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三途の舟渡

作者: 湯本 椛

休憩の傍らに、よろしければ。

 雲一つない空が続いている。


 その青さは、空の下に流れる大河をそっくりそのまま写したようだ。


 空を映した川の真ん中で、ちんまりと浮いた小舟。私の居場所はそこにあった。


 舟渡。向こう岸まで船客を送り届けること、それが私の仕事。


 本来ならば私も船客だった。ここに来る人々と同じで。


 しかし、私には見つけなければならない探し物があった。断片的に欠けている記憶と、心を覆う得体の知れないもやの正体を私はずっと探している。


 だからこうして、私は舟渡をやっている。


 くらい、くらい。川の底に沈んだ、落とし物を探すために。



 ここは三途。


 死人がたどり着く、最初で最後の乗船場。






「三途の舟渡」






 桟橋が見えはじめたところで、舟を漕ぐスピードを緩める。


 舟といっても葦船だ。それほど大きくはないのですぐにスピードは落ちる。


 三途の川は霧に包まれているため、視界に飛び込んできた時にはすぐそこまで近づいているのだ。


 いつか桟橋に乗り上げてしまうのではないか、と体温を感じない体でも冷や冷やしてしまう。


 天気はずっと変わらない。


 どんよりとした重い空は地上に落ちてきそうだ。


 私が舟渡の仕事に就いてから今まで、作られた太陽は燦々と空の灰色に白い光を滲ませている。この太陽が顔を出す日はこないのだろう。


 桟橋に人影が揺らいでいた。


 珍しいことに、今回のお客さんは私の迎えを待っていたようだ。


 いつも待つ側は私だったので、待たれるのは初めてのことだ。


 ゆっくりと桟橋に近づき、お客様が乗船しやすいように舟を停める。


 霧のせいで見えていなかったが、お客様はセーラー服に身を纏う女子高生だった。


 長身で細身の体、モデルみたいなスタイルに凛々しい目元が美しい整った顔立ち。顎に向かって伸びる輪郭は、僅かな膨らみしか持たない。代わりに、胸のあたりが柔らかに膨らんでいる。


