ep.16 市場にて
王都の南に広がる市場。
課題という名目で訪れたエミリア、アルフレッド、ソフィアの三人は、
人と物が行き交う通りの中で、それぞれの視点から王都の息づかいを感じ取っていく。
訓練でも戦闘でもない一日。
香りと音に満ちた市場で、彼らが見つけたのは――ほんの少しの温かさだった。
その日、市場を歩いていたのは特別教室の三人。課題の一環として訪れてはいたが、指示らしい指示はなく、「見てこい」と言われただけだった。
「剣の手入れ用の油を探してるはずなのに、干し果物の匂いでお腹が鳴りそうなんだけど」
エミリアがため息混じりに言いながら、近くの屋台をちらりと見やる。干し果物と香草が並ぶ屋台から、甘酸っぱい香りがふわりと漂っていた。
「わかる気がする。あっちの屋台、香草を炙ってるから匂いが回ってきてるんだな」
アルフレッドが周囲を見回しながら応じると、ソフィアも小さく鼻を動かした。
「……お腹すいたかも」
「ほらね、やっぱり私だけじゃないじゃん」
エミリアが笑いながら肩をすくめる。石畳の道の左右には、布で日差しを遮った屋台が所狭しと並んでいた。行商人の掛け声、香辛料の匂い、魚を捌く音、焼きたてのパンの香り――五感すべてが忙しい。
「全部が並んでるようで、実はバラバラ。でも、無造作に見えて、ちゃんと“流れ”があるのよね」
エミリアがふとつぶやく。天幕越しに差す日差しに目を細めながら、屋台の並びを見渡す。
道具屋の隣に革細工の店、干し肉の隣に香草屋。隣接する物の組み合わせは、よく見ると使い道や保存方法が似ていたり、調理に一緒に使われることが多かったりする。
「無意識に動きやすく作られてるってことかもな」
アルフレッドが頷く。雑然としているようで、どこか整理されている。市場の通りが人の動線によって自然に形づくられてきたことを感じさせた。
少し歩いた先、大きな石窯のあるパン屋の屋台に目が留まった。丸く焼かれたパンが山のように積まれ、その隣には乾燥果実を練り込んだ菓子パンが並ぶ。
王都では、東部平原から運ばれる小麦粉を使ったふわふわの白パンが主流だ。通りにはこうした焼き立ての匂いを漂わせる屋台がいくつも並んでいる。
「……あれ、北部高原のパンだね」
アルフレッドが立ち止まり、パンの断面をのぞき込むようにして言った。
「え、そうなの? 見ただけでわかるの?」
エミリアが少し驚いたように目を向ける。
「うん。焼き色が深くて、あまり膨らんでない。目も細かくて、生地がぎゅっと詰まってる。東部の小麦だと、もっと軽くてふんわりするから」
彼はパンの表面を見ながら続ける。
「たぶんだけど、この店は北部の粉をわざと使ってる。寒冷地の小麦は粒が硬くて水を吸いにくいから、こういう焼き上がりになるんだ。しっとりしてるけど、密度がある」
「……なんでそんな詳しいの?」
「前に一度だけ、似たパンを食べたことがあって。妙に重たくて気になって、少し調べた。……まあ、癖みたいなもん」
アルフレッドは軽く笑う。エミリアは呆れたように笑いながら、視線をパンの山へと戻した。
「たしかに、普通のパンとは違う感じがするね。手に持っただけでずっしり来そう」
横で見ていたソフィアが、湯気を立てるパンを見つめながら小さくつぶやく。
「……こういうパン、香草と合わせると合う。匂いが残りやすいから、混ざる感じが気持ちいい」
「香草の香りがパンに染みる感じ? あー、たしかに合いそう」
エミリアも軽く頷いた。
「このパン屋さん、たしかスープも出してたよね?」
彼女が視線の先にある鍋を指さす。中には東部から届いた根菜や葉物が煮込まれており、香辛料の香りが湯気とともに立ち上っていた。
「豆と芋の煮込みだな。……食べ歩きって課題じゃなかったっけ?」
「いやいや、そんな課題出てないから」
