ep.13 朝靄の実験
昨日の夜、寝る直前まで机にかじりついていた。
自分で考えた三紋構成の術式が形になって、呪符もちゃんと共鳴した――それだけで、胸がすこし高鳴る。
今日の朝一番、訓練場の使用申請も出してある。ちゃんと許可は取った。
もちろん、術の確認はアルフレッドが一緒にやるはずだったけれど……。
「……まあ、ちょっとだけなら、いいよね?」
まだ朝靄の残る石畳を、制服の裾を揺らして、ソフィアがひとり進んでいく。
小さな呪符をぎゅっと握りしめて――彼女は、訓練場へと足を踏み入れた。
朝靄の訓練場には、まだ誰の姿もなかった。夜の涼しさが残る空気の中、石畳にはうっすらと露が浮かび、草の葉先では小さな水滴が静かに揺れている。
その中を、霧を押し分けるようにして、小さな影が現れた。――ソフィアだった。
制服は彼女の体にまだ馴染んでおらず、長めの袖と裾が歩くたびにふわふわと揺れている。袖の奥から覗く細い指先が、一枚の呪符をぎゅっと握りしめていた。
昨日作成した三紋術式の呪符。訓練場の使用許可も取って、今日はその試し撃ち――の、はずだった。
――本来なら、アルフレッドの立ち会いのもとで。
けれど、誰もいない静かな朝と、手の中の呪符を見つめているうちに、胸の奥に小さな衝動が灯る。
「……ほんのちょっとだけ、試してみるだけ、だから」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、ソフィアは訓練場の中央へと向かった。朝露に濡れた草地を抜け、やがて乾いた土を踏みしめて、石畳の広場へと進み出る。靴底が石を打つたび、かすかな音が静けさを強調する。
深呼吸をひとつ。
「『風さん、ぐるぐる集まって……』それで、“ぱん”ってしてくれたら……」
子供じみた起導の言葉。彼女は昔から、こうやって術を起こすのが好きだった。
呪符が、ふっと光を帯びた。
風が舞う。最初はそよ風のようだったそれが、瞬く間に渦を巻き、彼女の髪を揺らし、地表をなぞるように砂を巻き上げる。
紙片の中心へ、風がぎゅう、と引き寄せられていく。空気の密度が変わるのを、肌で感じる。
「……あれ?」
違和感が走ったのは、その直後だった。
風の力が一点に収束していくはずなのに、圧が分散している。方向が定まらない。中心で膨れ上がる風の塊が、出口を求めて震えているような――そんな感触。
けれど、もう術は動き始めてしまっていた。
――ドォン!!
炸裂音とともに、圧縮された風が一点に集中し、瞬間的に解き放たれた。
訓練場の中央に、局所的な突風が生まれる。
朝靄を裂いて、砂混じりの風が四方へ放たれた。ごうっ、と空気を巻き込む音とともに、石畳の表面をなぞるように風が駆け抜ける。
地面に溜まっていた細かな砂粒が、術の中心から放射状に散っていく。まるで見えない円環が地上に刻まれたようだった。
衝撃は範囲こそ狭いものの、密度が異様に高く、ソフィアの制服が煽られる。身体がふわりと浮きかけ、そのまま尻餅をついて倒れ込んだ。
耳には風が裂けるような音が残り、目の前には舞い上がる砂がかすかに残像を引く。
呪符は完全に燃え尽き、指の間から頼りない灰がふわふわと落ちていく。
風はすでに止み、靄も薄れていた。訓練場の中央には、そこだけ色が変わったような痕跡が残る。
石畳の目地には、わずかなズレが生じていた。表面の土が吹き飛ばされ、硬い地肌がわずかに覗いている。
ほんの数歩分の広さ。だが、その一点に集中した力は確かに跡を残していた。
その中心に、ソフィアがいた。
「……つ、つよ……」
尻餅をついたまま、呆然と目を見開く。呪符は跡形もなく燃え尽き、紙片の名残が指の間からふわりと舞った。
膝が震えて、すぐには立てない。視界がぐらりと揺れた、その時――
「ソフィア!」
背後から駆け寄る足音。声とともに現れたのは、アルフレッドだった。
「ソフィア! 大丈夫か? 怪我は……」
彼は慌てた様子でしゃがみ込み、ソフィアの体に目を走らせる。
流血もない。骨折を疑わせるような歪みも見えない。
呆然とはしているが、意識はあるようだった。
「……なんとか、だいじょぶ。ちょっと倒れただけ……」
ソフィアがか細い声でそう答えると、アルフレッドはようやく小さく息をついた。
緊張で張りつめていた肩が、わずかに下がる。
無事だ――そう確信した、その直後。
ごつん!