 そんな美人を体現したかのようなお客様は、その美しい顔には似合わない悲しい瞳でただ一点、川の底を見つめ俯いていた。



「お待たせして申し訳ございません。……お客様?」



 声が届いていないのか、お客様からは返事がない。


表情は暗く、沈んだ心が川の底に落ちてしまったかのように私の目には映った。



「お客様? どうかされましたか?」



 もう一度声をかけると、我に戻ったかのようにお客様は顔を上げた。表情に仄かな明かりが灯った。


しかし、その瞳は僅かに潤んでいた。



「ああ……すみません。いつもなんです、私。すみません」



 二度謝ったお客様は、そこからまた川の底に視線を落とす。


 言い表したい何かが心にあって、けれども喉の奥でつっかえているような、お客様からそんな感じがするのは気のせいだろうか。


 私は一度舟から桟橋へと足場を変える。



「乗船券はお持ちでしょうか?」



「あ、はい……」



 お客様はスカートのポケットから、親指ほどの大きさをした二枚の小さな木札を取り出して私に渡す。


 どちらの木札にも【安達真桜】と、お客様の名前が彫られている。


 私はこの名前を見た途端、もう一度お客様の顔を見ることになった。お客様は私の視線を感じると、気まずそうに再び深く俯く。


 川の底に視線を落とすお客様の姿は、私の知っている【安達真桜】とは違っていた。


 【安達真桜】は天才子役だった。それ故に有名で、私でも名前を知っていたのだ。


 私の知る彼女は三歳から八歳までで、その先は知らない。


 子役には期限がある、という言葉を耳にしたことがあるが、きっと彼女が子役だったのは私の知るところまでだったのだろう。


 だから、今の彼女はただの高校生であり、そしてなによりお客様なのだ。



「では、こちらに」



 舟の後方に彼女を座らせ、私は受け取った木札の一枚を肩から掛けている真黒なメッセンジャーバックの中に落とす。


 カララン、とバックの中では木札同士が高い音を奏でて衝突した。


 まるで過去のお客様の木札が、彼女、安達真桜を迎え入れたくないと言っているような、そんな音に聞こえた。


 私は焦茶色の潰れたマリンキャップを視界が塞がるほど深く被り直す。


 そして、彼女を安達真桜としてではなく、これから三途をあたるお客様として見なければならないと心に誓いを立て、もう一度マリンキャップを被り直す。


 視界良好、今度は深すぎず浅すぎず。



「出発します」



 静寂に僅かな声を落とす。


 その声と共に、私は船を前進させた。






 桟橋は靄はせいですぐに見えなくなった。


 お客様は名残惜しそうに桟橋の方を眺めている。


 少しばかり前進してから、私はお客様から受け取ったもう一枚の木札を川に落とす。


 まもなくして、木札を落とした場所が仄かに光りはじめ、やがて進む道を示すかのように光の筋へと姿を変えた。


 歪んだ光の筋は霧の中を照らしていく。


 先程まで桟橋のあった方向に目をやっていたお客様だったが、突然の光に思わず振り向き、今では光の筋が伸びていく先に目を凝らしている。


 お客様一人に、一つの向こう岸。他でもない、その人だけがたどり着く終着点があるのだ。


 私は光の筋を辿るように舟を進ませていく。


 しばらく、舟は沈黙を乗せていた。


 ここ三途では、舟渡はお客様に話しかけてはいけない、という決まりがある。そのせいもあって、舟は私とお客様、そして沈黙を乗せて揺れていた。


 しかし、そんな沈黙もすぐに舟から身を投げた。


沈んでいくには底の見えない三途の川。



「……何も、聞かないのですね」



 お客様の声は零れ落ちた一粒の水滴のようだった。


どこか儚ささえ感じるその声は、その言葉は、まるで何かを聞いて欲しいかのような。



「はい、私からは何も」



 そっけないように思われるかもしれないが、これが私の仕事だ。


 私からは聞かない、聞けない。


 話すのならば自らの声で、言葉で。



「……あの」



 浮かび上がってきた僅かな沈黙を引き上げることはなく、お客様は言葉を続ける。



「迷惑でなければ、私の話を聞いてくださいませんか……?」



 その目には、仄かな覚悟が灯っていた。


 自身の話、安達真桜のこれまでを話す覚悟が。



「迷惑だなんてとんでもない、もちろんです。漕ぐ手が疲れましたので、少しばかり三途の機嫌に舟を任せるとしましょう。その間の船旅話に、是非お聞かせください」



 私はオールを舟に上げると、お客さんの迎いに腰を下ろした。


 そして同時に、ここからはお客さんではなく、安達真桜の話を聞くのだと視点を切り替えた。


 視線の先では、安達真桜がぎこちなく微笑んでいた。


 話せることが嬉しいような、それでいてどこか悲しいような。私の目には、その表情が不気味なものに映った。



「ありがとうございます……」



 そういって、安達真桜はどこか遠くを見るような眼で語り始めた。


「私、役者をやりたいだなんて一度たりとも言ったことないんです」


 語り出し、彼女の口からは思いもしていない告白が飛び出してきた。人間、本当に驚いている時は声が出ないものだ。


 私は驚きを唾と一緒に飲み込み、続きを聞くために姿勢を正す。



「家が貧乏でして、私が生まれてから何年かは常にお金に困っていました。


そんな中、私が三歳の頃に父が子役の道を勧めて……いいや、そんなのは聞こえのいいもので、実際には強いられました。


理由はすごく単純なもので、お金が稼げるからです。


ほら、私って見てくれだけはいいらしいじゃないですか? 


小さい頃もご近所さんにはかわいいかわいいって、よく言われたものですから」



 私は語り続ける彼女に適度な相槌を打ちながら、時々舟の軌道を修正する。



「それで、望まずして私は役者業界に入ったんです。


オーディションは、吉なのか凶なのか、あっさり通ってしまって、そこから世間が知る私が完成されていくまでそう時間はかかりませんでした。


子役なんて周りに媚びるように、愛想よく振舞えばいいですから」



辛くはなかったのか尋ねると、当時は楽しかった、と意外な返事が返ってきた。



「なによりもまず、私に関心のなかった両親が私のことを褒めてくれたのが嬉しかったんです。今考えてみれば、私を褒めていたんじゃなくて、私が演じる子役としての【安達真桜】を褒めていたんだなって、ちゃんと分かるんですけど……。でも、当時の私はお金を稼げば褒められる、母も父も笑ってくれるって……子供ですから」



