ep.1 特別教室の朝
王都の北端、城塞とともに築かれた学園の一角に、その建物はある。
古い石造りの二階建て、装飾も塗装も最小限で、遠目には物資倉庫と見間違えるほど地味な建物。それが“特別学級棟”だ。
朝の空気はまだ涼しい。けれど、春の終わりを告げるように、地面からは微かに緑の匂いが立ち上っていた。
エリーナは建物の前で一度立ち止まり、空を見上げた。今日は雲が少し多い。だが、雨にはならないだろう。
制服の上に羽織った黒い騎士コートが、そよ風にふわりと揺れる。
「今日も授業か……」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。教師としての生活も、もう何年目になるだろうか。
最初はこの仕事に気が乗らなかった。けれど、今となっては――
彼らがいてくれるから、案外、続いている。
ぎぃ、と扉を開けると、まだ誰も来ていない教室があった。
埃ひとつない教室。机の配置は昨日のまま。窓辺の花は水を得て少し元気そうだった。
教壇に向かって歩きながら、エリーナは思い出す。ここに生徒が集い始めた日のことを。
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最初にこの教室にやってきたのは、ルーカスだった。
無口な少年。槍を手に、戦場の空気を纏っていた。あの歳にして、すでに何かを終えていたような瞳。
正直、最初は採るべきか迷った。だが、彼の目を見て決めた。教える価値がある、と。
次に来たのは翌年の春。
投擲武器の腕前で注目されていたアストリッドと、剣技だけは文句なしのエミリアだった。
正反対の二人に見えて、どこか似たような空気を持っていた。明るく、まっすぐで、騒がしくて――
学園の空気を変えるには、ああいう生徒が必要だった。
三年目。
“符術士”という、まだ新しい分野から迎えたのが、アルフレッドだった。
臆病な目をしていたが、書きかけの呪符を見せたときの眼差しは、自信に満ちていた。
あれを見た瞬間、リーダーになれる器だと思った。なにより、彼の準備力と冷静さは貴重だ。
そして――
つい三ヶ月前。
エリクとソフィア。最年少と、もうひとりの符術士。
エリクはエミリアの双子の弟。姉とは違い、静かで、考えて動く。剣も符術も扱える、貴重な才の持ち主。
ソフィアは、まだ十三歳にして、符術にかけては大人顔負け。常にふわふわしているが、術式の理解力は異常なほど高い。
二人とも、欠けていたピースのように、今のクラスを形にしてくれた。
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エリーナは教壇に立って、空っぽの教室を一瞥した。
「……よくぞ、ここまで揃ったもんだな」
まるでバラバラの色のピースを無理やりはめたような、不揃いなクラス。
でも、それがいい。彼らは、いびつなまま、ここでしか輝けない光を持っている。
そして、それを導くのが自分の役目だと、今では思っている。
ふと、カツン、と階段を上がる靴音が聞こえた。
扉が開き、先に入ってきたのはルーカスだった。
彼は無言のまま一礼し、定位置の窓側の席へと向かった。
「おはよう、ルーカス」
「……おはようございます、先生」
それきり、沈黙。相変わらずのやつだ。けれど、そのやり取りが妙に落ち着く。
続いて、賑やかな足音が階段を駆け上がってくる。
「せんせー! 今日の授業、投擲だけ多めにしていい?」
教室に飛び込んできたのはアストリッドだ。
その後ろから、エミリアとエリクが並んで入ってくる。
「それ、ずるくない?」
「えー、エミリアはいつも剣の練習してるじゃん!」
二人のやり取りに、エリクが苦笑しながらついてくる。
最後に、やや遅れてソフィアがふらりと現れた。
「……あれ? 今日って何曜日でしたっけ……?」
「木曜だ。もう木曜だ。あと何回聞いたら覚えるんだ」
エリーナはそう言ってため息をつくが、どこか微笑んでいた。
こうして今日も、特別学級の一日が始まる。
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机に座りながら、生徒たちが次々と席に着くのを見守る。
皆、武器や道具の準備をしている。符術士たちは呪符を確認し、アストリッドは手のひらで短剣を回す。
エリーナは黒板に向かい、今日の予定を書き始める。
“午前:剣術・投擲訓練/午後:符術応用・複合演習”
静かに、しかし着実に、彼らは成長している。
この学園で、誰よりも不安定で、誰よりも可能性を秘めた彼らが。
「……今日も、いい授業にしよう」
チョークを置いたその瞬間、背中で声がした。
「よーっし! 今日も絶対勝っちゃうぞー!」
元気いっぱいに叫んだのは、アストリッドだ。
彼女の明るさが、教室の空気をぐっと引き上げる。
「何に勝つんだよ、それ……」
「ぜーんぶ! でしょ、エミリア!」
「うん。……負ける気なし」
「お、言うねぇ!」
「うるさい。始まる前から騒ぐな」
「ルーカス、こわ~い」
教室に、笑いと声が満ちていく。
エリーナは振り向かず、そっと微笑んだ。