さらば…
「この世はいつ何が起きるかわからない。それがどんなものなど誰にも予測できない…」
僕の父さんがよく僕や母さんや姉さんに言っていた。確かにほんとその通りだと思う。僕は今までウクライナのキエフで穏やかに暮らしていたけど、今から二年前にコロナウイルスが発生し、今ではウクライナを含めて世界中の人達がマスクをかけている。
以前まではマスクをかけるのはせいぜい風邪を引いた時だけだったけど、今は皆が常にマスクを着用している。仮に昔の人達が今の時代を見たら驚くか、異様な光景に見えるかもしれない。皆が常にマスクの着用。その光景はまるで『風の谷のナウシカ』みたいだ。
しかし、更なる悲劇が僕達に襲い掛かった…。
その日の夜、僕は自分の部屋でスヤスヤと眠っていた。その時だった。
ドッカーン!!
外で大きな爆発が聞こえた。その大きな爆発に僕は何事かと目を覚ました。
ドンドンッ!
誰かがドアを叩いた。同時にガチャリとドアが勢いよく開いた。ドアを開けたのは姉さんだった。姉さんの顔は血相を変えており、その表情で、
「ロシア軍が攻めてきたわ!」
と、叫んだ。ウクライナがロシアに攻めれらたのは今回が初めてでない。過去にも新ロシア派との内戦が起きたことがあった。
「何しているの、早く逃げるわよ!」
姉さんは叫びながら僕をベッドから引きずり降ろして、父さんと母さんと共に外へ出た。
外は悲惨なことになっていた。ロシア軍の猛攻で民家は火の海に飲まれ、地面には遺体が転がり、砲撃や銃声が耳の鼓膜を破く程大きく響く。辺りは悲鳴と怒声が飛び交い、人々は逃げ回っている。しかし、ロシア軍の攻撃によって、次々に死んでいく。
いったい、どうして…。どうして、こんなことに…。ウクライナはロシア側に何もしていないはずだ。なのに、どうして…。
僕はまるでピカソの傑作「ゲルニカ」のような光景に言葉が出ず、立ち止まってしまった。
「ああ!」
父さんの悲鳴が聞こえた。
見れば姉さんが地面に倒れていた。頭から血が流れていた。銃弾が命中したのだ…。姉さんは即死だった。僕を起こしにきてくれた姉さんが家族の中で一番早く亡くなってしまうなんて思ってもいなかった…。
父さんと母さんは姉さんの名前を呼びながらワッと泣き叫んだ。
「戦争では人が死ぬ」確かにそうだが、人が死ぬとはこのことなのか。僕は姉さんの死に言葉が出なかったが、次第に目から塩見のある暖かい水が流れてきた。他人の死と身内の死の悲しみは全然違う。僕が身内を亡くした瞬間だったのだ…。
ゲームの世界でキャラクターが敵にやられて死んだとしてもリセットできるが、現実の世界でリセットはない。姉さんが僕や父さんや母さんの名前を呼ぶことはもうないのだ。悲劇は更に更に襲う。姉さんの遺体を残して車に乗ろうとした時だった。
車が爆発した。ロシア軍のミサイルが車に命中したのだ。車は一瞬にして粉々になり、炎に包まれた。この爆発で父さんと母さんが死んだ。即死だった。その上、ミサイルの爆発で父さんと母さんの遺体はバラバラになっていた。
その光景に僕は、もう何もかもわからなくなった…。姉さんに続いて父さんと母さんの両方を失うなんて…、信じ難いことだった。けど、姉さんの死に続いて、父さんと母さんの死は嘘でなく現実であった。
僕を襲った残酷な現実。その現実に僕はまるで発狂したかのように叫んだ。喉が切れんばかりに叫んだ。そして、地面に異物をゲーゲーと吐いた。もう嫌だ、どうして、どうして、僕がこんな悲惨な目に遭わないといけない…。
それは僕がウクライナ人だから。
それとも僕の生前が実はアベルを殺したカインだから。
答えなんてない。戦争は人が死ぬのだ。もう、やめて! 僕は心の中で叫んだ。けど、僕の訴えは届かない。ロシア軍の攻撃は続く。家は破壊され、地面は遺体だらけとなった…。
気が付けば僕は一人キエフの町を歩いている…。かつては人々が行き来していたキエフも今では廃墟となっている。建物は破壊されている。キエフでも遺体は転がっている。それはウクライナ人やロシア兵の遺体が入り混じっている。
かつては人々が行き来していた頃を簡単に忘れさせるような光景だ。周囲では銃声が聞こえる。ロシア兵の姿は見えないが、どこかで銃撃戦が繰り広げられているのは事実だ。その時だった。
「ヒ…ヒヒヒヒ…」
どこからか君に悪い笑い声が聞こえる。見れば上半身が裸の女性が薄気味悪い笑みを浮かべている。その女性は僕の方に歩み寄ってきた。
「坊や…坊や…、お腹、空いていないかえ?」
あれから僕は何も食べていなかったので、僕は「空いています」と答えた。