 聞いていて息苦しくなる話だ。


 そんなことを理由に楽しいだなんて、かつて子役の鏡だった安達真桜が言ってしまえば、世の中の子役が皆そうだと思ってしまう。


 鏡に映るのは繕った笑顔。


 周りに媚びを売り、愛想よく振舞えばいいのだと思考された、もはや計算の産物。


 私の知る彼女の笑顔が、音を立てて崩れていった。


 残されたのは、悲しく寂しいただの少女だった。



「……でも」



 彼女の表情が一転、二転。


 恐怖が見えたと思えば、すぐに哀しみへと姿を変えていた。



「七歳の誕生日を迎えた頃、私は子役である私が怖くて、何日も眠れない日が続きました。


いつどこで寝ても、同じ夢を見ました。


【安達真桜】が私を殺そうと、片手にナイフを持って迫ってくる夢でした。


きっと、今だって夢が始まれば眠れない。


その頃からです。私が子役として生きていくのが嫌になったのは……」



 ますます息が詰まる。


 もうじき、呼吸すらまともにできなくなってしまうような、それほどまでに。


 それは彼女も同じようであった。


 どこか苦しい表情を浮かべて、けれども語りをやめることはない。



「私は母と父に子役を辞めたいと切り出しました。


人生七年目の秋のことでした。


案の定……と言いたくはありませんが、やはり父も母も猛反対してきました。特に父がひどく怒りました。


子役じゃなくなったお前に何が残る、と頬をぶたれました。あの時受けた暴力は、なんというか、痛覚以上に残るものがあるというか……今まで暴言は言われてきましたが、暴力は初めてだったので……」



 当時を思い出すように来た道を見つめ、彼女はそっと水面に手を伸ばす。


 ちゃぷん、と指先が水面を貫いて、第二関節まで沈めたところで温度を確かめるように川の水をかき混ぜる。


「何も感じないですね」


「三途ですから」


「ふふ、そうでしたね」


 また嫌な違和感を覚えた。


 突然ほほ笑んだ彼女がそう映ったのもあるが、語り出しの不気味な表情もしかり、何かがおかしいのだ。


 私は得体の知れない不気味ななにかに付きまとわれている気がしたが、彼女が再び口を開いたのを見て思考を放棄する。



「父も母も、私から辞めることを許しませんでした。


なので、私は事務所と相談してクビにしてもらうことにしたんです」



「しかし、それでは根本的解決にはなっていないのでは?」



「そうですね、だから一つ手を打ちました」



 私が唾を飲み込むと、彼女はさも当然かのように淡々と言葉にする。



「中学卒業と同時、私が役者業界に戻ってくることです」



「え」



 思わず声が漏れてしまった。いや、漏れてしまって当然だろう。


 だって、それじゃあ……。



「結局は変わらない? いいえ、そんなことはありません」



 私の脳裏に過った言葉は、一瞬にして彼女によって否定された。


「だって、私が高校生になれば、その時の私が【安達真桜】になる。なりたい【安達真桜】になれる。


やりたいことをやって、嫌なものは嫌だと、思ったことを言って。愛想だって媚びだって売らなくていい。


その未来があれば、この業界にいても私は私でいられる。


それに、母と父が望んでいたのはお金が尽きないことです。


八年間。普通の暮らしなら、私の今までの稼ぎで足りました。すべてが丸く収まる、そう思っていたんです」



 言われて気がついた。彼女が嫌だったのは子役【安達真桜】であって、役者【安達真桜】ではないことに。


 そして、彼女の言う丸く収まるというのは、父も母も納得して自分自身も自分を見つけられる、その道がこれだったということ。


だったら。


どうしてその言葉は過去形なのか?


 どうして彼女は死んでいるのか?


 どうして。


 彼女はこんな話をしているのか?