容赦ない拳骨が、ソフィアの頭頂部に落ちた。
鈍い痛みが頭に響き、思わず頭を押さえる。
涙が滲むが、それ以上に、目の前のアルフレッドの顔の方が怖かった。
「何やってんだ、まったく……」
彼の声には、呆れと怒りが入り混じっていた。
「待ってたんだぞ。準備室から許可証持ってきて……って、なに、これ?」
アルフレッドは訓練場をぐるりと見渡し、眉をしかめた。
中央の一角では石畳が微かに浮き、隙間から土がのぞいている。周囲には放射状に散った砂粒の跡がくっきりと残っていた。
「……これ、本当に三紋?」
呟くように言いながら、ソフィアの足元に目を落とす。そこには燃え尽きた呪符の灰が、まだ薄く残っていた。
「構成、まだ見てないんだけど……何を組んだ?」
「えと、風と……風と、あと“ぱん”ってやつで……」
ソフィアの声は、少しだけ上ずっていた。自分でも答えになっていないことは分かっている。
「“ぱん”って……それは構成じゃなくて感覚の話だろ」
アルフレッドは呆れたように目を伏せ、ため息をつく。だが、声を荒らげることはなかった。
地面の灰を拾い、指先で軽く転がしてみせる。
「……発導は綺麗に済んでるね」
しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく唸った。
「おそらく――風の圧縮が限界近くまで集中しすぎたんだ。収束はしてたけど、方向制御が抜けてたんじゃないかな?」
「……うん。たぶん……」
「となると、外に抜ける前に術そのものが自壊したんだ。威力は出るけど、扱いを間違えれば爆弾になる。……そういう構成なんだよ」
「う……そんなの……」
ソフィアは言葉を失い、ぎゅっと指を握る。
「ちゃんと“ぱん”って飛ばしたかったのに……」
「“ぱん”って言うなら、その“向き”を決めてやらないと。呪符は思い通りには動かない。構成は文法みたいなものだから。抜けてたら、術は迷う」
アルフレッドの声は淡々としていた。責めるでも、怒鳴るでもなく。ただ、重みのある言葉が、ソフィアの胸にじわりと落ちてくる。
「ごめんなさい……勝手に撃っちゃって……」
「まったく……」
彼はもう一度溜息をつき、制服の内ポケットから筆記具を取り出した。
「……三紋でこの出力、構成表には載ってないな。検証班に回す。記録取るから動くなよ。ソフィアが無事だったのが、唯一の救いだ」
そして、ぽんと彼女の頭に手を置いた。
「次は、絶対に俺がいる時にやること。いいな?」
「……うん……」
「――で」
彼は軽く笑った。
「実際、ちゃんと構成できてたら、たぶんすごくいい術になる。素材は悪くない。次こそ、成功させような」
「ほんとに……?」
「ほんとに」
小さく、けれど嬉しそうに、ソフィアは頷いた。
アルフレッドはもう一度あたりを見渡し、苦笑するように肩をすくめた。
「……とはいえ、勝手に術を撃ったことには変わりないからね。あとで教官に報告しないと」
「えっ……」
ソフィアが小さく声を上げる。
「心配しなくていいよ。とりあえずは医務室。念のため、診てもらおう。立てるか?」
「う、うん……」
少しふらつきながらも、ソフィアは頷いて立ち上がった。アルフレッドが軽く腕を貸すと、素直にその支えに寄りかかる。
訓練場を後にする二人の背に、ようやく登校を始めた生徒たちの姿が遠くに見えた。
「なに、さっきの音……? 訓練場からじゃない?」
「誰か起導ミスったんじゃね?」
ざわつく声が、朝靄を割るように広がっていく。
ソフィアはフードを深く下げて、それが自分のせいだとは口にしなかった。
アルフレッドもまた、何も言わずにその隣を歩いていく。
中央の空気はすっかり澄んでいた。
わずかに動き出した風が、広場の端に残った靄を押しやっていく。
試してみたい。
――そう思ってしまった時点で、もうだいたい負けなんですよね。
頭では分かってるんです。手順を踏むべきだし、確認も必要。誰かの立ち会いがいる。
けれど、それでも、「今、試してみたい」っていう気持ちが、じわじわと心を押してくる。
ブレーキを踏める人もいます。慎重に、一歩ずつ進める人もいる。
でもソフィアは、たぶんその逆。
気になったら、動いてしまう。気になって、我慢できなかった。
結果として訓練場はちょっとした騒ぎになり、アルフレッドは怒り、そして――
エリーナ教官には、きっちり反省文を書かされました。もちろん二人ともです。
でも、こういうのって、成長の種でもあるんですよね。
……教官の前でそれ言ったら、たぶんもう一枚追加されますけど。




