ep.11 図書館にて
王都の図書館で、アルフレッドは姉ラティシアと久しぶりに言葉を交わす。
家族の記憶、母から教えられた符術の心得、そして過去と向き合う静かなひととき。
静寂に包まれた場所で、受け継がれていくものを見つめ直す短い物語。
薄曇りの午後。
王都の図書館は、知と記録、そして人の思いが静かに積み重ねられてゆく場所だった。
ここには、試行錯誤を記した符術の草稿も、日常に寄り添う技術書も、夢と願いを綴った物語も、同じ棚に並んで眠っている。
身分も年齢も関係なく、どの知識も平等に価値を持ち、すべての来訪者に開かれているこの場所は、王都における静かな“心の拠り所”だった。
高い天井を支える白い円柱の間を、柔らかな灯火が照らし出す。
人々の足音や紙を繰る音すら音楽のように響く静寂の中、数名の司書がそれぞれの持ち場で黙々と手を動かしていた。
帳簿の記録、返却本の整理、来館者の案内。老司書の落ち着いた声が、若い見習い職員に作業手順を教える様子も見える。
そんな中に──ひとりの女性の姿があった。
「……あら?」
帳面から顔を上げたのは、淡いブルーの司書服をきちんと着こなした若い女性。
栗色の髪をきっちりまとめた彼女──ラティシアは、扉の向こうに立つ人物を見て、少し驚いたように目を見開く。
「アル?」
「久しぶり、ラティ姉さん。元気そうでよかったよ」
「ほんとに久しぶりね。アルは変わりない?」
「特に変わったことはないよ。授業も訓練も真面目にやってる。……まあ、相変わらず先生には怒られるけど」
冗談めかして言う弟に、ラティは少し口元を緩める。
「そう? でも最近、家にはまったく顔を出してないじゃない。母さん、ちょっと寂しがってたわよ」
「そう言われると……そうだね。今度、帰るよ」
「“今度”じゃなくて、“ちゃんと”帰ってきなさい」
さらりと言いながらも、言葉に含まれる温度はあたたかい。
アルフレッドはふっと肩の力を抜き、姉の言葉に安心する自分に気づく。
「母さん、変わりない?」
「うん、元気よ。研究所にはちゃんと通ってるし、家でもあいかわらず書庫にこもってるわ」
ラティは、棚に手を伸ばしながらさらりと言った。
「そうなんだ。……最近は?」
「少し余裕もできたみたい。昔の仲間が顔を出してくれると、ちょっと嬉しそうなのよね」
ラティは、カウンターの端にまとめていた布帯を整えながら、静かに言った。
その表情には、母親への尊敬と、かすかな寂しさがにじんでいるようにも見えた。
「……父さんのこと、時々考える?」
アルフレッドの問いに、ラティはふと手を止めて、穏やかに目を伏せた。
「ええ。最近は特に。お母さんの話を聞いてると……ふと、お父さんの事を思い出すの。どんな声をしてたっけって」
アルフレッドは頷く。
父は、騎士団と行動する符術士として、幾度も危険な現場に立っていた。
十年前、亜人の襲撃の際、逃げ遅れた子供をかばって──帰らぬ人となった。
「……母さんは、最近も父さんのこと、話す?」
「たまにね。昔より、やわらかくなったわ。お母さんもようやく、お父さんのことを静かに思い出せるようになったのかも」
ラティの言葉に、アルフレッドは、わずかに肩をすくめて笑った。
「……昔の話だけどさ。紋様の筆順を一箇所だけ間違えたとき、朝から説教されたことがあって」
「ええ、覚えてるわよ。お母さん、そういうところ本当に厳しかったもの。たとえ術そのものに影響がなくても、筆の動きや形まで全部、意味があるって」
「正直、子どもながらに“意味あるの?”って思ってたけど……最近ようやく分かる気がしてきたよ。細かいとこを雑に扱うと、どこかで綻ぶんだよな」
ラティはくすりと笑い、小さく頷いた。
「“手順を省く者は、心を省く者と同じ”──そう言ってたものね。筆順ひとつでも崩れると、他のことも雑になるって」
「……ああ、それ言われた気がする。三時間、延々と」
