隣ではソフィアがすでに墨の調合に集中していた。淡い茶髪がうつむきがちに揺れ、筆先が紙に触れる音が静かに響いていた。
「ちゃんとやらないと、怒られちゃう……」
「大丈夫、怒られるのはいつもアストリッドだから」
そう言ってアルフレッドが苦笑した。彼の声は穏やかで、どこか兄のような安心感がある。彼はすでに十枚ほどの呪符を整然と並べており、どれも精緻に描かれたものばかりだった。
「ひどーい、ちょっと遊んだだけなのに……でも、符術って便利だよね。ナイフより頼りになるときもあるし!」
「……まあ、使い方次第だよね」
エリクが苦笑しながら言った。彼はすでに二枚の呪符を共鳴中らしく、筆はしまわれていた。
そんな中、ひとり机の上に筆も紙もないのはエミリアだった。両腕を組んで座り、退屈そうに天井を見上げている。
「……またこれかぁ。どうせやっても使えないし……ねえ、私、剣振ってきていい? ダメ?」
「だめ。座学は受けとけって、エリーナ先生が言ってたでしょ」
弟の声に、エミリアは小さく肩をすくめた。
間もなく教室の扉が開き、エリーナが入ってきた。
「着席。今日の授業は符術だ。内容はお前たち自身の戦闘準備について、現実的な話をする」
彼女の声にはいつものように無駄がなく、全員が自然と姿勢を正す。
「すでに初等課程で学んでるはずだが、ここでは実際の戦術運用を見据える。アルフレッド、ソフィア、今手元にある呪符の枚数を」
「共鳴済みが八、共鳴中が二。いつでも使える状態にしてあります」
「私は……共鳴済みが四枚で、共鳴中が三枚です」
「よし。じゃあ次、ルーカス」
「三枚、すべて共鳴中です」
静かな声で応じた彼は呪符を丁寧に机上に並べていた。
「共鳴時間を考えれば、常に理想の枚数を維持できるわけじゃない。これは分かってるな?」
エリーナは全員を見回す。
「術式の構成は教本通り。組み替えは禁止。お前たちが今扱っていいのは、騎士用に定められたものだけだ。構成の自由があるのは、認定符術士のみ。うちではアルフレッドだな。ソフィア、お前は来月の認定試験に向けて、実戦構成を意識しておけ」
ソフィアが小さくうなずく。どこかぼんやりした表情のまま、けれどその手元の呪符には一切の乱れがなかった。
「さて、ここで質問だ」
エリーナは教壇に寄りかかりながら、ゆっくりと言葉をつないだ。
「符術で、どうすれば戦いに勝てると思う?」
誰もすぐには答えない。
アストリッドが少し首を傾げ、アルフレッドが静かに思案し、ソフィアは筆を止めたままじっとエリーナを見ていた。
エリーナはそれを待たず、話を続ける。
「力をぶつけ合うのが戦いだと思っているかもしれんが……違う。符術で勝つ方法は、一つだ。“前もって備える”こと」
一拍置いて、教室を見回す。
「敵と向かい合ってからでは遅い。どんな戦場になるか、どこで何が必要になるか──戦う前からそれを想定して、呪符を仕込んでおくんだ」
生徒たちの表情が、少しずつ引き締まっていく。
「敵の攻撃を止める符、味方の動きを補助する符、進路を切り開く符……符術は、戦いの中で使われるが、その意味は戦う前に決まっている。すべては『いつ』『どこで』『誰に』使うかで、効果がまるで変わる」
エミリアが退屈そうに、隣のエリクを肘でつつく。
「そういうの、結局戦い方次第じゃないの?」
「うん……でも、“どんな戦い方を選べるか”も、準備で決まると思う」
「面倒だねー」
「面倒だけど、大事だよ」
ふっと笑ったエリクに、エミリアは視線を逸らした。
エリーナは話を続けた。
「符術の授業でやることは三つ。ひとつ、今の自分にできる術を把握すること。ふたつ、それをどのタイミングで使うべきか考えること。そしてみっつ、自分がどれだけ“持てるか”を知ること」
「“持てるか”って、共鳴済みの枚数ですか?」
ソフィアがぽつりと聞いた。エリーナはうなずいた。
「そうだ。共鳴中の呪符は即座には使えん。共鳴が終わるまでに時間がかかる。常に何枚を仕込めるか、戦いの前にどう準備するか。そこが分かってないと、いざという時に“持ってない”ことになる」
「……それ、けっこう怖いですね」
「怖いから、今のうちに失敗しとけ」
エリーナの言葉に、教室が少しだけ和んだ。
「というわけで、今日は各自の呪符構成を見直す。アルフレッドとソフィアは自由構成だが、あくまで自衛用の範囲で。ルーカス、アストリッド、エリクは教本に従って最低三種、最大六枚。明日までに提出しろ。エミリア、お前は……」
「どうせ見学でしょ」
エミリアはぷいっと顔をそむける。
「そうだが、記録係をやれ。紋様の組み合わせや発導状況をメモする。少しは役に立て」
「うわー、つまんない」
ぼやきつつも、エミリアはノートを取り出した。
授業はその後、個別の符術準備に入った。筆を動かす音、紙が擦れる音、静かなやりとりが続く。
ルーカスは、三枚の符を一枚ずつ丁寧に並べながら、教室の空気を静かに見渡していた。
以前の特別教室は、もっと静かだった。それが今は──どこか、賑やかだ。
アストリッドが墨をこぼしそうになって、ソフィアが無言で手を添える。エリクの筆運びは正確で、アルフレッドの呪符はすでに仕上がっている。エミリアはそんな皆の様子をノートにメモしていく。
変わったな、とルーカスは思う。
騎士として、戦うだけだった頃にはなかった空気だ。
それが悪いとは、思わない。
自分は剣でも槍でも符術でも、できることをただやるだけだ。
ルーカスは筆を握り、四枚目の呪符に取りかかった。
今回の授業回は、特別学級にとっては“日常”の一幕ですが、その裏では少しずつ変化してきた時間の流れがあります。
この教室は、もともとルーカス一人から始まりました。その後、エミリア、アストリッドと人数が増えていきましたが、当時はまだ「騎士としての訓練」が中心で、符術の授業はそこまで重視されていなかったと思っています。
転機があったとすれば、おそらくアルフレッドの加入です。符術士としての理論や技術を持ち込んだことで、教室全体の符術教育が本格化し始めた――そんなイメージで構成しています。ソフィアの登場でさらに層が厚くなり、今では騎士と符術の両軸で授業が進められるようになりました。
生徒たちの「習熟度の差」は、表にはあまり出ていませんが、根底ではずっと存在していて、それぞれがどんな過程で今の立ち位置にいるのか──そういう部分も、少しずつ描いていければと思っています。