蚊
昔から、 虫は魂を運ぶといわれます。
人が亡くなった時に、チョウチョがずっとついてくる、などなど。
一寸の虫にも五分の魂といいますが、虫の魂が人の霊に操られることはよくあるそうです。
夜、一人暮らしの部屋。金曜の夜。二十代OLの体験談。
それは金曜の夜。夏にしては涼しい日で、私は窓を開けてベッドに横になりました。
すぐ、蚊の飛ぶ音が聞こえてきました。
でも、疲れ果てて、起きてやっつける気にはならなくて。
羽音が止んだ瞬間、部屋の空気がピンと張り詰めました。そして、金縛りです。
全身が動かなくなった私の首筋に、虫が止まった感覚がありました。
特大の。印象としては手のひらサイズ。化物のような蚊に血を吸われる感覚がありました。
金縛りが解けても、怖くて布団から出られませんでした。
そのまま、明かるくなるまで過ごして、眠りに就きました。
おかしな夢を見た程度に考えていました。首筋には噛まれたあともなかったので。
翌日は土曜、夕方まで眠り、約束していた飲み会に出向きました。
その夜はたっぷり飲んで、無敵状態で帰宅しました。
自宅に着いたのは1時を回っていたでしょう。明りをつけたまま横になりました。
酔いがひいて目が覚めたのは3時前。仰向けに寝ていました。
その時、蚊の飛ぶ音が聞こえたのです。音の近さからすると、顔の前を飛んでいるはず。なのに、何もいない。それに気配が巨大すぎる、ハトくらいの蚊が飛んでいるようでした。
プーンという羽音がどんどん大きくなる、だが何も見えない。なのに、確かに何かがいる。不気味でした。
羽音はどんどん近づいてきます。やがて、頭蓋骨の中に巨大な蚊がいるように響いて、もう、狂いそう。逃げたい。でも、体が動かない。そして。
羽音が止まるやいなや、体にずしっと重みがかかってきました。
人に抑え込まれているみたいに。
でも、目を開けても誰もいません。
気配はする、明りはついている。何もいない。なのに、人の大きさに空気が歪んでいる。声を出せない。
パニックです。そこへフーッと、顔に冷たい息を吹きかけられる感覚。
次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走りました。
体に太い針が入る感覚。
ズッズッズッと頸動脈にささったストローが、私の大切な何かを吸っている。
血を吸われている。。。というより、命そのものを吸われていたと思います。
そのまま、気が遠くなりました。
気が付いた時には、夜になっていました。まる一日、寝ていたわけです。
起きてから、目は天井にくぎ付けです。
羽音こそしないものの。人間サイズの異形の気配を感じました。
金縛りが続いていたのでしょう。体が動きません。
せめて、電話に手が届けば助けを呼べるのに、スマホはいつもの場所、ベッドの右手に置いたのに。指先すら、ぴくりともしません。
なぜだろう。なぜ、こんな目にあわなきゃいけないのだろう。
私は、実家にあった熱帯魚の水槽を思い浮かべていました。
餌として入れられた小魚が弱々しく泳ぐ。
ワンルーム・マンションが、あの水槽とだぶりました。
今晩、私は食われるのだと。
やがて、雨音が聞こえてきました。カミナリも。
雷雨は一気に激しさを増し、開け放った窓から風と雨の轟音が聞こえます。
化物の気配。動けない私。
ひときわ、大きなイナビカリ。
次の瞬間、部屋の明りが消えました。だが、同時に、フッと空気が緩みました。
化け物が気を抜いたのでしょうか。
指先が動く。体はとてつもなく重いけれど・・・動く。
全力を尽くして右手を伸ばしました。誰かに、誰でもいい、人を呼ぶんだ。
手がスマホに触れた。顔の上に持ってくる。
でも、スイッチを押してもタッチしても反応がない。
そうだ、電源だ。スイッチを長押し。
でも、液晶は暗いまま・・・そうだ、二日もの間、充電をしていなかった・・・
だめだ。
とにかく、体を起こそう。部屋から出よう。
まず、うつ伏せになり、片ひざ立ちになりました。
ドアまで行かないと。焦る気持ちと、重たい体がせめぎ合います。
ベッドから降りた時、頭上から蚊の羽音が襲ってきました。