「思っていた、というのは……」



 聞いてはいけないと、そこで気が付いていればよかったのだ。


 そうすれば、こんな結末を知らずに済んだのだ。


 しかし、もう手遅れだった。


 彼女はおもむろに立ち上がると、舟の上で横たわるオールを手に取った。



「お客様⁉」



 思いもしなかった彼女の行動に、驚きから腰を上げていた。


 中腰のような体勢。


 私は奪われたオールを取り返すように声を上げたが。



「大丈夫、もう間違えないから」



 丁寧だった口調からは敬語が消えていた。


 強情。弱弱しかった第一印象からは想像もつかない。


 彼女の顔を見上げれば、やはりというべきだろうか。


 不気味な微笑みを浮かべていた。



「違ったの」



 なにが。



「私は誰からも望まれる私でありたかった。私は私でありたいだなんて、そんなことなかった」



 いや、そんなはずは……だって……。



「私は、嫌いだったはずの【安達真桜】のままでよかった」



「そんなのって……!」



 立場なんてものは忘れてしまっていた。


 お客様相手だというのに、私の口から出てきた言に丁寧の二文字はなかった。



「……そんなのってない、私も自分でそう思います」



 口調をもとに戻した彼女は、そう思わざるを得ない、と追い込まれるまでの経緯を語り出す。


「けれど、私が役者じゃなくなっても、世間が期待していたのは役者としての私でした。


小学校、中学校、私は私を探していました。


【安達真桜】じゃない、本当の私。さくらを探していたんです」 



「さくら……?」



「あ、そっか。あなたは知らないですよね。安達さくら、これが私の本名です」



「……安達、さくら?」



 あり得ない。彼女の名前が、本名が、安達真桜ではない?


