ep.2 教室の風景
教師であるエリーナから告げられた、“視察”の日。
「え〜、もうそんな時期?」と、誰かが気の抜けた声をあげる。
古くからいるメンバーにとっては何度目かの行事でも、入ったばかりの二人にとっては、初めてのこと。
緊張と、少しだけの戸惑いが混じった、特別学級の午後。
教室の空気は、今日はどんなふうに動くのでしょうか。
昼の訓練を終えた教室には、まだ靴音と剣の残響が微かに残っていた。
干しかけの汗と、春の風の匂い。開け放たれた扉の向こうでは、校庭のどこかで木剣がぶつかる音が聞こえてくる。
生徒たちはそれぞれの席に戻り、水を飲んだり、道具を片づけたりしていた。
その中で、エリーナは教室の前に立ち、何気ない口調で口を開いた。
「来週、騎士団からの視察がある」
静かに放たれたその言葉に、教室の空気がわずかに動く。ざわつくほどではない。ただ、数人の手が止まり、いくつかの視線が自然とエリーナに向いた。
「形式はいつも通り。予定してる訓練をそのままやってもらう。こっちから特別に見せ物をする気はない」
エリーナは言いながら、後ろ手に窓の外をちらりと見た。校庭には別のクラスが整列訓練をしている様子が見える。
「特別教室って看板に興味を持つ連中は少なくない。こっちが妙に構えて見せる必要もないが、あんまりだらけてても目立つぞ。……以上」
話が終わると同時に、ルーカスが黙って頷いた。彼にとっては何度目かの視察だ。特別な感情は見えないが、受け止める姿勢はしっかりしている。
「……来週、か」
アストリッドが腕を伸ばし、背もたれにのけぞるようにして言った。ぽつりと呟いたその声には、緊張というよりも、どこか面倒くさそうな響きが混ざっている。
「また見られるのかぁ。ちょっとは可愛い服でも着ていこうかな」
「制服、着なよ」
アルフレッドが苦笑しながら、机に広げた符の紋様を見つめたまま返す。
彼の声は柔らかく、けれどどこか呆れたような色が混じっている。
「わかってるって。冗談だよー。でも、いつもより多いの? 見る人」
「多くなるかもな。話を聞きつけた連中が“見学”に来るらしいからな」
エリーナの言葉に、アストリッドは「うわ」と顔をしかめる。だがそれも一瞬で、すぐに椅子の上であぐらをかき直した。
そのやりとりを、教室の隅でエリクは静かに聞いていた。彼の手元には半分描きかけの符があり、筆を持つ指が微かに止まっていた。
「……初めてなんだよな、俺」
ぽつりと漏らしたその声に、近くにいたソフィアが顔を上げる。
「エリクも? わたしも、初めて」
「うん。姉さんたちは何度もやってるし、アルフレッドも慣れてる感じだし……どう振る舞えばいいのか、正直まだ分からなくて」
エリクの声は穏やかだが、筆先には少しだけ迷いが残っていた。
ソフィアはしばらく黙って考えるようにしてから、ふわりとした口調で言った。
「大丈夫。エリクの剣、いつも落ち着いてて、きれいだよ」
「ありがとう。ソフィアの符術もすごい。あんなに広い範囲、一瞬で制御できるの、正直びっくりした」
二人のやりとりに、遠くからアストリッドの声が飛ぶ。
「初めてってそんなに気にしなくていいよー。最初なんて誰だってガチガチだったし。私なんて緊張して転んだからね、マジで」
「それは、アストリッドが普段から落ち着きないだけじゃ……」
アルフレッドが苦笑しながらぼやく。
隣のルーカスが小さく笑い、教室の空気がわずかに和らいだ。
「けどまあ、気持ちはわかるよ。俺も最初は呪符の順番間違えて、変な風に煙出してさ。先生に“それ、焚き火か?”って言われたの、今でも覚えてる」
「言ったな、そんなこと」
エリーナが苦笑混じりに呟き、ルーカスが肩をすくめるようにして視線を逸らした。
その先には、窓辺に立つエミリアの姿がある。彼女はずっと外を見ていたが、ふと、こちらに振り返った。
「姉さんは、緊張とかしないの?」
エリクの問いに、エミリアは首を軽く傾ける。
「最初の頃は、したよ。けど、慣れたってだけ。誰に見られてても、やることは変わらないしね」
「うん……そうだね」
エリクが微かに笑う。エミリアの言葉は押しつけがましくない。ただ、まっすぐな響きを持っている。
「そんじゃ、練習するか」
アストリッドが立ち上がり、軽く腰を回す。
「どうせ見られるなら、ちゃんとやってるとこ見せてやんなきゃ。なあ、ルーカス?」
ルーカスは無言のまま立ち上がり、槍を肩に担ぐ。
その背中を見送りながら、エリクもまた筆を置いた。
「俺も、もう少し動こうかな。慣れておきたいし」
「じゃあ、あとで手合わせするか。軽くでいいなら」
アルフレッドが微笑みながら声をかける。
視察はまだ先だ。けれど、その日に向けて、彼らの日常が少しずつ、音を立てて動き出していた。
特別教室のメンバーは、教師の裁量で直接スカウトされて集められています。
この教室を立ち上げたのはエリーナ。今から三年と少し前のことです。
最初の生徒はルーカス一人でしたが、そこから少しずつ目をつけた者をスカウトし、やがて今の形へと育ててきました。
教室の構成も運営も、基本的には教師の自由。
他の教室でも、それぞれの教師が自分なりの方針で、生徒を集めていることでしょう。
エリーナの場合は──どうやら、小隊編成を意識した構成にしているようです。
ようやく人数と体制が整った“エリーナ教室”。その姿は、視察に来る騎士団の目にどう映るのでしょうか。
特別教室としての歩みは、まだ始まったばかり。
この教室が、これからどんなふうに育っていくのか──ゆっくり見守っていただければ嬉しいです。