私は逃げるのに失敗したことを、全身で気づかされました。
また、空気が張り詰めて、体が動かなくなる。足も手もいうことを効かず、力が入らない。
その場にへたりこみました。
床の上に仰向けに倒れました。ベッドと並行に。
羽音と共に、体に圧がかかる。人にのしかかられているよう。
必死に動いたのに、餌食になる場所を変えただけでした。
あたり一帯が停電したのでしょう。街灯の明かりすら入ってきません。
雨は土砂降り、雷鳴は絶えることなく、遠くに近くにとどろき、特大の羽音と重なり、脳がかき混ぜられました。
羽音が止まりました。
体にずっしりと重みがかかります。ああ、また、吸われるのか。私は化け物に食われてしまうんだ。涙がこぼれました。
前日も感じた、これから命を吸うよ、という合図でしょう。フーッと冷たい息を顔に吹きかけられました。
次の瞬間、カミナリが走りました。
その光に一瞬、抑えてる者の姿が見えました。
巨大な複眼。注射針のような口、そして、私を抑えつける人間の腕。
恐怖よりも、こんなやつに殺されるのかという悲しみが涌いてきました。
首筋に痛みが走り、さらなる悲しさと痛みと絶望が心を覆う。
感情の渦の中、私は気を失いました。
翌日、月曜の昼。
無断欠勤を心配して、友人が訪ねて来てくれました。
いつも、一緒にお昼を食べる同期です。
酔って、鍵を開けたままだったことが幸いしたといえるでしょう。
衰弱しきった私のために、彼女は救急車を呼んでくれました。
点滴を打ち、一晩、病院のベッドで過ごしました。原因は不明ですが、全身が衰弱していたそうです。
昼休みを使って見舞いに来た友人に、週末の出来事を話しました。信じてもらえないのを覚悟の上で、部屋に帰りたくないといったら、予想外のことを話してくれました。
「私が占いを好きなのは知ってるよね。凄く当たる霊感占い師がいるの。その人ね、除霊とかもできるんだって。よければ、メールしてみようか」
彼女はその場でメールを出しました。二十分ほどでしょうか、返信がありました。
「今日でも明日でも来てください。危ないものに狙われています。決して、部屋には帰らないように」
短いですがストレートな警告です。
その夜、退院後に友人と占い師の元を訪れました。
場所は広尾のお洒落なバー。ブース席に年配の綺麗な女性が座っていました。霊能者というより、デザインとかクリエイティブな仕事をしている雰囲気の方です。
彼女の向かい側に座ると、名前を聞かれました。
しばらく、私をじっと見つめます。
私の目とか顔ではなく、その少し後ろに焦点がある視線でした。
「虫? 虫が見えます。これは、蚊ね。ああ、そういうことね。あの、蚊はメスだけが血を吸うんです。お腹の卵へ栄養を与えるために。たまたま、ですね。あなたは、たまたま、運の悪い奴に見込まれてしまったみたいです」
占い師は、とても、悲しそうな顔つきになり、かぶりをふってから話を続けました。
「三日前、通り魔事件があったのはご存知ですか。
あの事件では、妊婦の方が被害にあいました。彼女は怒りと悲しみにまみれて倒れました。
息を引き取る直前、彼女のもとへ、一匹の蚊がやってきました。妊婦さんが亡くなる直前の息と、血の匂いに引き寄せられたのでしょう。蚊が血を吸ってる途中に妊婦さんは亡くなりました。蚊はその無念の想いを背負ったようです。
お腹の子のために血を吸いたい、被害者と蚊の想いが混ざり合い、強い念になったようです。
偶然、あなたの近くへ、その蚊がいき、波長が合ってしまった。たぶん、相手は誰でもよかったんでしょうが」
あまりの理不尽さに、頭がまっしろになりました。
そして、妊婦の方の無念さに私まで悲しくなりました。
「あなたのそういうところ。他人の無念さに同期してしまう優しさ。それは大切なことですし。私も女性ですから、気持ちはわかります。でも、同情し過ぎない方がいいですよ」
占い師はそう言って、手帳を取り出しました。
「普通の除霊でなんとかできる話じゃないですね。あれを退治するには少し準備が必要なので、三日ください。今日と同じ時間にこの店に来てくれればいいわ。それから、決して自宅には帰らないこと。あれが待っています。ホテルでも、そちらのお友達のお家でも泊まってくださいね。とりあえず、今日はお守りをお分けします」