 だったら、なんで木札には【安達真桜】の名前が……。


 ……ああ、そうか。


 私は分ってしまった。


 彼女が渡してきた木札に、安達さくらではなく、安達真桜の名前が彫られていたことに。



「結局のところ、私は【安達真桜】として生きていくしかないんだって。


嫌だと思っていたそのことが本当は私が望んでいたこと、【安達真桜】が本当の私だって。


そのことに気づいた時にはもう、私の中から【安達真桜】は消えてしまっていた。


ずっと探し続けていたさくらがそこには居て、【安達真桜】はどこかにいってしまった。


それで、耐えられなくて……だから、私は自殺したんです」



「……」



「馬鹿ですよね。自分で手放したものが本当は一番の大切なものだった。


取り戻すことはもうできなくて、だからもう全部諦めた。


本当に、私は馬鹿です」



 馬鹿だと口にしながら、彼女は笑っていた。


 不気味な微笑みを浮かべていた。


 もう、全部わかっていた。


 彼女はきっと、この三途を渡り切っても【安達真桜】として歩いていくのだと。彼女の中の安達さくらは、殺されてしまったのだと。


 向こう岸が見えてきた。返すと船を下りる。


 向こう岸では、一人の少女が私たちの到着を待っていた。



「おかえり」



 少女はそう言った。


 誰に言ったのか、そんなものは分り切っていた。



「ただいま」



 安達真桜は少女に優しく語りかけ、手を繋いで歩き始める。


 私はそのうしろ姿を黙って見つめることしかできなかった。


 それは間違った選択ではないのか、なんてことを言うのはあまりにも無責任というものだ。私は彼女ではないし、彼女の人生を歩んではないのだから。


 数歩、少女と共に歩みを勧めた彼女は、唐突に振り返る。


 彼女は一言、お礼を述べてから、でもやっぱりと続け、



「あなたも私も、自殺はよくないですよね」



 自嘲気味に、それでいて不気味な微笑みを私に向け、再び歩き始めた。


 背中を向けた彼女は、意味深に髪をかき上げ、首元にトントンと指をあてる。


 目を凝らせば、そこには二本の黒い線がクロスしていた。


これがバツだと、罰だと、一生消えない呪いのように彼女が示しているように感じ、おぞましくなって私は彼女から少女へと視線を逸らす。


だが、少女もまた不気味な微笑みでこちらを見ていた。


安達さくらが取り戻そうとした、いつかの【安達真桜】の顔を張り付けた少女が。


やがて霧の中へと吸い込まれていく二人の姿を、私は最後まで見ることはできず、代わりに私の中に記憶の破片が落ちてきた。




ああ、私は自分の命を自分で奪ったのだ。


忘れていた。


私も……愚かな自殺者だ。




水面には、私のうなじに刻まれた罰が、黒く揺らいで映っていた。






 重い気分を心に提げて、私は桟橋まで戻って来た。


 人影、だろうか? 霧の中では黒いなにかが揺れている。


今日は先に待たれているのが多い。今日という概念がここ三途に存在するのか、そこは怪しいところだが。


舟を桟橋につけたところで、黒い何かが人影だったことに確信を持つ。


それはだんだんと、はっきりとしたものに……そして、その影が男性だと気づく。


私はまた、いつものようにお客様に声をかけようと、



「……秀人?」



 突如落ちてきた記憶の欠片が、私の口を動かしていた。


 目と鼻の先、三途の川をじーっと見つめていたのは、パンパンに詰め込まれた筋肉が黒光りする肌にかろうじて包まれている、いってしまえばボディービルダーのような体格をした男。


 落ちてきた記憶の欠片よりもいくつか年をとっていたが、それでも呼んだ名前に間違いはないと、不思議なことに自信があった。



「おお、やっときたか」



 舟渡をではなく、私を待っていたかのように彼は言った。



「相変わらずちっこくてかわいいな、お前は」



 だはは、と笑いながら彼は私の頭に手を置く。がしがしと、帽子の上からでもお構いなしだ。


昔と何一つ変わらない。撫でるというよりも、さながらアイアンクロー。痛くはない、だが頭がぐわんぐわんする。



「ちょ、やめろっての!」



「なんだ、照れてるのか?」



「照れるか! 本気で嫌がってるんだ!」



「む、そうか。てっきり俺の彼女になってもいいのかと……」



「万が一でもそれはない。それに……」



 このやり取りも随分と久しぶりだった。



「私は男だって、何度言えばわかるんだ」



 面倒臭くて、それでいて心地良い。



「むむ、そうか。だったらお前は彼氏だな。となると……俺が彼女か?」



「務まるか!」



 幼馴染、金剛秀人とのこの馬鹿げた会話が。



「むむむ、ならば……やはり彼女はお前か?」



「……なあ、堂々巡りって言葉知ってるか?」



あろうことか、三途の川に響き渡っていた。






「それで、なんで秀人がここに?」



 話のループから抜け出し、私は秀人と桟橋に腰を下ろしていた。



「俺が三途にいるのがそれほど珍事か?」



「あたりまえだ。私が秀人と一緒にいた間、実に十五年、どうしたってお前の殺し方だけは思いつかなかったんだ」



「だはは、そりゃ確かにお前にとっては珍事だな」



「まったくだ。何死んでやがる」



「自殺したお前が言えることか?」



「はは、違いない」



 そこには、舟渡としての私はいなかった。


 代わりに生前の私が、秀人の隣で馬鹿笑いするかつての私がいた。


「茜とは会ったのか?」



 唐突に秀人が会話に出してきたのは、女性らしき人物の名前だった。



「茜?」



 私はどこかひっかかる名前だと、僅かな違和感を抱きながら聞き返す。



「七瀬茜だよ。知らないはずないだろ?」



「七瀬……茜……」



 呟きと、瞬間。


 脳裏に記憶の欠片が雪崩のように降り注いでくるのを見た。


 名前とは不思議なものだ、のちに私は語るだろう。



「お、おい……どうした、いきなり泣き出して」



 心配そうに私を見る秀人に、私は涙を止めることなど諦めて、今できる精一杯の笑顔を振りまいた。



「全部……全部思い出したんだ」



 それは悲しさの涙じゃない。


 それは喜びの笑顔じゃない。


 彼女、七瀬茜という名前がすべてを教えてくれた。


 それは「後悔」と向き合えた安堵だ。この涙も、この笑顔も。






 大学二年。二十歳の夏、私は自分を殺した。


 そして二十歳の春、私の誕生日、私は七瀬茜を殺した。


 七瀬茜は、私にできた初めての彼女だった。


 大学生になったのだからと、高校卒業と同時に思い切って真っ赤に染めたらしいその短髪が、まさに綺麗な茜で、一目惚れしてから私の視線は毎日のように茜を追っていた。


 整った顔立ちはまるでお人形のようで、子供と大人の間を彷徨う蠱惑的な雰囲気を黒のキャミワンピが柔らかに包む。そこに惹かれた。


 身体の小さい私よりもさらに小さい、小柄な彼女は、しかしよく食べる人だった。そこにも惹かれた。


 大学で配布される資料はいつも整理されていて、もちろんバックの中身は必要最低限、区画整理されているかのように小分けにされていた。几帳面で真面目な彼女、そこにも惹かれた。