「そうか、そうかえ、じゃあ一緒に食べよう。ヒヒヒヒ…」
だが、僕は「空いています」と言ったことを後悔することになった。女性が僕にすすめてくれた食事、それは死んだロシア兵の肉だった。彼女はその肉を火で焼いて、程良く焼けてから口に入れた。
これだけの攻撃を受けたウクライナに食べるものなどないに等しい。戦争は飢餓をもたらす。飢えが極限に達した者は飢えを凌ぐためならば何でも食べる。たとえ犬だろうがネコだろうがケムシだろうが、そして死んだ人間の肉さえも…。
「ああ…、美味い…美味い…。さあ、坊やも食べなさい…」
人に肉なんてごめんだ。たとえ腹が減っていたとしても人の遺体を食べるなんてごめんだ…。僕は怖くなり、ワーッと悲鳴を上げながらその場から逃げた。
もう、嫌だ! こんな悲惨な状況で生き残るくらいならば死んだ方がいい。僕は自殺することに決めた。周囲を見回した。死んだロシア兵からライフルを奪った。弾は入っている。死ぬには絶好の機会だ。僕は死ぬ。死んで天国にいる家族のもとに行く。
銃口を口に入れて引き金を引こうとした時だった。
「待て!」
誰かが僕を止めた。僕を止めたのは一人のロシア兵だった。年は若い。そのロシア兵を見た時、僕の中に眠っていた怒りと憎悪が芽生えた。僕はそのロシア兵に悪口雑言を浴びせて、ライフルを向けた。ロシア兵は僕を捕らえて捕虜にするつもりだ。
捕虜なんてごめんだ。僕の家族を奪った敵の捕虜になるくらいならばこの兵士を殺し、自決した方がマシだ。僕が引き金に指をかけた時だった。
「撃て!」
兵士は叫んだ。
「撃つのならば撃て。俺はウクライナ人に大変申し訳ないことをしたんだ! もう死んで詫びるしか他ない。坊や、俺を撃ってくれ。俺はこれ以上、人を殺したくない!」
見れば兵士の目からは涙が流れていた。僕の中で兵士というのは良心など微塵にもない恐ろしい存在だと思っていた。しかし、この兵士には良心があり、その良心によって自分を殺してくれ、と訴えているのだ。
「ああ、殺してやる。お前らロシア軍のせいで僕の父さんと母さんと姉さんは死んだんだ。僕はお前を絶対に許さない! 死ぬまで恨んでやる!」
「恨まれて当然だよ。たとえ国の命令とはいえ、取り返しのつかないことをしてしまったことに変わりはない。さぁ坊や。俺を処刑してくれ! 俺は地獄へ行く覚悟もできている。さぁ俺を撃ってくれ!」
AK-74の引き金に力を少しでも籠めれば銃口から弾が放たれ、この憎きロシア兵を殺すことができる。しかし、何かが僕に「彼を殺してはいけない」と、引き留める。それは僕の良心だ。良心は僕に訴える。
「悪いのは彼でない。彼は自分の意志でウクライナ人を殺した訳でない。全ては国の命令なんだ。だから、彼を殺してはいけない!」
僕の中で悪魔と天使が戦っている。悪魔は僕にロシア兵を殺すことを制止する良心を嘲笑い、ツバを吐きかける。
「何をためらってやがる。殺してしまえよ。ロシア兵なんざクズなんだよ。お前、歴史を振り返ってみな。ロシア兵ってぇのはソ連時代から蛮行をやらかしているんだぜ」
その一方で天使が僕に訴える。
「銃を置きなさい。彼を許してあげなさい。良心も言っているでしょ。彼は自分の意志で人を殺した訳でない、と。ここで彼を殺したらあなたもあなたの良心を殺したロシア兵と同じ十字架を背負って生き続けなければならないのですよ!」
僕は迷った。そして、僕は…。
「どうして…?」
ロシア兵は僕の行動に呆気にとられたような表情を浮かべる。僕のとった行動。それはAK-74を地面に置いたのだ。
「撃て! 撃ってくれ! 俺を罰してくれ!」
涙ながら強く訴える兵士を僕は抱き締めた。
「あなたを殺しても家族は戻ってこない…。僕の中であなた、いやロシア兵に対しての怒りと憎しみが癒えるには相当な時間がかかると思う…。けど、あなたには良心がある。それも偽りの良心でなく、本物の良心だ。その本物の良心を持っている者を殺せば僕も同罪だ…」
本音を言えば彼を殺したいという気持ちが消えたわけでない。しかし、彼を殺したからといって何の得がある。彼を殺せば死んだ家族が戻ってくるというのか。残念ながら戻ってこない。僕は自分の寿命が尽きる時まで家族と会えないのだ。
それに彼にだって愛する人がいるかもしれない。仮に僕が彼を殺せばウクライナ人とロシア人の憎悪はより大きくなるだけだ。
「坊や!」
兵士は僕をガバッと大きく抱き締めた。
「ごめんよー! ごめんよー! 謝って許されることでないことはわかっている。けど、俺は…ウクライナ人に謝りたいんだぁ!」
彼は泣きわめきながら僕に謝罪をする。更に、