ふざけるように言い合いながら、三人は通りを進んだ。
やがて、干し魚や燻製を扱う小さな屋台が現れた。西部の川でとれる淡水魚は量こそ少ないが、塩や香草で保存されたものは市場でも重宝されている。
「燻製の匂い、服に付きそう……」
エミリアが屋台に目をやりつつ顔をしかめる。
「保存には向いてるけどね。あんまり好きな匂いじゃないかな」
アルフレッドの言葉に、ソフィアが「でも私はけっこう好き」と付け加えた。
通りを折れ、三人はやや奥まった小道へと入る。そこには革の天幕の下に構えられた、小さな油屋があった。
「前にここで油を混ぜてもらったの。ルーカスの槍の手入れに付き合ったときだったけど、剣にも使ってみたらなかなか良くて」
そう言いながら店先に近づくと、店主が顔を出して笑った。
「おや、嬢ちゃん。また来てくれたか」
「久しぶり。今日は剣用で、ちょっと粘度のあるやつが欲しいの。刃の根元にクセがあってさ、細かいとこに残りすぎないやつがいい」
「なら、これかな。最近仕込んだ混合油。香りも薄いし、保持力もある」
エミリアは瓶を手に取り、光にかざしてから鼻を寄せる。
「うん、悪くない。……これ、もらうね」
代金を払い、瓶を受け取ると、アルフレッドが横から尋ねた。
「さっきの油、そんなに違うのか?」
「うん。たとえばだけど、粘度が合わないと滑りが悪くなるし、臭いが強いと鞘に残って気になるの。使いやすいって、大事だよ」
「なるほどね」
納得したようにアルフレッドが頷く。その横で、ソフィアは屋台の並びを見ながらふと足を止めた。
香草と干し果物を扱う屋台。その手前に並べられた袋のひとつに、彼女は手を伸ばす。
「これ……前にお風呂に入れたやつと似てる。香りが長く残って、髪にふわっと移ったの。……好きだった」
「覚えてるんだ、そういうの」
アルフレッドが感心したように言うと、ソフィアは小さく頷いた。
「布に使えるかも。仕立てたあとに包んでおくと、いい匂いが移るかも」
「香り付きの服。お洒落な騎士様だな」
エミリアが笑いながら言い、ソフィアは香草をそっとポーチにしまった。
市場通りの出口が見えてくるころ、日差しはわずかに傾き始めていた。石畳に伸びる影が少し長くなり、風に混じる匂いも朝とは違って感じられる。
「そろそろ帰ろっか」
エミリアの声に、アルフレッドとソフィアが頷く。
「今日のうちに提出用の報告まとめとくよ」
「……うん、たぶん忘れるからお願い」
「最初から頼る気だったでしょ」
「ばれた?」
三人の笑い声に混じって、遠くで誰かが焼き上がったパンを取り出す音が聞こえた。
市場の喧騒はまだ続いている。果物の香り、香草の煙、石窯の熱気、通り過ぎる声――、それらが石畳の上に溶け込むように広がっていた。
作中でアルフレッドが口にした「北部高原のパン」は、
この世界でも少し珍しい食べ物のひとつです。
東部の平原で採れる小麦は粒が柔らかく、水を吸ってよく膨らむため、
焼き上がりが軽く、ふんわりとした白パンになります。
一方で北部高原の麦は、風が冷たく土地が痩せているぶん、粒が小さく硬い。
粉にしても粘りが弱く、生地は重く、焼くと目が詰まった“黒っぽいパン”になります。
その代わり、噛むほどに麦の香ばしさが強く、
少しの塩気や香草の風味がよく合う――そんな素朴な味です。
この章でアルフレッドが言っていた「密度がある」という表現は、
まさにその咀嚼の満足感を指しています。
東部のパンが「ふわっと香る幸福」なら、
北部のパンは「噛みしめて感じる安心」――そんなイメージで書きました。
ちなみに、エミリアが気にしていた“香りの強い油”や
ソフィアが選んだ“布に移る香草”も、同じ市場で売られている設定です。
市場は、物の取引だけでなく、
人々の記憶や文化の香りが交差する場所でもあるんですね。