 けれども少し抜けている。容量が悪く、そのためテストの点数が勉強時間に比例しない。よくお茶を溢すし、机の上のものをぶちまける。段差によくつまずく。エスカレーターが怖い。


 全部全部、惚れていった。


 告白をしたのは十九歳の冬。大学一年の時。


 返事はすぐに帰ってきて、当時はノアの箱舟がやってきたくらいの衝撃を受けた。つまりは人生で一番驚いたってこと。


 付き合い始めても茜は茜だった。


 けれど、私だけが知っている茜も少しずつ増えていって、それがたまらなく嬉しかった。



「どうして私なの?」



 自分のことを私ということに、一度質問されたことがある。


 正直話すのは嫌だったけれど、それよりもなによりも、茜になにか隠し事はしてはいけない気がしていた。


 だから、私は正直に答えた。



「昔は男の子が好きだった。だから私」



 笑われるかもしれない、嫌われるかもしれない。とても怖かった。


 でも、茜はしたり顔でこう言ってきた。



「じゃあ、僕が君を変えちゃったんだね。


あ、僕が僕なのはそういうことじゃないから。安心して」



 ますます惚れてしまった。


 彼女の、茜のすべてが私を少しずつ変えていくような、そんな気がしてならなかった。けれどもそれは心地よいもので、そして望んでいることなのかもしれないと、そう思えたのだ。


