松田と美恵
「おい、てめぇ、いつまでテレビ見てんだ!さっさと酒買ってこいつってんだろ!」
松田が声を荒げる。翔太の母親、美恵の三人目の彼氏だ。半年くらい前から、翔太と母親の住むアパートに同居している。百八十センチほどの背丈で、体格もガッシリしている。おまけに、日焼けサロンに週三で通うため、いつ見ても真っ黒だ。キレると子供相手にも、容赦なく手をあげる。歴代の母親の彼氏の中でも、松田が断トツで最悪だ。
「ちょっと待ってよ。もう少しだけ」
テレビの電源を消されないように、画面の真ん前に立ちながら翔太が言う。毎週夕方六時からはじまるドラコンボールは、この辛い生活の中で、翔太のささやかな楽しみだった。少なくともこの三十分間だけは、現実から逃れられるのだ。
「翔太、行ってきなさい。あんた誰のお金で暮らしてると思ってるの?」
母親の美恵が口を出す。美恵は今年で三十五歳だ。息子の自分が言うのも気が引けるが、他の同級生の母親と比べても、若々しく、きれいな方だ。モデルみたいな体型に、長いまつげと薄い唇。鼻も小さく、顔全体がシュッとして見える。翔太と二人きりの時は。優しく、穏やかな母親だが、松田がいると態度を豹変させ、途端に厳しく、意地悪になる。どんなに松田の方に非があっても、いつも松田の味方をする。
「いい加減にしとけよ、クソガキ。今から十数えるうちに、行かないとぶん殴るからな」と、言いながら松田が目を細めて威嚇する。
「わかった、わかったてば!」
翔太は、あわててテレビから離れた。
松田が暴力を振るい始めると、誰にもとめられない。ついこの間も、食事中の態度が気に食わないというだけの理由で、顔面を何度も殴られたばかりだ。
「十、九、八・・・・・・」
松田がカウントダウンをはじめた。
翔太は、あわてて玄関に向かって駆けだした。
「さっさといけ!クソガキ!」
松田が側を通った翔太の尻を、おもいっきり蹴飛ばした。翔太はつんのめって、床に顔を打ちつけた。鼻がツーンとした。ほんのりと鉄の匂いがする。案の定、すぐに鼻血が出てきた。涙が出そうになったが、なんとか堪えた。松田は翔太が泣くと、さらに激昂し、暴力に歯止めがきかなくなることを知っているからだ。
翔太は助けを求めて、美恵の方に目を向けた。ソファに座った美恵は、チラリとこちらを見たが、何も言わず、読んでいた雑誌に視線を戻した。翔太は、ゆっくりと立ち上がり、トボトボと玄関へ向かった。
二階から階段を下りている途中、翔太の頭の中に、このまま逃げてしまおうかという考えがよぎった。今までも何度も思い浮かぶことはあったが、それを実行に移したことはなかった。その理由は二つある。一つはもし松田に捕まったら、殴られるだけでは済まないということだ。一度、松田に対して口答えをした時は、気を失うほど殴られ、前歯を二本折った。医者は訝しんだが、「同級生と派手な喧嘩をした」という松田の言葉を信じた。あるいは、単にややこしいことに首を突っ込みたくなかっただけなのかもしれない。松田に捕まった時の恐怖が、どうしても逃げようという決心を揺らがせた。
二つ目の理由は、母親の美恵の存在だ。松田が来る前までは、優しくて、美人で自慢の母だった。今でも松田がいない時に見せる母親の優しさは、翔太にとって、真冬に差す暖かい日差しのようだった。松田さえいなくなれば、また以前のような母親に戻るのではないかと淡い期待を抱いていた。
しかし、どんなに松田から殴られても、見て見ぬふりをする美恵をみて疑念を抱きはじめた。母親は自分の味方ではないのかもしれない。翔太より松田の方が大事なのだ。松田がこの家からいなくなることが、何よりも怖いのだ。
そんなことを考えながらふらふらと歩いていると、暗闇の中で皓皓と輝く自動販売機の前に居た。いつもならここでビールと酎ハイを適当に買い、すぐに来た道を引き返す。だが今日は自動販売機の前で立ち止まったまま、動かなかった。目をつむり、拳を握りしめる。