「ふふ……それくらいで音を上げてちゃだめよ。あなたの三時間なんて、短い方。わたしなんて半日説教されたことあるんだから」
「泣くほど?」
「ええ、何度も。まだ小さかったし、“どうしてダメなのか”ってわからなくて。でも今思えば……あの人なりに、ちゃんと教えてくれてたのよね」
アルフレッドも自然と笑みをこぼす。
「……でも、そうやって教えられてきたのに、姉さんは符術士にならなかったんだな」
ラティは少しだけ目を細めて、静かに笑った。
「覚えておくのと、使い続けるのは別だからね。お母さんみたいに教える側になる覚悟もなかったし……」
少し言葉を選んでから、ラティは付け加える。
「私は“きっちり”より“丁寧に”のほうが、性に合ってるみたい」
アルフレッドはその言葉に、ふっと笑った。
「……姉さんらしい」
ふたりの間に、どこか穏やかな沈黙が流れる。
言葉にされない記憶や思いが、静かに重なっていた。
やがて、アルフレッドがふっと息を吐いて、姿勢を正す。
「……まあ、厳しいのは間違いないけどさ。でも、たしかに母さんの言葉って、どこか残ってるんだよな」
冗談めかして言いながらも、アルフレッドの声にはどこか敬意が混じっていた。
厳しさの裏にある真意を、彼もまた年齢なりに理解してきているのかもしれない。
そして、彼はカバンの中から一冊の書物を取り出し、そっとカウンターに置いた。
「エリーナ先生が借りた本なんだけど、今日は俺が返しておくことになってね」
「……あら、代理なんて珍しいわね。あの先生、自分で来るの好きだったでしょうに」
「最近忙しいみたいだよ。授業も立て込んでるし、いろいろ調べ物もしてるみたいだった」
ラティは本を受け取り、表紙に目を落とす。
「『王都南壁魔獣襲撃記録』……この本、まだあったのね。随分前に整理対象になってたはずだけど……」
彼女はぱらりと何ページかを開き、内容を目で追う。
「……騎士が百三十七名、魔術師が十一名……当時の王都南壁の守備に動員されたほぼ全員が応戦、半数以上が戦死。……改めて、重い記録ね」
「授業で、先生がこの話をしたんだ。……騎士団にいた人の実体験だったって」
「そう。先生のお父様、あの時現場にいらしたのよね。……私も詳しい話は聞いたことがなかったけど、昔、お父さんがぽつりと呟いていたわ。“あのとき、符術があれば……”って」
アルフレッドはページを閉じかけた姉の手元に、静かに視線を落とした。
「……でも、今はある。俺たちの手に」
「ええ。だからこそ、伝えていかなきゃならないのよね。ただ力を持つんじゃなく、それがどうして生まれたのかを」
ふたりの間に流れたのは、沈黙ではなく、共有された意志のようなものだった。
ラティが本を閉じ、丁寧に所定の返却棚に置いたころ、奥のほうから若い見習い司書が来館者に小さな声で対応する様子が見えた。
棚の陰からは、老司書の穏やかな語りが聞こえてくる。
図書館は今日も変わらず知を運び、人を迎え入れている。
ラティは、返却手続きを手早く終えると、本を丁寧に棚の脇へ移した。
カウンターの向こうで、アルフレッドが軽く手を挙げる。
「じゃあ、また」
「ええ、気をつけてね」
短く交わされた言葉のあと、弟は静かに図書館を後にする。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、ラティはひとつ息を吐き、帳面を手に取り直した。
周囲の静けさが再び戻ってくる。
返却処理、来館者の記録、貸出簿の整理──いつもの業務が、また静かに動き始めていた。
漢字の筆順って、たまに気になってしまうんですよね。
「あれ?紋様の“紋”ってどんな筆順だっけ……?」みたいな。
ちゃんと調べればわかるんでしょうけど、そこまでじゃないよな──そんなやつです。
別に間違えても読めるし、書ければいいはずなんですけど、気になる時もあるんですよね。
符術の紋様の筆順も、そんな感じなのかもしれません。