 けれど。


 茜は病気だった。残された命は少なかった。


 私はそのことに気が付けず、そして茜を殺したのだ。


 最後に茜は笑っていた。


 でも、それでも。


 私は最後まで、涙を流すことしかできなかった。






「お前らが付き合って、それで最後の日、旅行先で茜が死んだのを聞いて……すまん。俺も周りも、お前に変に気を使わせちまった」



「……違うよ」



 涙を拭って、私は秀人の言葉を否定する。


「私はきっとどんな優しい言葉をかけられても、同じように私を殺していた。


だって、私は責めて欲しかったから。


でもさ、責めてくれだなんて、頼んだって誰もやってくれやしない。それで私が自殺したら、その人が殺害者みたいになっちゃうからさ」



「それはそうだが、だからって……」



「分かってる、私が茜を殺しただなんて、自分に対して聞こえ良くしているだけ。


本当は誰にも殺されていない。茜自身でも決められない、残酷な余命の終わり。


でも、あの日まで茜は生き切ったんだ」



 そう、自分宛てに作った、聞こえのいい作り話。


 私が茜を殺しただなんて、それこそ茜の死に対する冒涜で、彼女が聞いたらきっと顔をリンゴみたく真っ赤にして叱ってくれるだろう。


 それでも、私は茜を殺したと物語を主張する。


 それは……。



「……なあ、那月」



 生前もそうだった。秀人が私の名前を呼び始めるのは、決まって大切なことをいう時だ。



「本当は死ぬ理由が欲しかっただけだろ? 茜に会いに行く理由が」



「うん、そうだね……」



 遠く、茜がいるかもしれない、霧の向こうの見えない向こう岸に目を向ける。



「記憶の大切なところが抜けていたのは、私がなにもかも嘘にしてここに来てしまったから……秀人」



「ん?」



「一つ前のお客様が同じ自殺者だったんだ」



 舟渡の決まりで、お客様の情報を勝手に話してはいけない、というものがある。というか、話せないようになっている。


 けれども、こうしていま話せているのは、私が舟渡でなくなったから。


もう、私は誰かを乗せて三途を渡ることはできない。


だけど、それでもいいと思えた。


私は秀人に、思っていることすべてをさらけ出した、



「そのお客様は、諦めるための自殺だったって、後悔を踏みにじるみたいに不気味に微笑んでいた。


私はそれが怖くてたまらなかった。


でもさ、そう思えってことは、私にはまだチャンスがあるって、そういうことだよね?」



「ああ、そうだな。那月なら大丈夫だ」



「……うん、ありがとう秀人」



 照れくさい、なんて感情はなかった。


 柔らかな笑顔が、ほんの少しの涙と一緒に表に出てきていた。


 そんな私の笑顔を見て、少しの間があってから、秀人はいつもの調子で私の頭をがしがしと撫でる。



「那月が女でないのが不思議だ。涙の後にはかわいい、このことだな」



「そんな言葉はないっての。そんで私は男だ」



 こうして、気が付くと私たちは普段のやり取りに戻っていた。






 しばらく、意味のある会話に意味のない会話を挟んで、ゆったりとした川の流れとは正反対な、あっという間な時間を私達は過ごした。


 しかし、ここはどんなに会話がはずもうと三途であることに変わりはない。出会いから別れまで、その時間はあっという間なのだ。


 突然、秀人の体がほの白い光に包まれていく。


 途端に秀人の声が遠くなった。



「むむむむ、どうやらまだ死にきれないらしい」



「む、が多いな」



 いいや、そんなことより。どんなことより。


 急な発光のほうが気になるので。



「で、どういうこと?」



「実は、交通事故で瀕死になっていたところ、神だか何だか分らん奴にここに飛ばされた。察するに、一回は心の臓がとまった……と思われる」



「思われるって……そんで、これは大丈夫だったってこと?」



「そういうことだろう。まあ、死ねない理由もあるからな」



 死ねない理由、と首を傾げた私に秀人は左手の薬指を見せてきた。



「おいおい、浮気かよ」



「……祝いの言葉でも、驚きでもないんだな」



「素直に祝えないのが非常に残念だよ」



「大丈夫、俺の嫁さんは器がどんぶり級だ」



「私が嫌なんだよ」



 なんの意味もない会話を続けるが、さて、と帰りの支度が済んだかのように秀人は腰を上げた。



「もともとはこれを渡すために来たんだ。ほれ」



 秀人の手を離れた何かが、私のもとへ飛んでくる。


 二、三回お手玉して、なんとか地面に落とさずにキャッチする。



「おい、投げるな……って、これ……」



「まあ、そういうことだろ」



 そう口にした秀人の体はもうほとんど透けていて、身体から切り離された光の粒が上へ上へと昇っていく。



「三途も悪い場所じゃなかった。お前と話せたわけだし」



「嫁さんに謝れよ」



「何の話だって呆れられる」



「それもそうか」



「夢の中でかわいいやつに出会った、とだけ言うつもりだ」



「おいやめろ、三角関係はもうこりごりだ」



「生前もそうだった、みたいな言い草だな」



「だってそうだろ?」



「だはは、違いない」



「……元気でな」



「ああ、交通事故には気を付ける。俺が死ぬのはそれくらいらしいからな」



「嫁さんと幸せになれよ」



「遺言みたいだな」



