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ep.9 南への地図

特別学級に戻ってきたエミリアたちは、午後の授業で改めて地理を学ぶことになる。

だがそれは単なる地図の読み方や地形の説明にとどまらず、王都の成り立ちと“南”に潜む脅威、そして神話との奇妙な符合をも含んでいた。

壁の厚みに込められた過去と、いまだ正体の知れぬ存在。

過去の出来事と伝承を重ね合わせるなかで、生徒たちは“世界の輪郭”を少しだけ濃く知ることになる。

午後の光が教室の窓から差し込む頃、特別学級の教室には再び六人全員が揃っていた。


「おかえり。神話の授業だったんだよね、懐かしいな」


アルフレッドが微笑みながら声をかける。エミリア、エリク、ソフィアの三人が、それぞれの席へと戻ってくる。


エリクは静かに頷き、ソフィアはぽやっとした顔のまま「宝玉の話、覚えてた」と呟いた。アストリッドが机に肘をついて、「あれでしょ、堕天の神と七つの宝玉の話。わりと好きだったよ」と懐かしそうに笑う。


「なんだ、みんな意外と覚えてるのね」とエミリアが言えば、「ちゃんと授業受けてたからな」とルーカスがそっけなく返す。


笑い混じりのやりとりに、教室には一時の和やかさが戻った。


そのとき、扉が開いた。エリーナが教室に入ってくる。わざわざ声を張ることもなく、目線ひとつで空気が引き締まる。


彼女は教卓の前に立ち、短く告げた。


「今日は改めて地理をやる。特に南方面について重点的にだ」


彼女が背後の黒板に向き直り、素早く王都とその周辺地域の簡略図を描いていく。見慣れた地形だ。だが、南の端に彼女の手が濃い緑の斑を描き加える。


「王都には北・東・西に城門がある。東は農耕地帯、西は大河と湿地帯、北は山岳方面への出入り口だ」


そしてチョークの先が、黒板の端へと移る。


「だが南には──門がない。最初から築かれなかった。理由は分かるな?」


「大森林ですね」とエリクが答える。


エリーナは頷き、濃い緑色の斑を南の地図に描き加えていく。


「“大森林”と呼ばれる広大な未踏域が、王都の南には広がっている。王都建設当初から、南方は“通じる道のない方角”とされ、門は設けられなかった」


チョークの動きが止まり、重ねて太く描かれた南壁の線に視線が集まる。


「この南壁は、他の城壁の倍以上の厚みを持っている。三か所の騎士団詰め所、五か所の見張り台が配備され、戦時には独立した防衛線として機能するよう設計された。それほどまでに、南は“最初から危険な領域”だった」


アストリッドが小さく手を挙げる。


「じゃあ……今、もし襲撃があるとしたら、南が一番危ないってこと?」


「その通りだ。騎士団の中でも南担当は最も警戒を要する部署とされている。というのも、南には“予測が立たない脅威”が集まっているからだ」


教室に、自然と静けさが広がった。彼女は黒板の南壁を軽く叩き、続けた。


「この壁がここまで分厚くなったのは、“最初から”ではない。理由は、三十数年前に起きた、ある事件にある」


生徒たちの視線が彼女に集まる。エリーナは静かに言葉を続けた。


「その年、大森林の奥から出現した魔獣により、南壁は一度、破られている」


淡々とした語り口のまま、彼女はチョークで小さく“×”の印を南壁の前面に記した。


「その魔獣は四肢で大地を踏みしめ、ゆっくりと、しかし確実に壁へと迫ってきた。長大な首を持ち、城壁とほぼ同じ高さに頭をもたげていたという。だが高さで壁を越えたのではない。その質量と力で、正面から壁を穿ったそうだ」


息を呑む音が、前列からわずかに聞こえる。


「壁を破り、王都へ向けて踏み込んできたが、迎撃に出た騎士団と魔術士によって大きな損傷を受けた。犠牲は大きかった──騎士団員数十名、魔術士十数名が命を落とした。それでもなお、撃退には至らず……魔獣は方向を転じ、森へ引き返していった」


「……逃げた、ってことですか?」アストリッドが小さく尋ねる。


「逃げた、と言っても良いが“退いた”と考えるのが自然だな。痛みを感じ、脅威を覚えたのだろう。……だが、完全には戻りきれなかった。森の縁に至ったところで、息絶えた。今も、あの亡骸は大森林の縁で眠っているとされている」


静かな言葉が教室の中に染み込んでいく。誰もがその光景を思い描こうとするが、はっきりとは浮かばない。


アストリッドが思わず眉をひそめた。「見た人……いるの?」


「ごく一部だな。三十年前、確かに森の縁付近で力尽きたはずだが……当時の記録は混乱の中で散逸している。地形も変わり、今では正確な位置は分かっていない。見つけた者もいたが、縁とはいえ踏み入れるのが難しい区域だ。下手に近づけば、別の何かに呑まれかねない」


エリーナは黒板の「南壁」の線をさらに太く書き加えた。


「この事件を受けて、南壁は全面的に補強された。他の三方とは違う“層構造”になり、内側に緩衝地を設け、たとえ突破されても即座に市街に被害が及ばぬよう造り変えられた。南門が設けられなかったのも、そうした経緯を踏まえてのことだ」