「俺は…俺は、愛する人を殺した。誰だと思う。キエフに嫁いだ妹だよ。俺は手前の身内を殺したんだ。ああ! 俺の手は血で真っ赤に染まっている。ああ! 俺は罪人だー! ああ! 俺こそカインだ!」
聞けば彼は装甲車から機関銃を撃ち、その弾が逃げ惑う民間人に当たり、後にその民間人が自分の妹だったという。なんと残酷なことだろう。たとえ戦争であっても身内を殺してしまうなんてこれ程残酷で悲惨なことはない。
彼はこの侵攻で重罪と言う名の十字架を一生涯背負って生きなければならないのだ。僕は兵士の話を聞いて、彼が僕以上に気の毒だと思った。もう一度言うけど、僕は彼、いやロシア兵を完全に許した訳でない。とはいえ、彼らは自分の意志でウクライナを侵攻したわけでない。
すべては国の命令なのだ。
僕は兵士と抱き合い、そして二人で泣いた…。涙が枯れるまで…。
イグナート・アレクサシェンコという若い兵士は僕をヒョイと抱え上げた。
「行こう」
「どこに?」
イグナートは僕の問いにこう答えた。
「俺と一緒にポーランドへ行こう」
「何だって? そんなことをしたら…」
兵士に敵前逃亡は許されない…。それにイグナートの国の大統領は国民を厳しく取り締まっている人物であり、たとえ軍人であろうと敵前逃亡などすれば苛烈な処罰を与えるはずだ。
「坊や、俺はたとえ自分が死ぬことになっても自分の罪を償わねばならない。それが君やウクライナ人への償いなんだ。さぁ、行こう」
後で聞いたことだけど、彼は既に軍から逃げ出し、自決するつもりいたという。ちょうどその時に僕と出会い、僕に殺してもらうつもりでいたという。僕とイグナートは一台のHMMWVに乗った。イグナートはハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
イグナートが運転するウクライナ軍のHMMWVは運良く損傷がなく、燃料も残っていた。更に運が良いことに車内には軍用の食料するあったのだ。
「ポーランドに着いたら二人で暮らそう。俺は仕事を見付けて君が一人前になるまで育てるよ。その仕事がたとえ人の嫌がる仕事でもいいさ。もう銃を扱ったりするのはごめんだ」
車内からは破壊されたキエフが見える。かつて多くの人々が行き来していたキエフが元に戻るまで相当な時間がかかるだろう。けど、僕は自分の運命に対しての憤りが少しだけ癒えた。何故ならばイグナートのような本物の良心を持っている兵士と出会うことができたからだ。
それだけでも幸運なのだ。イグナートが運転するHMMWVから僕はキエフ、いやウクライナに別れを告げた。
さらば…、ウクライナ…。
終わり。
自分がこの小説を書くきっかけはプーチン大統領によるウクライナ侵攻です。ウクライナといえば黒土に恵まれ、欧州では農業大国でしたが、この侵攻で今までの平和が一気に崩されました。プーチン大統領はこの侵攻について何かと正当な理由を述べていますが、自分としては「あんたの言っていることなんて正当な言い分じゃないよ。バカ!」と、言いたくなります。もし可能ならば某探偵アニメに登場した刑事のようにプーチンを咎めてやりたいくらいです(笑)。
アメリカのバイデン大統領は軍を派兵をしないかわりに武器や資金の提供をすることに関しては「ウクライナを見殺しにした」だの「弱腰」等と叩かれていますが、軍の派兵は慎重にならなければならないのが本音でしょう。
ロシア国内でもこのウクライナ侵攻に対して反対のデモが起き、逮捕者が千人以上も出ていると聞いています。
さて、物語に登場するイグナートという兵士ですが、彼は(たとえ国の命令であっても)軍がしたことに対して凄まじい罪悪感を抱き、少年に対して「俺を殺してくれ!」と訴えます。自分はこの侵攻に対してイグナートと同じくらい罪悪感を抱いているロシア軍側の兵士は多くいるのではないか、と思います。
確かにこの侵攻でロシアは日本を含む世界中から白い目で見られることになってしまいましたが、ここで皆さんに断っておくことがあります。それはこの侵攻はあくまでプーチン大統領の命令であり、ロシアという国と国民が悪い訳でないのです。このウクライナ侵攻に限らずどの戦争にも言えることですが、戦争の最大の加害者は兵士でもなく、軍隊でもなく、その国々の政権を握る者だということです。
自分はこの作品を読んで戦争の悲惨について学んでもらえれば大変うれしく思います。そして、自分の文章能力はB級、もしくはC級かもしれませんが、こんな小説でも読んで「戦争はいけないことだ」ということを実感してもらえたら嬉しい限りです。