「遺言だよ」



「……そうだな」



「……また、いつか」



「ああ、いつか」



 最後の光の粒が三途の空へ昇っていき、そこには私だけが残された。


 少しの間、私は空を見上げていた。当然、霧ではっきりと空は見えない。


 けれども、私には見えていた。聞こえていた。


 秀人はいまも、あの汚い笑い声で、うれし涙を流し抱きつく嫁さんの頭をがしがしと撫でている。

そんな幸せな光景が。






 私は秀人から受け取ったものを右手に握る。


 道を示す木札。彫られているのは【世良那月】の四文字。


 ここからは、私の覚悟が頼りだ。揺らげばそこまで。


 那月なら大丈夫だ。


 声が残っている。秀人の言葉がある。


 だから、後悔と向き合う覚悟を。


 舟を漕ぎ、桟橋からある程度離れたところで、私は木札を三途へと落とす。


 まもなくして、木札は進むべき道を示す光の筋を連れてきた。


 マリンキャップを深く……いや、私はもう舟渡ではないのだ。視界を狭くする必要もない。


 舟の上にマリンキャップを置き、肩から掛けたメッセンジャーバックも同様に置く。


 ずいぶんと身軽になったのは物理的な重さもそうだが、他の要因もありそうだ。


 オールを両の手でしっかりと握り、一漕ぎ一漕ぎ、私は丁寧に舟を前進させる。


 向かい岸はまだまだ見えない。


 けれども、それを遠いと感じることはないだろう。


 もう迷わない。向き合うと決めたのだから。


 私は一層、漕ぐ手に力を込める。


 すると、目の前、霧の中から舟の先頭が顔を出す。


 同じ道筋とは、珍しいこともあるのだなと、様子を見ているとあることに気づいた。


 前からやって来た舟を漕いでいたのは、七瀬茜だった。



「やっと会えた」



 その変わらない笑顔で、彼女は僕に微笑んだ。


 いざ会えば、言葉が出てこなかった。話したいこと、言いたいことは山にも勝るというのに。



「疲れたよね、おいで」



 その言葉は魔法みたいに、私の体から本能に逆らうことを忘れさせた。


 舟のバランスなどお構いなしだ。差し出された手を取り、私は彼女のいる舟へと足場を移す。


 ぐらり、と大きな揺れ。


 彼女は腕を広げて、体勢を崩した私を胸の中へ抱き寄せる。


 ここは三途だ。だから心音は聞こえないし、温かさも感じない。


 けれど、そこには確かに茜の懐かしさがあった。



「……ごめん」



 随分と泣き虫になったらしい。また、頬を涙が伝う。


「なにが?」



 茜の胸の中で謝る私に、何で謝るのと、優しい声が尋ねてくる。



「茜が死んでから、三ヶ月しか生きられなかった……」



「うん」



「茜が死んだこと、私の死ぬ理由にした……」



「うん」



「……本当は、茜がいない世界で生きるのがつらかった」



「うん。ごめんね」



 ぎゅっと、抱きしめる力を強くして、茜は柔らかな声で謝った。


 でも違う、私は茜に謝ってほしいわけじゃない。



「那月との時間が楽しくて、自分の命がどのくらい残っているのかわからなくなっちゃったんだ。


だから私のせい。那月はなにも悪くないんだよ」



 そんなことない。



「最後の日、私は那月と過ごせたのが嬉しかった」



 茜はそう言って、抱きしめていた私を胸から離すと目を見て言う。



「ありがとう、那月」



 やはり茜は、柔らかに微笑んでいた。



「でもね、後悔もあるんだ」



 後悔、という言葉に、私は胸が締め付けられる。



「本当は、もっと那月と一緒に居たかった。


いろんなところに行きたかった。


私だけが知っている那月を、みんなに自慢したかった」



 私だってそうだ。



「それから」



 続ける言葉。申し訳そうに茜は口にする。



「私の最後の日を、君に背負わせちゃったこと」



「……ほんとだよ」



 私はいままで心の奥にしまっていたものを、すべて茜にぶつけるように言う。



「なんで病気のこと、私に言ってくれなかったの」



「気を使わせたくなかったんだ、ごめんね」



「……それでも、教えて欲しかった」



「そう、だよね。私も今は、那月に言うべきだったって、後悔してる」



「……茜ばっかりが後悔しているって、そんなことない。私の方がいっぱい後悔してる」



 私の言葉に、茜はどこか納得したように頷く。



「じゃあ、二人でその後悔とちゃんと向き合わなきゃね」



 そう、向き合わなければいけない。


 どんなに時間がかかったって、これだけは来世にもっていってはいけないのだから。


 涙を拭い、私は茜の手を取った。



「茜」



 名前を呼ぶ。隣に立つ、愛しい彼女の名前を。



「ありがとう」



 茜はまた、柔らかな微笑みを浮かべ、握る手にぎゅっと力を込めた。


 私も強く握り返す。


 二人を結ぶ確かな感覚が、不安の一切を取り払ってくれる。


 今ならちゃんと向き合える。疑いはなかった。


 光の筋を辿る舟は、ゆっくりと進んでいく。


 やがて私たちを乗せて、舟は霧へと姿を消していった。


三途の川って、あるのかな……?


あと、シリーズものの更新が……おいどうなってんだよってことですね、はい。


猛省しております(なお、ネタが浮かんでおりません)

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