「最初から危ない場所だった上に、そんなことまであったなんて……」エミリアが呟く。


「それでも“防げた”ってのは、ちょっと……希望ある話だね」とアストリッドが腕を組む。


「希望とは言い難い。あの時の被害は、王都建国以来最大規模だった。今なお、それを越える脅威は現れていないが──だからといって、油断できるものではない」


エリーナの言葉は、重くも、どこか現実を淡々と語る響きがあった。


「北の山麓では、大柄な亜人がまれに降りてくる。単独あるいは母子の組で動き、必ずしも敵対的ではないが、ひとたび暴れれば、騎士数名でも抑えきれない。

東の森では、小柄な亜人たちが群れをなし、集落を狙う。時にリーダー格に率いられた集団行動も確認されている。集落が一つ、壊滅した例もある」


そして彼女の手が、再び黒板の「大森林」にかかる。


「──だが、南は違う。“姿を見せるもの”が必ずしも一番危険とは限らない。南から現れるものは、数も頻度も少ないが、出てきたときには、どこから現れ、どこへ消えたのかさえ分からない。そして……対応に当たった部隊が、丸ごと戻らないこともある」


その言葉に、誰かがわずかに息を呑んだ。


「南の森には、“名のない脅威”が潜んでいると考えろ。記録に残せぬほど深い霧のようなものだ。それが南壁が厚く、門も造られない本当の理由だ」


黒板の地図が、これまで彼らが暮らしてきた世界の“境界”として浮かび上がっていく。


教室の空気に、静かな重みが満ちていた。だが、エリーナの語調はあくまで平静だった。


「……大森林の奥って、ほんとに誰も入れないの?」


ソフィアの問いに、エリーナは短く頷いた。


「“確実に帰還する方法”が、まだ見つかっていない。部分的な調査は進められているが、ある地点より先では、目に見えない異常が起きる」


黒板の南部を指しながら、彼女は淡々と語った。


「たとえば、“昼夜の区別がつかなくなる”。日が沈んだはずなのに光が残り、あるいは昼のはずなのに一面の闇に包まれる。磁針が狂い、方角が失われる場所もある。そして……“光が届かない地”が存在する。四宝月の光すら、そこには届かない」


エリーナの言葉が黒板に残る静けさの中に染み込むように響いたとき、教室の後方からぽつりと声が漏れた。


「……なんか、それ、神話の話みたい」


エミリアだった。腕を組み、やや仰ぎ見るように黒板を見つめている。その顔には確かな関心の色があった。

彼女の呟きに、いくつかの視線が向けられる。


「堕天の神って、地上に落ちたあと南へ逃れたって話だったでしょ? 誰にも見つからない場所に隠れたって。あれ、大森林のことだったら……神話と現実、繋がってるんじゃないの?」


一瞬の沈黙のあと、アルフレッドがそっと頷いた。


「……確かに。あの話で出てきた“地上”が、現実の南方だったとしたら……辻褄は合うかもしれない」


「特に南が“誰も近づけない場所”なら、神の隠れ家にはぴったりだ」とルーカスが短く続ける。


「じゃあ魔界ってほんとにあるの?」アストリッドが笑い混じりに言った。だがその瞳には、冗談にしておくには少し強い光が宿っていた。


「それは分からない」とエリーナは応じた。「だが、神話と地理に共通点を見つけることは、学問の一つの道だ。伝承が実際の地理に由来する可能性は、十分にある」


彼女は黒板の南壁の辺りに手を置き、言葉を重ねる。


「この場所は、誰も立ち入れず、恐れられ、そして語り継がれてきた。人々の“恐れ”が形を取り、やがて物語になり、神話になったのだとすれば──その物語は、ただの作り話ではなく、“現実の反映”だったのかもしれない」


「地図って、ただの線じゃなかったのね」とエミリアがつぶやく。


「単なる線とか記号じゃなくて、その裏にある話が見えてくるっていうか」


「それが“地理を学ぶ”ということだ」


エリーナは教卓に手を置き、全員を見回す。


「地図はただの紙じゃない。何が脅威で、どこが要地か。なぜそこに壁があるのか。そういう問いを持たなければ、“地形”はただの風景だ。だが“理由”を知れば、それは戦略になる。生きるための知識になる」


皆が黙って頷いた。


神話と現実の地図。その繋がりに気づいたことで、彼らが今いるこの世界の輪郭が、少しだけ濃くなったように感じられた。

そんな空気の中で、エリーナが最後にひとつ、現実を思い出させる問いを投げかけた。


「じゃあ、最後に一つ。お前たちが南へ派遣されるとしたら――生きて戻るために、何を持っていく?」


唐突な問いだったが、それが教室に確かな現実感を呼び戻した。生徒たちは少し戸惑いながらも、やがてそれぞれに口を開いた。


「符術用具と……薬草の識別書ですね」とアルフレッド。


「……記録用の紙と筆記具。道や環境の変化を書き留められるように」とエリク。


「……軽い装備と、いつでも逃げられる脚力!」とアストリッドが笑いながら言うと、教室に小さな笑いが生まれる。


「よし。ならその方向で準備計画を立ててみろ。次の実習に役立つぞ」


エリーナの言葉に、全員がしっかりと頷いた。


こうして、“改めての地理”の授業は、ただの復習にとどまらず、彼らの中に新たな視点を刻み込んでいった。

魔獣の襲撃に関する話は、いわばこの世界の“地震”や“火山噴火”のようなもので、歴史に深く刻まれてはいるものの、全貌はまだ明らかになっていません。

そういった過去の大事件を神話と地続きの形でちらりと見せることで、少しずつ世界の広がりや奥行きを出していけたらと考えています。


ちなみに、亡骸の場所がはっきりしていないのは「地図に載らない場所」が存在する、という余韻を残したかったからです。

これから物語が進む中で、こうした伏線が少しずつ効いてくるかもしれません(あるいは全く効かないかもしれませんが)。

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