そう言って、図形が書かれたカードを渡してくれました。
護符だそうです。肌身離さずつけるように言われました。
その夜、友人の部屋で寝ているとプーンと蚊の羽音が・・・
心臓が止まりそうになりましたが。本物の蚊だったので、すぐに退治してくれました。
三日後、バーに行くと霊能者さんが待っていてくれて。
「あなたには呪いが深く入っています。
邪霊を倒すと同時に、呪いも取り除かないと、いずれは命をとられます。
それを防ぐにはこの方法しかないの。これをベッドに敷いて、その上に寝てください」
一メートルくらいの花束みたいな包みを渡してくれた。
「それはね、祈祷を施した特別な孔雀の尾羽。
孔雀はヘビや毒虫を喰らう強い鳥です。あなたに憑いてる奴の天敵よ。
霊界から霊鳥の孔雀を呼んで、奴を喰らってもらいましょう」
護符を必ずつけるようにとも言われました。
孔雀はあらゆる物を喰らうので、邪気、邪霊を喰らい尽くした後、あなたの魂をついばむかもしれないからと。
その夜、部屋に戻ると、相変わらず気配がしました。
あからさまな敵意。殺気が部屋に満ちていました。
私は教わったとおり、呪文が書かれた紙を読み上げながら、ベッドに孔雀の尾羽を置いていきました。その上にシーツを敷き、会社のIDカードケースに入れた護符を首から下げました。
本当に怖かったけれど。護符を握りしめて、ベッドに横たわりました。
明かりはつけたままです。
天井を見ると巨大な複眼の女がこちらを見ていると感じる。
何も見えないのに、ビジュアルで浮かぶのが怖ろしかった。
目を閉じると、またたく間に、部屋の空気が張り詰めていきました。
これは、前と同じ、金縛りになる前兆です。
私はひたすら、教えてもらった呪文を唱えました。
「おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか」
目を閉じているのに、部屋の情景がつぶさに見えています。
初めて化け物の全身が見えました。
巨大な複眼と太いハリみたいな口。背中に羽が生えている。
大きい胸とお腹を見ると涙があふれてきます。無念だったでしょう・・・いや、その気持ちが奴のつけ入るスキ。考えちゃだめ。ひたすら呪文を唱えました。
「おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか」
奴が飛びました。羽音が部屋を回る。私に飛びかかるのをためらっているよう。
一気に羽音が近寄り、冷たい息が顔にかかりました。
金縛りです。うそ、効かないの?
おびえと共に、首筋への痛みと、命を吸われる感触が思い出されました。
でも、体に圧がかかってきません。つまり、金縛りが進みません。
奴は私の上でブブブブと羽を震わせているだけ。
どうやら、さわれないようです。
「おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか。おん まゆ きらてい そわか」
さらに呪文を唱えます。ベッド、つまり、私の背中の下がもこもこと波打ちました。
すさまじい白い光が私の左右、ベッドを突き破って姿を現しました。輝く孔雀が五羽、尾羽の本数と同じだけ。
孔雀たちは鋭いくちばしで蚊の化け物をつつき、喰らいだしました。
複眼も乳房も腹もつつかれていく、またたく間に化け物の姿がなくなっていく。
だが、私の金縛りは解けない。もう、敵は消えたはずなのに。
すると、孔雀たちは私をつつき始めました。
痛い。
リアルに体を鋭いクチバシでついばまれる痛みが走る。
顔や胸や腹、全身のいたるところを突かれます。
声も出ない、体も動かない。このまま喰い殺されるのかと不安と痛みへの怖さで気を失いました。
目を開けると朝日がさしていました。
後日、占い師さんにお礼を言いに訪ねたら、無事でよかったと喜んでくれました。
孔雀に食い殺される可能性もあったけど、他に方法がなかったそうです。
今夜、もし、蚊の羽音が聞こえたら、この話を思い出してください。